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項目 内容
ID J0400709
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1856/08/23
和暦 安政三年七月二十三日
綱文 安政三年七月二十三日(西曆一八五六、八、二三、)十三時半頃、北海道東部・津輕・三陸沿 岸、強震、津浪ヲ伴ヒ、被害少ナカラズ。
書名 ☆〔三陸沿岸海嘯史〕○昭和八年三月―四月東京日日岩手版所載
本文
[未校訂]安政二年には江戸に大地震があつたが、其の翌年安政三年七
月廿三日三陸海岸に津浪が襲來した。此の日朝から地震があ
つたが正午頃の大地震で津浪が起つたのだ。當時青葉のころ
には津浪がないと傳へられてゐるので油斷してゐた爲め被害
がかなり多かつた。其の後快晴の日は幾日も續いたので、罹
災者は每日幾度となく襲ふ地震におびえて裏山に逃げ上り、
バラックを建てたりして避難して居たが何時になつても地震
が納らないので、大槌方面では小鎚神社に群集して御祈りを
上げて地震の鎭まるのを祈つた。廿九日の朝は西風で快晴で
あつたが、夕方になつて大雷雨が來たので山の中に避難して
居た人逹も堪えられなくなつて、自分の家に一週間目に歸つ
て來た。八月になつてからは雨が多く、三日ころになつて漸
く代官所の救護の手が延びて來て、小島大梅氏の實驗記に依
ると、
三日北風冷気、小雨終夜降り五ツ頃より雨晴れ曇り今日御
代官所より困窮者にのみ一人に付き御米二升二合當り御貸
付なされ神友兵衞下役根守純平殿北通り御見分として出張
なされ、
とあるが、罹災者に米を貸付けたとは馬鹿にした救護方法で
ある。これから見ると町人の金持の方が氣がきいてゐる。
四日北風小雨降、須賀通り藤屋、借家住の者へ中宿屋儀左
衞門より二軒へ玄米三升宛、福島屋五兵衞より五升宛給與
す。
とある所を見ても、町人の方が氣前がよかつた。南部史要に
よると、此の時の津浪は宮古附近は甚しく、家屋の流失、倒
壞百餘に上ると書かれてゐるが、前記の如く大槌方面の被害
も相當に多く三陸一帶に亘つて居た。
出典 日本地震史料
ページ 672
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 岩手
市区町村 盛岡【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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