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項目 内容
ID J0601101
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1659/04/21
和暦 万治二年二月三十日
綱文 万治二年二月三十日(一六五九・四・二一)〔会津・下野〕
書名 〔塩原風土記〕
本文
[未校訂]万治二年の大地震のため塩原の中心地であった元湯が潰滅
に帰し、(後略)
塩原温泉の元湯と新湯
 元湯は塩原の中で最も早くから知られていた所で、温泉
開発の後、後鳥羽天皇の文治五年に源頼朝が奥州征伐の途
中こゝに入湯したともいい、又梶原景季は何年間か続けて
こゝに入湯のため来た事があるとも云い伝えているが、果
して本当かどうか。恐らく頼朝はこゝを通った事はあるま
い。又梶原景季でなくて、梶原に縁ある者が来塩して、今
の梶原の湯の命名となったのではなかろうか、当時は藤原
方面から高原山を越え、前黒山麓を過ぎて、今の元湯の上
を峰伝いに会津に通じた道があり、是が会津街道として人
々の往来したものであった。
 従って元湯は、この通路による人々の入湯場となり、又
会津と関東との交易所ともなって追々繁昌し、万治元年
(西暦一六五八年代)の頃は、戸数八十余もあり、氏神とし
て大巳貴命を祀った温泉神社と、立派な建築をもった寺院
などもあったが、その翌年二月晦日、俄に大地震が起り、
僅に温泉としては梶原の湯が残っただけで、御所の湯、橋
本の湯、姥の湯、川原の湯、中の湯などの六温泉は悉く全
滅し、一村殆んど崩壊土砂のため埋没してしまった。忽ち
にして生計の道を失った住民達は、無惨な死傷者や、埋没
した住宅の様子を目のあたりに見て、一時は茫然自失した
が、結局梶原の湯守一戸だけを残し、十六戸は今の新湯
に、其の他は高原又は中下塩原の各所に夫々難散転住した
のであった。
○湯本温泉村誌には
万治二年二月晦日、大地震民家倒れ山嶽崩壊して谷地とな
り、人民四散して云々。この頃元湯村と称せり。
○下野神社沿革誌には
晦日の大地震にて六ケ所の温泉渾て壅り、只梶原の湯のみ
残れり。
などと載せられている。今も尚古老の間に、もと元湯は元
湯千軒といって賑わったというような事が言われている
が、千軒は支那流に誇張した数にしろ、相当に繁昌した当
時の事が偲ばれる。
出典 新収日本地震史料 第2巻
ページ 199
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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