[未校訂]第一 加藤正方時代
一 新八代[平城|ひらじろ]の移転新築
元和五年の大地震と麦島城
[麦島城の崩壊]
細川家の重要記録である「藩譜採要」に、
①「当御城(八代城)は、もと麦島にこれあり候うとこ
ろ、元和五年(一六一九)己未三月、地震にて崩れ
ければ、同年の秋、加藤忠広殿、城をいまの地に移
されたく、台命を伺われ、御ゆるしを蒙り、家老加
藤右馬允正方に命じて繩張りせしめ」(「平野流香氏
資料」一頁)た。
と、八代城を移転新築した事情が記録されているとおり、
麦島城が大地震のために崩壊したことは、八代に城郭と城
下町の移転という画期的な大事業を行わせることになっ
た。ところが八代にとって、このような大きな意義をもつ
大地震であったのに、その日や時刻の記録については、諸
書かならずしも一定していないのである。
②「元和五年己未、春三月一七日、大地震動す。山鳴り
谷応え、潮翻り水涌き、城郭崩壊し基階頽毀す。人
畜災にかかり、死傷するもの無数。巍然たる都会、
たちまち荒陵と変ず。(「浄信寺興起録」)
③「元和五年己未春三月一七日辛丑、地震い、八代の麦
島の城楼、頽壊す。」(「通考」二〇三頁)
④「元和五年三月一七日、地大いに震い、城楼崩壊す。」
(「国志」二八三頁の「陣迹誌」)
⑤「元和五年己未三月一七日、地大いに震い、城郭頽毀
す。」(「八代城志」一一枚)
⑥「元和五己未三月一七日、未の刻(午後二時)に大地
震はじまって、年中ゆる。」(「相良年代記」「平野流
香氏資料」一頁)
⑦「元和五年(ある説六年、また七年)三月七日、午の
時(正午)、大地震に城楼崩壊す。」((「国志」二八
二頁)
⑧「元和五年酉(マヽ)三月七日、午の時(正午)八代大いに地
震す。城楼崩壊し、人多く死す。」(「古城主考」の
麦島古城)
⑨「旧記に、元和五己未年、三月七日、卯の刻(午前六
時)より大地震い、午の刻(正午)にいたり、城楼
崩壊す。」(「国志」二六〇頁)
⑩「元和五己未三月七日、八代大地震、麦島の城崩る。」
(「南藤蔓綿録」「平野流香氏資料」一頁)
読みやすいように、漢字と仮名づかいを改め、漢文の部
分は仮名まじりになおしたが、むずかしい言葉があるの
で、先ず語釈を加えておく。
「台命」は「たいめい」と読む。将軍の命令をいう。武家
諸法度の公布により、城郭の移転のような重大事は、将軍
に伺い出てその許しを得たのちにしなければならないから
である。「繩張り」は築城の平面的設計をすることであ
る。
②の「山鳴り谷応え」は、大地震の鳴動・音響が東の高
田・宮地・竜峰の山々谷々に響きあうぶきみな物すごい音
響の描写である。つぎの「潮翻り水涌き」以下は、視覚に
写った悽惨な光景の叙写である。「潮翻り水涌き」は、満
潮時の高潮の襲来と湧水、すなわち地上と地下からの水攻
めの惨状である。崩れる城郭は櫓に重点を、基階は城の石
垣に焦点をあてたのであろ。これらの下敷きになったも
の、その中から命からがら逃げ出して来るものなど、短い
言葉であるが、よく活写されている。「頽毀」は、くずれ
こわれる様である。「巍然」は、山のように高く・大きく・
りっぱであった城と城下町の姿。「荒陵」は、荒れはてた
大きな岡のようになった惨状の描写である。
[元和五年三月一七日]
右に掲げた十の史料は、みな元和五年とするけれども、
月日は⑥番まで五つは三月一七日、⑩番まで四つは三月七
日と、日付けを異にしているのが目立っている。そこで改
めて、大地震の年月日について検討しておきたい。
麦島城大地震の年を元和五年とすることは、右の十の史
料とも一致するところであり、「肥後国誌」(二六〇頁)
は、「あるいは元和七辛酉年、一に元和三年、また元和六
年とする、みな非なり」、五年説を強調している。ことに
加藤時代の八代史料としてもっとも正確な「浄信寺興起
録」と「藩譜採要」が認めていることであるから、元和五
年については疑義はない。
つぎは日付けについては、右の九つの史料中、三月一七
日とするもの五つ、三月七日とするもの四つ、となってい
るから問題であるが、これは「浄信寺興起録」にしたがい
三月一七日とすること、を至当と認めざるを得ない。平野
流香氏は昭和一二年三月、肥後文教研究所の「加藤忠広公
伝記資料」中に、七日は一七日の誤り、であることを指摘
しておられる。
地震の時刻を書いたものは三種あるけれども、「興起
録」に記していないので正午ごろか、正午すぎてからか、
右のうちのどれによるべきかは、にわかに決定しがたい。
「国志」は卯の刻から午の刻にいたる(午前六時から正午
まで)とし、「古城主考」は午の時(正午)とし、「相良年
代記」は未の刻(午後二時)としているように、それぞれ
時間にずれがあるけれども、地震が昼間のできごとであっ
たことと、正午ごろか正午すぎたころにもっともひどく、
そのころに城楼がほとんど崩壊してしまったらしい点は、
三つともほぼ一致している。
[震災状況]
麦島大震災の災害がいかに大きなものであったかは、八
代城(麦島城)を移転しなければならなかった事情を理解
