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項目 内容
ID J0400582
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(西曆一八五五、一一、一一、)二十二時頃、江戸及ビ其ノ附近、大地震。震害ノ著シカリシハ江戸及ビ東隣ノ地ニ限ラレ、直徑約五六里ニ過ギズ。江戸町奉行配下ノ死者ハ三千八百九十五人、武家ニ関スル分ヲ合スルモ市内ノ震死者ノ總數ハ約七千人乃至一萬人ナラン。潰家ハ一萬四千三百四十六戸ヲ算セリ。江戸市中ノ被害ハ深川・本所・下谷・淺草ヲ最トス。山ノ手ハ震害輕ク、下町ニテモ日本橋・京橋・新橋附近ハ損害比較的輕微ナリ。地震ト同時ニ三十餘ケ所ヨリ火ヲ發シ、約十四町四方ニ相當スル面積燒失セリ。近郊ニテ殊ニ被害大ナリシハ龜有ニシテ、田畑ノ中ニ山ノ如キモノヲ生ジ、ソノ側ニ沼ノ如キモノヲ生ジタリ。津浪ハナカリシモ、東京灣内ノ海水ヲ動搖シテ、深川蛤町木更津等ノ海岸ニハ海水ヲ少シク打上ゲタリ。
書名 ☆〔なゐの日並〕○笠亭仙果著
本文
[未校訂]十月二日、朝くもり少しく雨ふる、後はれたり。夜に入定の
かねをきゝつゝ、けふの日記しるさんとするかたはらに女も
をり、とかくするほど物の碎くるやうなる音のして、ゆさ
〳〵とする。すは例の地震にこそと驚き、兩人ひとしくのぼ
りばしごをかけおりけるものか、天地も崩るゝやうに響き渡
り身も上下にあげおろしせらるゝやうなれり。去年東海道よ
り難波諸國より、つげ來れりし地震もかゝりけんと思ふに、
活たるこゝちもせず、はしご三四きだは轉ぶが如くおりて、
其まゝにうつぶし臥、上より女もおほひかゝる。この時行燈
の火もゆりけたれつらん、露ものゝあやもわかれず。いよ
〳〵つよくふりて立べくもあらず、たてりとてあゆまるべく
もあらねば、もし家のくづれ壓死せば、父子ともこよひかぎ
りの命ならむとおもひなげくに、さりともわれらはあつたの
みやしろをうぶ神とし、つねにうやまひねぎまつりて、萬にみ
たまのふゆかうぶる、あかばねのみやしろのおほんたすけも
なからずやとおもふにたのもしく、聲をかぎりに一命すくは
せ給へと、繰返し〳〵祈り參らするほどに、今もすこしはゆる
れど、立てもまろばず家も事なげなげなり。あら〳〵嬉しや
今はべちでうもあらじ、ゆり返しといふものゝあらぬほど
に、はやく外のかたへ出ましと、[手取|たどり]々々手ひきつゝいづる
に日頃はゆがみそなはれて、たやすくはあかぬくゞり戸の、
さはりもなくおのづからにひらけゐたるは、はしらかたむき
かもゐのゆがみ、雨戸と格子戸二重になりて、庭口にたひら
に敷かれたるなり。此庭口に五六寸ばかりのみぞありて、ふ
たの板くち穴などもあきたれば、はだしにてかけ出る事なれ
ば、踏こみて疵もつくべきに、雨戸の上をふみてあゆみしか
ば、そのわづらひも釘なども出ざりければ、何のさはりもな
く路次口を出、小楊の組屋敷の竹垣のもとにたつ。これまで
人の上は、さらに心にも耳にもかゝらず、夢のこゝちにて地
震とのみ心得て、その大小如何ばかりともおもひもたどら
ず、そのつよくふりし間もはづかにて、たとへばたばこ二服
も吸ほどゝやいはまし。此時地ぬし吉作の家のおや子下女、
松屋の父子、三河屋惣吉などもみなともにつどひ、鼻緖屋夫
婦わたやの夫婦に、手間取古道具やの久助、その餘あたりの
人々もてさわぎ、嬉しおそろしといふ聲またかまびすし、後
々はともかくも、まづ平安に大難をのがれしを互によろこ
