Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0601425
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1666/02/01
和暦 寛文五年十二月二十七日
綱文 寛文五年十二月二十七日(一六六六・二・一)〔越後〕八王子⇨二十九日
書名 〔越後府中地方史研究〕
本文
[未校訂]寛文五年の地震に就ては直江津の状況を知る詳細な記録は
ないが、前に記した明和八年今町より代官小笠原友右衛門
に上申した書上に「松平越後守様御領分の節には千石積以
上の船も入船仕候」とあるのは寛文の地震以前のことを云
うのであります。此の震災によって地形が変り湊が悪くな
って大船が入港出来なくなったと云う意味です。考え方に
よっては千石以上の大船が荒川へ入ることは如何に其当時
でも出来まい。恐らく今町役人が港の修築に国費普請を請
願するための誇張ではあるまいかとも思われます。然しな
がら寛文の地震によって著しく湊が破壊されたことは事実
であります。福永家の旧記にも
寛文五巳年十二月廿七日七ツ時大地震、高田御城下死
人潰家不知数、小栗五郎左衛門殿知行壱万八千石上
下一人も不残死人怪我有之候
とあり「高田市史」にも
本城の建物残らず破損し……その他米蔵石垣及び士分
の家七百余戸、町家、社寺の破損算なし……圧死する
者侍三十五人、その余の男女百二十人、町人の死傷そ
の数を知らず。
と言っていますから、以てその惨状を知るべきでありま
す。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 317
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.004秒