[未校訂]安政二年には江戸に大地震があつたが、其の翌年安政三年七
月廿三日三陸海岸に津浪が襲來した。此の日朝から地震があ
つたが正午頃の大地震で津浪が起つたのだ。當時青葉のころ
には津浪がないと傳へられてゐるので油斷してゐた爲め被害
がかなり多かつた。其の後快晴の日は幾日も續いたので、罹
災者は每日幾度となく襲ふ地震におびえて裏山に逃げ上り、
バラックを建てたりして避難して居たが何時になつても地震
が納らないので、大槌方面では小鎚神社に群集して御祈りを
上げて地震の鎭まるのを祈つた。廿九日の朝は西風で快晴で
あつたが、夕方になつて大雷雨が來たので山の中に避難して
居た人逹も堪えられなくなつて、自分の家に一週間目に歸つ
て來た。八月になつてからは雨が多く、三日ころになつて漸
く代官所の救護の手が延びて來て、小島大梅氏の實驗記に依
ると、
三日北風冷気、小雨終夜降り五ツ頃より雨晴れ曇り今日御
代官所より困窮者にのみ一人に付き御米二升二合當り御貸
付なされ神友兵衞下役根守純平殿北通り御見分として出張
なされ、
とあるが、罹災者に米を貸付けたとは馬鹿にした救護方法で
ある。これから見ると町人の金持の方が氣がきいてゐる。
四日北風小雨降、須賀通り藤屋、借家住の者へ中宿屋儀左
衞門より二軒へ玄米三升宛、福島屋五兵衞より五升宛給與
す。
とある所を見ても、町人の方が氣前がよかつた。南部史要に
よると、此の時の津浪は宮古附近は甚しく、家屋の流失、倒
壞百餘に上ると書かれてゐるが、前記の如く大槌方面の被害
も相當に多く三陸一帶に亘つて居た。