ぶ。さはあれど大地震の後は、必火の災あなりといへり、心
もとなしなどいふとひとしく、まづ北のかたのそらあかくな
り、西に南にひむがしにさへ、火一時におこりたち、すべて
いとちかくはみえねど、いづこともおもひはかられず。地震
のおそろしければ、高くのぼりて見むともせず、火を告る鐘
つくものもなし。おのれ女とともに、聊ゆびのさきをもそこ
なはれず、立出しを悦ぶるも、これ皆おほみかみのおほんめ
ぐみの、いやちこなるによりてと、大地に額づきて伏拜みよ
ろこび申、此上の無事をこひねぎつゝ、まづ御符を身につけ
ましと、おそる〳〵家の内にかへれど、くらくして入がたけ
れば、人のともしたる挑燈かりて入見るに、つみおきし本箱
みなまろびおち、もろ〳〵のしなうちあけられて狼藉たり。
壁おち又ひわれて土砂みち〳〵、すべてあしふみ入るべくも
あらず。あらおそろしのなゐふりやと、身のけだちつゝは
しのこをのぼるに、さきに三布布團を二階より下へなげおと
しおきつるが、[梯|のぼりはし]の下にふくだみゐたるよ、まろびおちつる
時身の露いたまざりしも、この物のありけるなどいとをかし
くおもふに、猶おほん神のみめぐみなりけりと、いと〳〵尊
く、砂にうづまれるはしごのぼり、まづ守袋をとりおろし奉
り、次にみはこをかき懷きおり、此さきに挑燈にともしびともして兩人たづさふ守り
は女のくびにかけさす。かくて後なゐふることなく、四方の
火さかんにもえ、いつきゆべくもおもはれず。人々高きにの
ぼり、廿所ばかりまた廿あまり三四所ともいふ。まづたしか
なるは新よしはら、坂本みのわのあたり、下谷ひろ小路あた
り、丸の内なほひだりにもとほくもえあがる。本所とおぼし
き所にもみゆ。かくていとちかきはこまかた也。豐田といふちやうりよ
りいでたるよしすべてなゐふり家つぶれ火を出し、おほひたる木ど
もにもえうつりてやくるなり。半鐘をもならし人もおそる
〳〵出れど、たゞものゝおそろしくて、まめやかには火鎭め
んともせざるなめり。このよ風いとしづかなるにぞ、すみや
かにはもえ來らぬ。こまかたの火北風に南に[延|はい]て、かや寺も
やけぬなりなどいふ。いと近ければ心もこゝろならず。これ
よりさき、みはこを物にもつゝまでもち出たるが、いとかし
こければ、二階の戸棚なる新しきふろしきとりに行、この序
に家廟の位牌とりいださむとてのぼり、戸棚の戸あけにゆく
に、がば〳〵と二階の椽ふみこみ、さきのかたにて一尺ばか
り下へおちいりぬ。今少しつよくふまば、我身も下へおちぬ
べき勢ひなれば、むねうちふたがりながらも、ふろしきはと
う出て、かゝる時にもあやまちなきを拜謝したてまつりぬ。
こよひは人々みな門邊に立あかし、風すこしかはらば火もや
もえこんとおもふに、たゞたのもしきものにすなる。地ぬし
の土藏のいとかたく造りたるが、最初にやねの瓦をみなふり
おとし、はちまきおち、こしまきもひらき、このかはらつち
のおつる時あたりてぞ、わたやの北のかべもやぶれ、わがう
しろのかべもあなあき、すべて一ト地面の家いたくかたぶき
そこなはれつる也。かゝれば藏にあるものとり出し、他には
こばんとするに、入口の三尺びさしおちたれば、人入がた
く、入たりとも又つぶれもせばと、たれ入んといふものもな
し。藏のある故に物とり出されぬもいとくちおしき。曉に至
り風少しひがしにまはり、煙のこなたへおほひかゝるいとお
そろし。但し火きえがたれば、やけ來るいきほひなく、東の
かはは三好町よりおうまやがしやけぬ。西のはかや寺の門前
