[未校訂](万覚書写(抄))児安惣次左衛門著、享保四年
一 延宝五年十月九日夜の五つ時分少しの地志ん有之 辰
巳沖より海夥鳴来り 釣村より一ノ宮境めまで下通に居
住仕候家数五拾二軒打潰し男女子共百三拾七人死す 牛
馬共二十六匹死。其節のがれ申者共身打痛候者拾四五人
も二、三拾日の中に死去 以上百五拾人余死人御座候
本田地門かや刈道より川田不作、新ほり上小当尻まで下
通りの田ども不残砂はまのことくに砂押上、無田になり
三四年の内に砂はき漸く田地に成り候、下通新田十五年
ほどにて漸く開発仕候然共田畑ともに悪作に成り候
一 津浪水押揚候通り権現前根きしまで大道下せき門通り
下の田道下通りまで浪上り申候道より上は所々少し水上
ケ申候□里六左衛門屋敷よりゑび塚九郎兵衛までの家共
はあと形もなく打流れ申候、その外の家は形少し残り申
候、地引綱地あみ七掛有之候ところ舟網諸道具は打破れ
流地引綱不残たへ申候 その後年を経て地網四掛仕出し
こやし網に引申候、その節はたに置申候境道は皆打流れ
亡失に成り候、打揚られ候者共皆、釣村より北原境まで
中通会所に居住申候、それより年過ぎて本の下通に出て
家とも作り居住申候
この津波のあった翌々年の延宝七年に、一宮本郷村にあ
てた年貢の割附の書類をみると、この津波の被害に対して
米五三俵、銭七三二文が免除されている。
これは延宝五年から二年後のものだけにこの津波の被害
の割りには少な過ぎるようにもみられる。