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項目 内容
ID J0601418
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1666/02/01
和暦 寛文五年十二月二十七日
綱文 寛文五年十二月二十七日(一六六六・二・一)〔越後〕八王子⇨二十九日
書名 〔高田市史 一〕
本文
[未校訂] 寛文の地震 寛文五年(一六六五)十二月二十七日(新
暦二月二日)の午後三時から七時ころにかけて大地震が起
った。積雪が一丈四尺もあったので、全市が壊滅的な被害
をうけた。
被害状況
本丸―角楼二つと土居約五〇間
二の丸―城代屋敷
三の丸―[蔀|しとみ][土居|どい]約四十間。大手一ノ門、三の丸
屋敷など。
士分の家―七〇〇余戸
 以上が崩れたほか、本城の全建物及び米倉、石垣、それ
に町家が大半倒壊した。
 豪雪に加えて、夕食時であったため火事が起り、まわり
の雪の壁に逃げ場を失い、あるいは氷柱にさされたり、屋
根からのなだれにあって多数の死傷者を出した。
 この後、屋根になだれどめをおき、雪がこいを改良し
て出口をあけることとした。この風は明治維新ころまで
続いた。(頸城郡誌稿)
死者
家老 小栗五郎左衡門正高、荻田隼人
家中 侍の圧死または焼死三五人、その他の男女約一二
〇余人
町人の死者不明(一書には一、五〇〇人とある)
負傷者
家老 岡部壱岐
出頭人 根津与市(六〇〇石)
小栗十蔵(一、〇〇〇石)
(以上は十二月二十八日、二十九日調査の分―「慶延略
記」による)
 この地震は入国以来、城下の整備、拡張に手をつけてい
た中将家にとって大打撃を与え、領民たちは雪の上に小屋
をつくって寒さにふるえていた(上杉村所山田松繩文
書)。翌六年三月四日、幕府は慰問使岡野[局|つぼね]を高田に派遣
し、米三千俵を見舞として贈った。圧死した小栗正高のあ
とをついで家老となった小栗美作は三月十三日に五万両を
幕府から借りうけることに成功し、そのうち、二万五千両
を城下の復興に用い、間口一間につき一両ずつ、裏町は二
分ずつを貸し与えて市民を救った。(旧市史)
 美作は、この地震を機として、城郭の復興はもとより、
市区の改正を断行した。現在の高田市街の形態はほぼこの
時にできあがったことは当時の地図によってうかがうこと
ができる。
 「関町中御拝借金之留帳」によると、関町(南本町
二)は間口一間につき三分ずつ貸し与えられている。町
によって差のあったことがわかる。借金留帳に全戸の姓
名が記されていることは、他の地方では見られないこと
で珍しい。
寛文六年
関町中御拝借金之留帳
午ノ月
関町中家間敷之覚
一、表口 三間 此金 弐両壱分 阿部次左衛門
一、同 三間 此金 弐両壱分 小出角右衛門
一、同 四間四尺 此金 参両六分弐朱 鹿住兵四郎
一、同 六間 此金 四両弐分 磨ノ庄兵衛
一、同 六間 此金 四両弐分 柴田松右衛門
一、同 五間 此金 参両参分 山下平右衛門
(中略)
百三十間(軒)
右之金高合三百四拾三両弐分也(森平文書)
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 314
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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