にてきえ、翌日巳刻に火しづまりぬ。人々よろこぶ事限りな
し。西のも南のも東のも夜あくる頃に皆きえ、馬道より花川
戸へやけ行たるのみ。翌日もやけなごりの煙はげしきばか
り、午時ごろまで立ぬ。新吉原潰れ、やがて所々火おこりた
れば、死傷のものいくらとはかりなく、中にも岡本はわづか
三人存命たるよし。また金久は若者たゞひとり即死のよし。
かゝるはめづらしき事といへり。札木やいかなりけむ未しら
ず。玉やもいもうとをなくしつるよし。よるのほどより翌日
も次々も、あそび等めもあてられぬさまして、まよひ來るい
とおほし。
三日も天氣よし。おもふに昨夜大ゆりの後、おもひしよりは
小ゆりしげからず、五六度にも及びしが、さはれ人もわれも
安き心さらになく、やう〳〵に人のゆきゝし、又そのつて
〳〵にて、所々のつぶれたるまたやけたる人馬の死傷など、
やう〳〵さま〴〵かたるきくに、身の毛たちおそろしく、眼
しばだゝかれてかなしく、われどちの無事を悦ぶの外他な
し。ちかきわたり今ぞすこしづゝ見るに、富坂町新町などい
ふところ、皆わがすまへるとなりながら、家のつぶれたる事
十餘戸、ひさしの落たるは家並のやうなり。壁土はいづこにも
〳〵山のごとし。壓死十三人とぞきく。まことや市ケ谷より
肴屋傳藏夜べ來りて、とかく手つだひくれたりき。黑舟町の
らふそく商人いせ屋幸助へ來、類燒なればまづかしこのもの
をはこびをはり、のち來りける也。火の心づかひなしとて
夜のうちにまたいせ幸がかりやへゆく。
けふも小ゆり時々なれど、おそるゝほどのはなし。されど家
に入るべくもあらず。地ぬしは人やとひ、土藏のつちをはが
すにのみうちかゝる。すべてするわざもなし。ともかくも家
に安眠しがたければ、はじめよりたゝずみゐたりし、小揚屋
敷の外垣の根に敷ならべたりし、格子戸雨戸のたぐひしやう
じ何くれととりあつめ、幸助はなをや儀右衞門まつやなど、けふ土
藏のつちかたづくる雇人もまじり、堀田原の馬場にかりやか
たたて、しきむしろ布團食器のたぐひ、また火桶やうのも
の、はた失てはえあらぬしなどもはこぶ。おのれも竹長持借
して、ともに自筆の寫本類何くれともて行、女の分はこのか
りやにおき、男の分はもとの垣根にをかで、家の非常を守ら
んとなり。おのれいたく驚きし、げにやけさよりわきばらの
ほねの下いたみ、ここちよろしからず、さならでも力もなき
翁の、人々とともに何事をかすべきとて、馬場のかたへおも
ふき、女とゝもにやどるべく定めぬ。女といふは吉作の母すな
はち金六のつま地ぬしなり女みちときやう下女なつ、わが女もともな
り、松屋の妻は江戸の女のもとにさきに行をりて來らず。三
河屋惣吉の妻は夫とゝもに、はじめより家のうちにありて、の
ち〳〵までも出ず。さはれこよひばかりはこゝにとまる。は
なをや夫婦とわたや一家は、始終門邊の垣根にかりずみして
うごかず。此馬場より高麗やしきのうしろの矢場近きわたり
の人共、心々にかりゐして夜をあかす。こゝのみにあらず江
戸中すべてかゝる事なるべし。日くれつがたより傳藏再きた
りとりもち、このかりやに一夜あかし、四日のあさ市ケ谷へ
かへゆきぬ。またこよひ近藏はわれどちとともにこゝに臥し、
吉作も宵のほどたけ〴〵しくいひしにも似ず、夜ふけて此所
にうちたをれねぶる。四日そらはれ西風はげし。下谷わたり
火あらましかばと心おだやかならず。夕つかたよりなぎたれ
ば少心おちゐぬ。まことやきのふのあさ、茶屋町にやどりゐ
る慈慶尼より、荷かつぎの勢たかおこせて安否をとふ。いと
