[未校訂]寺尾泊沖より大津波にて角田、古潟、砂山、飛島、榎島等
打崩し海となる。(越後年代記)
越後風土考に曰く、寛治六年九月大津波ありて角田山より
西北の方、其頃の北陸海道大越より一面、榎木島、沖見
島、北見島等西南の孤島共数十万頃の地を打壊し、其泥砂
は乗足島より東南の入海に注げり。是より大に国の形を一
変せり。其後に至りても北海怒浪の為め島尻追々破壊せし
は古絵図に照して明かなり。
越後風俗考に曰く、当国の儀は寛治六年の津波までは田も
畑も肥い、山野には樹木多く、用水充分、入海の船澗ひろ
く漁も盛ん也。住民次第に殖えしも地を争ふことなく和合
を大体とし、領家に随順してさきはふ国の誉あり。津波以
後は住民所を替へ、剰へ出羽、奥州よりも人多く移り来
り、追々新田開けたるも沼入の材木多く、用水不足古田畑
疫弊する所甚だしく、漁を営む地変動し彼是住民の和合破
れ、領家の下知に帰復せず国の誉大にそこねたりと古人言
ひ伝ふ所なり。
温古之栞に曰く、寛治六申年九月当国の海大いに荒れ角田
山より西北の方大越(当時の北陸街道)、折戸浜、古潟、蒲
津、鳴戸浦、長浜、立間、外立間、大浦、吉津、内羽見、
外羽見、内郷、中郷、外郷、榎木島、上浜、下浜、松浜、
北見、沖見の浜浦及び白山、砂山、飛山等数十万頃の地を
打壊し、其土砂は乗足島以南の入海に注入せり。此時人畜
の死傷数知れざりし由。関矢凌雲の越後風土考にも見え、
且つ稀世に伝はりし庚平三子年(寛治六年より三十二年前)
調製の国絵図に照して明かなり。八百年後の今其場所を望
見すれば千尋の海と変じ、戦慄惨憺の感情に堪えざらしむ
る処なり。
温古之栞に曰く、北見が島は岩船郡塩谷浜の南に当り海上
一里半、周囲二里余の一孤島、北陸海道乗足より塩谷へ渡
口の船次にて草木栄え、遠望恰も画きし蓬萊の島に似た
り。神仙のすみかとも思はれ名高き島なりしに、寛治六申
年九月海嘯のため陥没せし由。(後略)
和田悌四郎著越佐歴史に曰く、寛治六年風雨数日已まず、
忽ち逆浪天に滔りて西北より来り、轟然陸地を嚙み幾多の
人畜は見るまに海底の藻屑と消え、海府浦浜笠島親不知の
海岸は此海嘯の為めに崩れて今の奇状をなせり。又寺泊以
北角田に至るまでの間古潟、砂山、飛山、榎島、松浜等皆
此災の為めに海となる。越後の地形に大なる変化を来せる
こと知るべし。
寛治年中津波に関する記録(村上町篠田達次郎蔵)
同年八月大津浪水湛へる事六夜七日、越後半国大痛み山々
峰々へ逃登り、最早世も是までに尽き候か又如何成行き候
かとかなしき事かなどなげき甚だし。逃登り候若き者ど
も、たたへる汐に飛入り死するもの多し。其中に老人申
様、如何に若きものども日天様は時々而も御照し被成候へ
ば、是より渓へ下り寄くずを拾ひ営を送れと申せぽ、皆人
心強くなりて夫より寄りくずを拾ひ上げ天の恵みを待ち居
たる也。海より汐込入ること七度に及ぶ。又七日には天よ
り星降り候事おびたゞし。七日目に汐引き候へぽ木舟山ぬ
けて大海となり、然れども海とも潟とも川ともなく唯水溜
り多く其時村数潰れしこと八百八ケ村といふ。尤も潰れし
村一人も助からず候。其の時乙の大日如来おかたにとまら
せ給へて、一王子、二王子、三王子と申す者山々へ登る者
を今の二王子山へ呼び集め、米出山より米運び三ケ年の間
人々を助ける也。小国川の渡り川砂山の如くに厚く上り、
両川より汐水はせ込み潟となる。紫雲寺と申す大寺あり。
此寺内に困窮なる僧坊三十三ケ寺水中に沈む。城下村数潰
れ候事おびたゞし。其節出羽海道二王子山の麓より神明、
田中、皷岡、大長谷此処へは水あがらず云々。(「相馬清九
郎此書有のまま書継申候」とあり)
小林房太郎著大日本帝国地誌に曰く、洪水によりて生ずる
津浪は其例甚だ多く、寛治六年八月三日大水にして津浪を
起せし記録あるも、蓋し大風と共に発生したるものに外な
らず。
寛治年中津波に関する記録(土沢大沼家所蔵)
寛治年中に古今未曾有の大洪水あり、下関之内荒川堤防破
壊し、大蔵神社の後より内須川口上手を押流し赤谷を経て
上土沢雲泉寺大門迄荒川となり、貝附、狭口両方の山崩壊
し閉塞し、湛水すること数百丈、関谷、女川泥海と化し、
桂山、阿古屋谷の低き所より水を越したり。其時稲三把と
馬の鞍山に引掛りたり。依て三把鞍山と称するに至れりと
云ふ。今尚土沢田圃地下に欅の大木埋もれる所数多あり云
々。
紫雲寺新田由来記(竹前家所蔵、享保十二年)に曰く、上
略風吹立震動雷電大雨車軸の如くに流す事六七日昼夜止ま
ず。五六百年来田畠になりし所山々より流れ落る水勢鳴動
すること、さながら洪波の如くなり。是れ如何なる悪魔の
障りならんと人民生きたる心地なく恐怖せざるはなかりけ
り。然るに時の地頭、代官衆より名高き名僧智識に祈念い
たさせ候故漸く六日目の朝大雨止みぬ。然るにお福女此潟
に居らずして南の方三里四面に水を湛へ潟となし其処の主
となる。則ち今の福島潟是也。(後略)
越の海に曰く、米水の浦とは弥彦山の西今の裏浜といふ所
なり。往古は此辺陸地にて海中多少の島嶼ありしが、堀河
天皇の御宇寛治年間海嘯にて風景絶佳なる眺めも忽ち海伯
に奪ひ去られて、今は山足まで波打寄せる浦さびしき有様
とは成りにけり。此時沼垂郡の一部も大潮に破壊せられ、
僅かに今の沼垂の地を残して余は皆洋々たる海面とぞなり
にける。(中略)
北越古事談に曰く、寛治五六年の大災は地震、海嘯にて人
畜死傷あまたなることを記載すれば、新潟海面弥彦山、米
山、親不知浦などすつかり陥没し江渟の区域をすつかり洗
へ去らる。