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項目 内容
ID J0502073
西暦(綱文)
(ユリウス暦)
1498/09/11
西暦(綱文)
(先発グレゴリオ暦)
1498/09/20
和暦 明応七年八月二十五日
綱文 明応七年八月二十五日(一四九八・九・二〇)〔伊勢・紀伊・諸国〕遠江・三河・駿河・甲斐・相模・伊豆・京都・奈良・会津⇒十一月二十九日
書名 〔ふるさと百話十〕▽
本文
[未校訂]○「今切の渡しと舞阪」
明応七年(一四九八)八月二五日大地震と津波で一瞬のう
ちに舞沢は押し流され湖底に没した。難を逃れた三十六戸
の人々は、東方松原に居を求めて移り住み、舞沢の復興に
努力して今日の舞阪を築きあげた。舞沢の切れた所をそれ
から今切と呼ぶようになった。縁談がまとまった若い女性
は今切れの呼名をきらって、湖北の岸を通る本坂峠道を選
ぶようになり、この道を姫街道と呼ぶようになったともい
われている。
 弁天島は、この津波のため大石が崎の先端が切れ離れ島
となった。この島に今切り渡船の海上安全の守護神として
弁天神社を建立したのは、宝永六年(一七〇九)のことで
ある。

○「渡船の宿・新居」
古代の新居は「正倉院古文書」によると「新居郷は百十戸
人口六百七十七人」とあり、浜名湖に突き出した安礼之崎
(あれのざき)で湖水が太平洋に通ずる浜名川の川口の右
岸にあった。この辺一帯は波浪が荒かったので荒井などと
もいわれた。明応七年(一四九八)の大地震で今切がで
き、古来の淡水湖が鹹水湖と変わった。その後元禄五年
(一六九九)同十二年、宝永四年(一七〇七)とたびたび
の津波で被害甚大のため宿場を西方に移し、三回目に現在
の関所の地に定めた。

○「国境の宿・白須賀」
「(中略)今坂の上に住む所以は、明応より以来急波(は
やなみ)数々ありて、宿駅既に潰ゆ。元禄十年駅家を移
し、旧地を謂って本白須賀と号す」と。また「東海道名所
図絵」は「荒井まで一里二十六町又白菅とも書す。須賀は
東国の俗語に真砂のあつまりたる所をいふ。洲賀と書くべ
し。賀は助字なり。横須賀蜂須賀もこれに同じ……」とあ
って、現在潮見坂の東方崖下に元町という半農半漁の簡素
な部落が残っている。この付近が移転前の白須賀宿の位置
だったといわれているが、元禄年間の移転(ママ)で、白須賀の移
転は宝永四年の大地震津波の被害によって、その翌年(一
七〇八)とみるのが妥当のようだ。
出典 新収日本地震史料 第1巻
ページ 116
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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