〳〵心元なかりしに、そなたにも無事なりけらし。いと〳〵
たふとしと云。東橋あたりは少靜なりしにや、二階をもおり
ずうつぶしにありしとぞいひき。けふはわが方よりもゆかで
はえあるまじとて、まづ玄魚を訪ふ。此あたり潰れ家みえ
ず。あるじ云家はつゝがなし、たゞ駒形の火の[後|しり]を防ぐもの
なきより、いたくはたらき疲れたりと云。子供のわきまへな
く、地震といふもの見まほしとて、もてさわぐには困じたり
と云もをかし。これより材木町をゆく、この春新に建たる大
なる家ども、二階二尺も三尺もかたぶきかゝれるおほし。松
坂屋はいたみたりともみえず。慈慶尼觀音へゆかれしと云。
かのせいたかおくれ居たれば、同道して廣小路のかたへ少し
ゆくに、尼は嘉助と水茶屋の門にまちをり、おのれあひてと
もに無事を賀す。尼云今より上野へなんゆく、あすにも歸り
の旅立せんなど言暇乞す。路次いかにあれたらんも計られず、
精しくとひきゝてさてなんたゝせ給へと云つゝ、ともに田
原川までゆき、荒川をとはんとてわかる。荒川は家潰れたり
と門もるわらはのいふ。さらば今はいづこに、田面にと云へ
ばゆきみる。蛇骨長屋のあたり、湯屋は少し家めいたれど、
此あたり家大かた倒れ、めもあてられず。荒川のかり小屋
めくものも見つけえねば。むなしくもとのみちへかへる。
東本願寺掛所は裏門まへへたをれ、玄關あたりもつぶれたる
やうに見ゆ。大松寺をとぶらふ。本堂の正面から破風やうの
もの落たり。鎭守つぶれたり。此寺に身をよする婦人ども見
ゆ。山城屋久兵衞をとふ。此邊潰家もあれどこの家抔は無事
なり。藏はいづこも〳〵皆そこねざるはなかるべし。誠や萬
や七□の藏もおちたり。質みな燒たりけむ。金藏寺菊聖天のてら也
も大破損、此並びの家ども倒れぬ。人七人死亡せりとぞ。お
うな人になきつゝかたる。しうとも赤子も壓倒されぬ。せめ
て赤子の助けたさに、力かぎりに、ひき出してなげやりし
が、この溝堀田侯中やしきの溝へおちて丸裸にて死失ぬ。舅姑かおやか未詳、は
物にひしがれて即死せりとかたりつゝなく。大洲侯加藤遠江守どの、
の下やしき西つらの長屋、またむかふの側の家も倒れぬ。御
徒士組の石井氏をとふに、家つぶれて人をらず。おくにも潰
家おほげ也。おのれ此石井の母がとりもちて、此おくの家に
同居せよといひしを、その時さもせばといと嬉しくおぼゆ。
此加藤やしきの門前のつゞきなる、酒商人林やも廂おち、人
二人死亡のよし。さて馬場のかり小屋にかへるに、今たゞい
まむかひなる町福田やしき、富坂町の北のとりつき、の古家、かわら倒れたり
きと人のいふ。けふ家にゐたる時加藤慶藏ぬし來らる。土藏
の外いたみなしとぞいはるる。ひるげたうべて後瓦町つゞき
よこ町の孫八をとふ。土藏のかべおちて、さしかけ造りたり
し隠居屋つぶれたれど、老尼つゝがなしと云。又此ほど大か
た出來たりける百枝の家は、いたくねじれたりとか。朝田氏
をとふに、後家出てこゝも家半分いたく損じたり。土藏はめ
もあてられず。百枝は芝へゆきたりと云。淺草見付門石垣南
の方の根石[析|かけ]落たるあり。馬喰町より小傳馬町あたり、大か
たいたみすくなし。但し土藏の全きは百が一つにも當らず。
いとまれなる事也。橫山町もおなじほど、鹽町油町もことし
あらたに建たるは、瓦もうごかず土藏は例の全からず、藤岡
屋もその定也。山崎を訪ふ。となりの湯屋つぶれて、二かい
の手摺土に埋まりをり、此家の潰るゝ時、材木町軒□□か、あた
り義太夫の名とりの娘、兄弟供の男とこの處を過ぎ壓つぶさ
