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項目 内容
ID J0400590
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(西曆一八五五、一一、一一、)二十二時頃、江戸及ビ其ノ附近、大地震。震害ノ著シカリシハ江戸及ビ東隣ノ地ニ限ラレ、直徑約五六里ニ過ギズ。江戸町奉行配下ノ死者ハ三千八百九十五人、武家ニ関スル分ヲ合スルモ市内ノ震死者ノ總數ハ約七千人乃至一萬人ナラン。潰家ハ一萬四千三百四十六戸ヲ算セリ。江戸市中ノ被害ハ深川・本所・下谷・淺草ヲ最トス。山ノ手ハ震害輕ク、下町ニテモ日本橋・京橋・新橋附近ハ損害比較的輕微ナリ。地震ト同時ニ三十餘ケ所ヨリ火ヲ發シ、約十四町四方ニ相當スル面積燒失セリ。近郊ニテ殊ニ被害大ナリシハ龜有ニシテ、田畑ノ中ニ山ノ如キモノヲ生ジ、ソノ側ニ沼ノ如キモノヲ生ジタリ。津浪ハナカリシモ、東京灣内ノ海水ヲ動搖シテ、深川蛤町木更津等ノ海岸ニハ海水ヲ少シク打上ゲタリ。
書名 ☆〔震火叢話〕
本文
[未校訂]執政内藤紀州侯ハ、地震するやいなや、奧方ともろともに、
庭のおもへ逃れ出給ひしに、御館たふれ、奧方の衣の裙、其
梁に夾れて、步行給ふ事のならざりければ、帶をとき衣を脱
ぎて、湯具ばかりになり給ひしからに、わが下の衣を脱ぎて
着せ給ひ、最倉卒に、その侍臣に介抱の事をおほせつゝ、其
身ハ侍臣の衣服、大小の刀を帶て、大城をさしていそがれつ
つ大樹に謁しまつり給ひ、その御恙のましまさぬを祝し奉
り、いま登營の道すがら、内櫻田の御門渡の御櫓うち倒れ、
はた[譙門|おふて]内なる歇牀より火を過ちしかバ、それかれ如此〳〵
執はからはせ置きさぶらひしなど、まうしあげらるゝ、その
言語少しも訥まずして、容貌さへ常に變らせられずとなん。
かく急かせ給ひしからに、果して執政中の第一の登營にあり
けるとぞ。實にはそのまゝ登城し給ひ、中の御門にや、大番所へ行かれ、その夜の番とある寄騎の衆の大小の腰の物は
た肩衣袴まで借られて御前に伺公されしなりともいふ。かゝる天變のおりから、佩刀には
た衣とあるものを、稜威くものしてまゐのほり給ひなば、打
ち見ハ最嚴に見えなましく、されども其志と時とは人に後れ
給ひなんを、この事實ならんには、人臣の分至れりつくせり。
間然する處なしといはんか。最美しき御心操になん。
近き頃品川なる沖につくらせられし二番の砲臺場は、會津侯
の御預なりしが、勤番の詰所東西に長く、南北ハ短く、三尺間に柱立して、梁を上げ、四方とも厚
き板をひしと打ち、屋脊はたゝきにして、その上に土をあげ、芝を植ゑ付け、北の方に出入の口を明け、三寸程の角の格子を建てしものとぞおのれ得見ざれば、くはしくはしらず、此度の地震に上の土ども入り口の方へ
落ちしかば、外に出づる事得ならず、内には都て二十六人士分
二十五人焚出し男一人あり、外より扶けいださんとすれども、土に埋れ、
戸口些にあらはれ、開く事あたはず、上を破りてたすけ出だ
さんか、兎せん角せんといふ程に、内より息もたえ〳〵に外に
向ひていふやう、上を撥かば梁それマヽかれ、殘りの土ども落ち
重りて、おしに擊れて死に失せなん。さなくも若合藥に火の
うつらば、いづれ存命べき命にはあらじ。さはこの刀ども故
鄕なる父母妻子どもに後の紀念とも見よかしと言ひ傳へ給ひ
てよと、格子の間よりさし出だすを見れば、みな血に塗れて
なんあり。外なる人々淚ながらに、そをうけ取りて、かゝれ
ば此所に居らんも今はせんなしと、てに〳〵逃れ出だしゝ程
もあらせず、跡より火の發りて不殘燒け失せけりとなん。思
ふに、とても角てもながらふべき命ならじを、武士たらんも
の、災せまりて死に失せなんに、梁落ち其火に燒かるゝを待
たんよりはと、腹かきさばきて、其血染みたる刀どもを、紀
念にせよと與へしは、かけまくも畏き神國の雄々しきやまと
魂やと感慨するに猶餘りあり。そが故鄕なる父母妻子昆弟、
この凶變を聞かましかば、歎のほどはいかならんと、筆をと
るだに先胸ふたがるこゝちぞする。
出典 日本地震史料
ページ 564
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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