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項目 内容
ID J0502094
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕遠江・三河・駿河・甲斐・相模・伊豆・京都・奈良・会津⇒十一月二十九日
書名 〔大湊町誌〕○伊勢渡会郡
本文
[未校訂](皇代記付年代記)
同(明応)七年戊午六月十一日丙子日未尅大地震、同八月
廿五日己巳日辰尅又大地震に高塩満来而 当国大湊八幡林
の松樹上を大船など打越て、長屋郷まで浪入と云々、仍大
湊家数千間流失、人数五千余人死亡云々、
野川原新田 野川原荒地は大湊領元田の旧地にして、志宝
屋神社々域たりしが、明応の大地震に流亡して荒野となり
しを、後田畑に開墾して、旧称により元田と呼べり、然る
に明暦の海嘯にて再び流亡して、其中央流域となり、野川
原に渡耕するの不便を生じたるより、荒蕪のまま放棄せし
に元禄年代前樫原村の者松山となし、元禄年中に至り新田
に開拓し、後又土路村より松を植ゑし由
本町字明神明神西明神裏は、往古大塩屋村と称し、家数六
七十軒を有し、悉く製塩を以て業と為し、両太神宮へ御塩
調進せし所又其北に当る野川原新田、大口新田及び同附近
は野川原村、中沢村、大口村と称し、元本町の出郷にし
て、農を以て専業と為したりしが、明応七年戊午八月廿五
日地震津波に逢遭し、人家の流亡頗る多く、残存者僅に逃
れて本郷に転住し、田畑は悉皆荒廃に帰せり
大湊波除堤は俗に洲の鼻と称し、神都東海の一要害とし
て、古来最も厳重に修理せしが、明応の大海嘯にあひて地
勢一変し、以後頻りに怒濤の浸害を受けて、町民堵に安ん
ずる能はす、四面河海の中に在りて天災地変を危惧し来り
しに、宝永の大地震にあひて八幡宮域北方の磯山崩壊流失
し去りて海となり、次で享保十三年七月九日の高汐に、波
除囲四百五十六間、町並囲堤百三十三間全破損し、同十七
年六月の大風雨高波に堤腹付石四百五十六間、上置三百八
十四間潰崩し、天文三年八月六十八間小破、宝暦四年堤腹
付上置共五百十五間破損、天明元年七月腹付石三百七十六
間破損、天保七年八月小破、安政元年十一月地震津浪に東
南端二十余間潰滅、同二年六月腹付石四百八十一間破壊、
同五年七月大破、同六年八月小破、万延元年五月、七月両
度腹付石四百二十六間余崩破せり、此の要害の被難に就て
は、町民より官に請ひて工事費の補助を受け、微力を忍び
て其修理を成せしが、享保五年大破の時、山田奉行保科淡
路守公裁を仰ぎて修築費金千三十八両を下付せられしより
以後、公儀普請と定められ、監督吏出張して修理を加ふる
こととなれり、享保後の大普請は宝暦四年の千三十三両、
天明元年の千四百両、安政二年の九百九十両、万延元年の
二千両等なりとす
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 124
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 三重
市区町村 大湊【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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