するうえに、もっとも大切なことであるのに、その具体的
な記録が残っていないのは遺憾である。
①「もと麦島にこれあり候うところ、云云、地震にて崩
れければ」(「藩譜採要」)
②「大地震。麦島の城崩る。」(「南藤蔓綿録」)
これは「城が崩れた」という、もっとも簡単な概括的な記
述である。ここに城とは何をさしているのであろう。櫓で
あるのか、石垣であるか、城下町か。またその被災の程度
も知りたいのである。
③「地震い、八代の麦島の城楼、頽壊す。」(「通考」)
④「地大いに震い、城楼崩壊す。」(「国志」の「陣迹誌」
二八三頁)
⑤「卯の刻より大地震、午の刻にいたり城楼崩壊す。」
(「国志」二六〇頁)
これは「城楼崩壊す」と記述している。頽壊も同じ意味で
ある。城が崩れたというのは、城楼すなわち櫓である、と
いうのであるから、これでは被害は建物だけ、ということ
になる。
⑥「八代大いに地震す。城楼崩壊し、人多く死す。」
(「古城主考」)
ここにはじめて多数の死者があったことが見えるのである
が、惜しいことに文脈が明確を欠けため、それが城楼崩壊
のための被災者をいうのか城下町の死者をふくむののか
は、明らかでない。
⑦「地大いに震い、城郭頽毀す。」(「八代城志」一一枚)
これは最初の「城崩る」とよく似た概括的な言葉である。
ただここに城郭を石垣と櫓をふくめた意味にとれば、石垣
も壊れたことになる。そこで前出の城楼を単に「城の楼」
とせず、「城と楼」すなわち「城と櫓(矢倉)」と解し、城
を城壁の意にとれば、以上七つの文書は、みな同じような
被災状況を記述したものといってよかろう。
すなわち、「大地震のため城壁と櫓が崩壊し、多数の死
者が出た」という意味になるけれども、城下町の災害状況
はこれでは明らかでない。ここに「浄信寺興起録」の記録
は、麦島城ならびに城下町の災害状況を、もっとも詳細に
した史料として、八代の歴史に重要な位置をしめるもの、
と言わねばならない。
元和五年三月一七日、肥後の南部を襲った大地震では、
八代地方がとくにひどく、麦島城下はほとんど壊滅的な打
撃をうけたらしい。朝日が昇るころからひどくなり、昼過
ぎまで幾度となく襲いかかる激震で、城下は阿鼻叫喚、こ
の世の地獄と化し去ったのである。
「興起録」によると、「大地が震動し、」「山鳴り谷こたえ
る」不気味な地鳴りにまじって、城の石垣や櫓のこわれ倒
れる物音、人の驚き騒ぎ泣きさけぶ声が入り乱れ、物凄い
鳴動が幾度もいくども襲ってきたらしい。沖には「潮がひ
るがえって」津波が城の石垣へ怒濤のように打ちかかり、
川では「水が涌き」おこって、高潮が城の濠と徳淵の津・
栴檀の津に押しよせて城下町をひたし、麦島は周囲の陸地
から孤立してしまった。
こうした恐ろしい光景の中に、城では「城郭は崩壊し、
基階は頽毀し、」高い石垣は崩れ、空高くそびえた多くの
櫓は倒れあるいは傾く、という惨状であるから、城下町に
ならんでいた数百の小さい民家は、一たまりもなく倒壊し
てしまい、残るものはほとんどなかったようである。
地震がすこしおさまってから、城郭と町のあたりを見渡
せば、さっきまでの「巍然たる都会」は、一しゅんにして
万目「荒陵」の境と変ってしまい、「人や家畜がこの災厄
にかかり、」「死傷者が無数。」実に前代未聞の惨状であっ
たことが、この描写によってまざまざと眼の前に浮んでく
る。
八代川口北側低地に移転
[城の移転新築を許される]
麦島城大地震の結果、城壁はいたるところ崩れ、数十の
櫓は倒壊あるいは傾き、城下町八百~九百戸と推定される
武士・町人の家が、ほとんど倒れるという壊滅的な打撃を
うけたのであるから、忠広・正方はじめ老臣たちが、麦島
城の復興について、日夜心をくだいたことは、いうまでも
あるまい。
忠広は江戸参覲の勤めがあり、正方も熊本定府の勤めを
もっているから、地震のとき二人は熊本と八代にいたもの
と考えることはできまい。もし忠広がこのとき江戸屋敷に
いたとすれば、急使が江戸へ着くのは四月の中旬になる。
それから忠広が暇を賜わって熊本へ帰国するのは、五月末
となるから、そのうえで麦島城の復興策を立て、また参府
して幕府に願い出で、その許可をうけねばならない。
八代・江戸間は、往復二ケ月以上を要した時代であるか
ら、二回往復するだけで四~五ケ月はかかる。これに、内
輪の計画や相談の日数と、幕府の老中衆その他の諸役人に
対する儀礼や折衝の日数を加えると、復興問題の解決は、
決して容易なことではなかったであろう。それにいま一つ
重要な問題がある。それは城郭の修繕や新築に対する厳重
な法令が出された直後であったからである。(中略)
藩譜採要に記録されたように、
「同年(元和五年)の秋、加藤忠広殿、城をいまの地
に移されたく、台命を伺われ、御ゆるしを蒙り、家
老加藤右馬允正方に命じて繩張りせしめ、」
と、移転新築ができるうえに、麦島のときよりは城郭も城
下町も大規模に拡張することが許されたのである。右の二
法令からみれば、夢ではないかと思われるほどの大成功を
収めたわけである。まことにすばらしい手腕であった。