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項目 内容
ID J0400606
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(西曆一八五五、一一、一一、)二十二時頃、江戸及ビ其ノ附近、大地震。震害ノ著シカリシハ江戸及ビ東隣ノ地ニ限ラレ、直徑約五六里ニ過ギズ。江戸町奉行配下ノ死者ハ三千八百九十五人、武家ニ関スル分ヲ合スルモ市内ノ震死者ノ總數ハ約七千人乃至一萬人ナラン。潰家ハ一萬四千三百四十六戸ヲ算セリ。江戸市中ノ被害ハ深川・本所・下谷・淺草ヲ最トス。山ノ手ハ震害輕ク、下町ニテモ日本橋・京橋・新橋附近ハ損害比較的輕微ナリ。地震ト同時ニ三十餘ケ所ヨリ火ヲ發シ、約十四町四方ニ相當スル面積燒失セリ。近郊ニテ殊ニ被害大ナリシハ龜有ニシテ、田畑ノ中ニ山ノ如キモノヲ生ジ、ソノ側ニ沼ノ如キモノヲ生ジタリ。津浪ハナカリシモ、東京灣内ノ海水ヲ動搖シテ、深川蛤町木更津等ノ海岸ニハ海水ヲ少シク打上ゲタリ。
書名 ☆〔しぐれ草紙〕○會津小川涉遺著
本文
[未校訂]安政二年の江戸の地震は今古未曾有のことにて、我が藩邸○會
津藩も震倒し遂に祝融氏の猛威を振ひしかば、死傷者も多かり
き。幸に公は會津にましましこの災には遭ひ給はざりしが、
江戸よりは急に此の事を會津に報道すべきことなるに、いか
にせん筆紙を得べき手段なく、身命を全うせしものは心魂を
奪はれ只手を束ねゐしに、獨り田口治八はこれに心づきて、
そこら駈け走りて漸く寸楮を得て、火煙の中より[浮炭|けしずみ]を拾ひ
てその事を記したれど、これを持ち走るべきものは誰そとい
ふ内、松本勇その事を承りて日夜を兼ね急行して會津に來り
しが、勇が服せし衣服にはそこら燒けたる痕ありきとなり。
當時の事を語る人治八ならでは記し得るもの見えざりしとな
り。
出典 日本地震史料
ページ 634
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 福島
市区町村 会津若松【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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