[未校訂]執政内藤紀州侯ハ、地震するやいなや、奧方ともろともに、
庭のおもへ逃れ出給ひしに、御館たふれ、奧方の衣の裙、其
梁に夾れて、步行給ふ事のならざりければ、帶をとき衣を脱
ぎて、湯具ばかりになり給ひしからに、わが下の衣を脱ぎて
着せ給ひ、最倉卒に、その侍臣に介抱の事をおほせつゝ、其
身ハ侍臣の衣服、大小の刀を帶て、大城をさしていそがれつ
つ大樹に謁しまつり給ひ、その御恙のましまさぬを祝し奉
り、いま登營の道すがら、内櫻田の御門渡の御櫓うち倒れ、
はた[譙門|おふて]内なる歇牀より火を過ちしかバ、それかれ如此〳〵
執はからはせ置きさぶらひしなど、まうしあげらるゝ、その
言語少しも訥まずして、容貌さへ常に變らせられずとなん。
かく急かせ給ひしからに、果して執政中の第一の登營にあり
けるとぞ。實にはそのまゝ登城し給ひ、中の御門にや、大番所へ行かれ、その夜の番とある寄騎の衆の大小の腰の物は
た肩衣袴まで借られて御前に伺公されしなりともいふ。かゝる天變のおりから、佩刀には
た衣とあるものを、稜威くものしてまゐのほり給ひなば、打
ち見ハ最嚴に見えなましく、されども其志と時とは人に後れ
給ひなんを、この事實ならんには、人臣の分至れりつくせり。
間然する處なしといはんか。最美しき御心操になん。
近き頃品川なる沖につくらせられし二番の砲臺場は、會津侯
の御預なりしが、勤番の詰所東西に長く、南北ハ短く、三尺間に柱立して、梁を上げ、四方とも厚
き板をひしと打ち、屋脊はたゝきにして、その上に土をあげ、芝を植ゑ付け、北の方に出入の口を明け、三寸程の角の格子を建てしものとぞおのれ得見ざれば、くはしくはしらず、此度の地震に上の土ども入り口の方へ
落ちしかば、外に出づる事得ならず、内には都て二十六人士分
二十五人焚出し男一人あり、外より扶けいださんとすれども、土に埋れ、
戸口些にあらはれ、開く事あたはず、上を破りてたすけ出だ
さんか、兎せん角せんといふ程に、内より息もたえ〳〵に外に
向ひていふやう、上を撥かば梁それマヽかれ、殘りの土ども落ち
重りて、おしに擊れて死に失せなん。さなくも若合藥に火の
うつらば、いづれ存命べき命にはあらじ。さはこの刀ども故
鄕なる父母妻子どもに後の紀念とも見よかしと言ひ傳へ給ひ
てよと、格子の間よりさし出だすを見れば、みな血に塗れて
なんあり。外なる人々淚ながらに、そをうけ取りて、かゝれ
ば此所に居らんも今はせんなしと、てに〳〵逃れ出だしゝ程
もあらせず、跡より火の發りて不殘燒け失せけりとなん。思
ふに、とても角てもながらふべき命ならじを、武士たらんも
の、災せまりて死に失せなんに、梁落ち其火に燒かるゝを待
たんよりはと、腹かきさばきて、其血染みたる刀どもを、紀
念にせよと與へしは、かけまくも畏き神國の雄々しきやまと
魂やと感慨するに猶餘りあり。そが故鄕なる父母妻子昆弟、
この凶變を聞かましかば、歎のほどはいかならんと、筆をと
るだに先胸ふたがるこゝちぞする。