[未校訂]寛文五年の地震に就ては直江津の状況を知る詳細な記録は
ないが、前に記した明和八年今町より代官小笠原友右衛門
に上申した書上に「松平越後守様御領分の節には千石積以
上の船も入船仕候」とあるのは寛文の地震以前のことを云
うのであります。此の震災によって地形が変り湊が悪くな
って大船が入港出来なくなったと云う意味です。考え方に
よっては千石以上の大船が荒川へ入ることは如何に其当時
でも出来まい。恐らく今町役人が港の修築に国費普請を請
願するための誇張ではあるまいかとも思われます。然しな
がら寛文の地震によって著しく湊が破壊されたことは事実
であります。福永家の旧記にも
寛文五巳年十二月廿七日七ツ時大地震、高田御城下死
人潰家不知数、小栗五郎左衛門殿知行壱万八千石上
下一人も不残死人怪我有之候
とあり「高田市史」にも
本城の建物残らず破損し……その他米蔵石垣及び士分
の家七百余戸、町家、社寺の破損算なし……圧死する
者侍三十五人、その余の男女百二十人、町人の死傷そ
の数を知らず。
と言っていますから、以てその惨状を知るべきでありま
す。