[未校訂]安政三年八月二十四日より駒岳附近に於て時々鳴動を聞きし
が、二十六日巳下刻午前十一時夥しき鳴響と共に噴火し、折しも
北西風強烈にして、鹿部村・本別村邊は燒熱せる砂石夥しく
降下し、燒死する者二人、家屋の燒失十七棟、大破十五棟、
其外物置、漁船等の損害あり。村民鍋釜等を冠りて避難し、
多くは本別橋折戸川に架すの下に潜みたり。又南麓の留湯は砂石の
ため三丈餘の下に埋沒し浴客等十九人或は十五人と云ふ死亡せり。砂
原・[掛澗|カカリマ]・尾白内・森等の人民並に南部藩の戌兵は、鷲木村
に避難せり。此日灰烟上層の風に乘じて東方に靡き、鵡川・
沙流邊は烟中電光四射し雷鳴轟々、降灰三四寸に及び、大津
は暮刻電光一閃、硫臭鼻を衝き、灰降ること六七分、協和私役に據
る其他降灰は落石今の根室國花咲郡の内五六分、觀國錄に據る斜里凡そ二寸、
常呂凡そ一寸簡約松浦武四郞傳なりしと云ふ。其後噴火の勢次第に衰
へしも、九月朔日北東風にて上湯川・龜尾邊に灰降り、尚ほ
同月中は嶽の附近震動し、箱館に於ても時々地震を感じた
り。此變災に當り無難なる隣村の有志は、飯の焚出をなして
避難者を救濟し、官に於ては救助米を施し小屋掛料を貸付
せり。