[未校訂]慶長の地震
慶長地震に関する本郡の資料は鞆浦大岩の碑文と宍喰浦旧
記の二つが主たるものである、鞆浦大岩の碑文は左の如く
である。(原漢文)
敬白、右意趣は人王百拾代御宇、慶長九甲辰季、拾二月
十六日未亥の刻、月常より白く、風寒く行歩凍る時分、
大海三度鳴る、人々大に驚き、拱手する処、逆浪頻に起
り、其高十丈、来る事七度、大塩と名づく也、剰へ男女
千尋の底に沈むもの百余人、後代に言ひ伝ふる為、之を
興し奉る、各々平等利益は必ずなり。
宍喰浦旧記に記する処は左の如くである。
慶長九年十二月十六日、辰半刻より申上刻まで大地震に
て同酉の上刻月出の頃より大浪入来り海上凄ましく、総
浦中泉より水湧出する事二丈余り上り、地裂沼水湧出
し、言語に絶たる大変にて其頃皆々古城山(愛宕山)に
逃登る、人数百七拾余人老少は道にて浪に打倒れ皆々流
死す、町家寺院等流れ又は倒れ悉く破れ失ふ、諸道具混
乱、又は地に打埋所一尺或は土地に依り二尺三尺砂に埋
る、十七端、十五端帆廻船数艘、日比原在より奥へ流込
み、其外小船等正梶井関へ懸りありし也、山野にて飢を
凌ぐ、三日三夜、ほうろくにて食を煮焼きて命を繫ぎ霜
雪に閉ぢ、衆人困窮いふ方なく、溺死人一千五百余人、
翌十七日八時より山下り見るに城山より西北方一面人々
死骸目も当難く、北往還筋も同様にて其節久保在所内に
二ケ所総塚にて死骸埋め、其後地蔵石仏を建立す、祗園
山西山際也。
慶長九年(西暦一六〇五)の地震海嘯 旧一二月一六日に
起った地震海嘯で本町は其影響が比較的少なかったやうだ
鞆、宏喰などは海嘯で大害をうけた、本町には此時の資料
は殆んど残ってゐない。