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項目 内容
ID J0502373
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(一五八六・一・一八)〔畿内・東海・東山・北陸の諸道諸国〕⇒津浪も襲来・翌年十二月まで余震続く。
書名 〔フロイス日本史 5〕
本文
[未校訂]第六〇章(第二部七七章)
グリゴリオ(・デ・セスペデス)師が小
豆島で行なった布教、および五畿内地方
で生じた異常な地震について
(前略)
 本年、(すなわち)(一五)八六年に、堺と都からその周
辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起った。
それはかつて人々が見聞したことがなく、往時の史書にも
読まれたことのないほど(すさまじいもの)であった。と
いうのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさ
して珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大き
く、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは(日本)の
十一月一日のことで、(我らの暦の)一月の何日かに当る
が、(10)(突如)大地が震動し始め、しかもふつうの揺れ方で
はなく、ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四
晩休みなく継続した。
 人々は肝をつぶし呆然自失の態に陥り、下敷きとなって
死ぬのを恐れ、何びとも家の中に入ろうとはしなかった。
というのは、堺の[市|まち]だけで三十以上の[倉庫|グドンイス]が倒壊し、十五
名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
 その後四十日間、地震は中断した(形で、日々が)過ぎ
たが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の
毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
 地震がもたらした被害は甚大で、破壊された町村は数知
れず、(その惨状は)信じ難いばかりであった。ここでは、
それらの目撃者が後日、司祭たちに語った主なことだけを
述べることにする。(11)
 近江の国には、当初、関白殿が(織田)信長に仕えてい
た頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を
(数える)町がある。(そこでは)地震が起り、大地が割
れ、家屋の半ばと多数の人が呑みこまれてしまい、残りの
半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。その
火が天から(来たもの)か、人間業によるものか知る者は
いない。
 都では、若干の家屋と[壬生の堂|ミブノドウ]と称せられる大きい[社|テンプロ]
(12)が倒れた。我らの[修道院|カーザス]は高い(建物(13)で)あったので危険
に曝され、キリシタンたちは倒壊しはしないかと大いに危
惧したが、頑丈にできていたので、(我らの)主(デウス)
は保持されることを望み給うた。とはいえ、それは他の家
屋同様に(上下、左右の)震動を免れ得なかった。
 若狭の国には海に沿って、やはり長浜(14)と称する別の大き
い町があった。そこには多数の人々が出入りし、(盛んに)
商売が行なわれていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうち
にその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山に
も似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な
勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留
めないまでに破壊してしまった。(高)潮が引き返す時に
は、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の
泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてし
まった。
 美濃の国には、日本でもきわめて著名な一城(15)がある。同
城にはかって我らの(同僚である)一司祭(16)がいて、幾人か
のキリシタンをつくっていた。その城は山上にあったが、
地震が始まると、城と山は下方に崩れ落ちて、その跡には
一面の湖が残るのみとなった。(17)
 伊勢の国にも大異変があって、(このたびの)地震と、
その驚愕すべき破壊の中には亀山と称する城の倒壊も混じ
っていた。
 これら上記の諸国では、巨大な口を開いた地割れが生
じ、万人に恐怖をもたらした。その割れ目からは、黒色を
帯びた泥状のものが立ち昇り、ひどく、かつ忌むべき臭気
を放ち、そこを通行する者には堪え難いほどであった。
 これらの地震が起った当初、関白(秀吉)は、かつて明
智(光秀)の(ものであった)近江の湖のほとりの坂本の
城にいた。だが彼は、その時に手がけていたいっさい(の
こと)を放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶように(18)して大坂へ避
難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからで
ある。
 (関白)の新しい建物と城は、ひどく揺れはしたが倒壊
するには至らなかった。
 (関白)は、大地の震動が四日も継続し、(人々の)恐
怖と驚愕が鎮まらぬ間、奥方および自分の婦人たちを伴っ
て[館|カーザ]を出、御殿の中の黄金の屛風で囲まれた、ある地所に
身を置いた。
 その大坂では、関白の弟の美濃殿(秀長)の館が倒壊し
たが、その館はすこぶる頑丈、宏壮、かつ美しいものであ
ったから、倒壊するなどとはとても考えられないことであ
った。
 この(地震)が続いた間、(および)その後の数日間は
この話で持ちきりで、異教徒たちは、日々目撃すること
や、遠隔の地の(惨状)を耳にするたびに、言いようもな
い恐怖に打ちのめされた。だがその後、ごくわずかの月日
を経てからは、まるで何事も生じなかったかのように、(地
震)について話したり思い出したりする者はいなくなっ
た。
(10)日本暦の十一月一日“prim.〓dia da sua undecima
Lua”(f.385)とあるが、それは一五八六年十二月十一
日にあたるから、誤記であることは言うまでもない。こ
の地震は天正十三年十一月二十九日、すなわち一五八六
年一月十八日のことであった(「史料綜覧」十二ノ一一
五ページ)。
(11)この天正十三年の大地震は諸書に記録された。(注、
以下「当代記」と「多聞院日記」の引用あるも省略)
(12)壬生寺。京都市坊城通り仏光寺通りにある。
(13)四条坊門姥柳町にあったいわゆる南蛮寺、三階建。
「五畿内篇」I、第四六章参照。
(14)秀吉による若狭の検地帳その他によるも「長浜」の
地名を見出し得ない。「高浜」の誤りであろうか(「福井
県史」第一冊第一編、五三二、五三七~五三九、五四八
~五五三ページ参照)。
(15)大垣城を指す。創設の年代については諸説がある
が、おそらく天文年間と見なされている(「新修大垣市
史」通史編一ノ四二〇、四二一ページ)。本丸と二の丸
を持つ小城であった(同、四五二ページ)。
(16)グレゴリオ・デ・セスペデス(「豊臣秀吉篇」I、
第六章注(18)、「南蛮研究」七九七、七九八ページ)。
(17)「一柳家記」は天正十三年十一月二十九日のこの大
垣の地震のことを記し、「居城濃州大柿悉く覆り、その
上出火し城中一家残らず焼けた」とある。天正十六年六
月に天守閣を創建した(「新修大垣市史」通史編一ノ四
二七、四五六ページ)。
(18)原文“pela post a unha de cavalo”(.f386)“posta”
は馬の乗り継ぎ場。“a unha de cavalo”は、おそろし
く速いことを形容した言葉。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 138
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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