れ、男はおされながら人にひき出されて命をひろひ、娘十八と十六か、
ふたりは即死し、又番屋善助の小屋、西村の土藏のかべの爲
につぶれ、妻と弟二人壓つぶされぬとぞ。中につきていと〳〵
ほいなく淺ましくかなしきは、友人あしの屋檢校麻績一なり。
へついがしの能役者の家におもふき、家刀自の療治し針たて
ゐたるに、家つぶれ、病人も檢校も即死せりとぞ。山崎のあ
るじは淺草あたりより、わが家をもとはんとて出たるよし。
こゝもとなりの又三郞いづや、の藏におされ、おくの方大にねじ
かたむき、あなぐら二寸ほどうごもてりとぞ。かくて濱町が
してゆくに、へつい河岸のあたりつぶれ家おほきよし。苫屋
又兵衞をとふ、平屋なれど所々かたむく。こゝもあるじをら
ず。佐藤鶴作二階屋の古家、つねによろ〳〵したれば、いと
〳〵心もとなくおもひしに、門も倒れず柱に紙を貼て、
(校訂者云原本此所一行あけて何も記さず、)
としるしたるを見る人堵のごとし。家傾きためれどつぶれず、
土藏はこゝも土をふるへり。入て無事を賀す。あるじむすめ
小松女に髮ゆはせをらる。陸奧詞の醫師坊主も來り、某とい
ふ男、某の家にをりて、その家つぶれ屋根よりかしらをつき
出たれば、それを力にやねをやぶりて助り家にかへるに、顏
より血ながれてとまらぬをふき〳〵、人のかへり見るがう
るさゝに、手拭もてつゝみかへりしなどかたる。かくて若松
町を藥研堀のかたへ行、やしき町破損し。兩國橋かり橋とも
無事。回向院もさしたる事なし。門前頭取の家などつぶれ、
よこあみ小泉町入口たをれ家あり。安濃津侯の下やしき門崩
る。黑河翁をとふに、翁は家にをられず。このほどはづかに
たてをへたるに、平屋なれば露損じたるさまもみえず、しか
るに土藏は微塵につぶれ、器財どもあまたそこなはれぬと
ぞ。かへりにいせ屋庄藏をとぶらふべしとて、橫町へまがる
と、四ツ角の自身番の前にて、お千代行燈さげ飯櫃かなにか
もちたるあへり。まづ〳〵御無事とよろこぶ。とかくして庄
藏も來り、家大に損じてすまひがたく、ふねを借り所帶した
りとぞいふ。日くれてかへるに、雨もふりぬべき空になりぬ
れば、大かた人かり居をこぼち、心々にわかるゝ。げに雨に
は得たふまじければ、にわかにもち出せるものどもを、家の
まへにはこびかへし、はじめのごとく組屋敷の[垣畔|かきくろ]にすまひ
をうつすに、雨ふらずなりぬ。けふは地震火事方角づけとて
所々にてうる。よる人定ころ少し大なるが一ゆりしつ。きの
ふもけふも三四度四五度、はげしきばかりゆりたらん。あゆ
みてはしりがたし。兩三度はたしかにおぼえたり。例の事な
がらたれいふとなく、こよひは大なるが震べし、觀音の示現
八幡のみさとしなど、いひさわぎておそるゝにも、さりとも
とおもへど心も心ならず。此ほどは御守の御箱臺とともに、
新しきふろしきさらさ、につゝみもたりしが、後は中にて一包と
り出し奉り、御箱は二階にもとのごとく鎭奉り、小包のみ身
をはなたず。三日馬場へ行とき、福神の御かたも竹長持にい
れたるを、けふは出してともにもとのごとく御棚に置奉り
ぬ。五日御緣日也。二日の御利益灼然なるを日夜よろこび奉
り、猶向後の無事を祈り奉るといへども、らうがはしき中、
ことにけがらはしき限りのまじらひなれば、何事をかなし奉
り得べき。死傷の人幾千ともかぎりしられぬを、早桶も用ゐ
つくし、酒樽の明たる天水桶の不用なる、あら木にてさした
る箱もありて、亡骸の[牧|〓る]べき限りのものは、悉これを用ゐお
しいれてさしになひ、野にもあれ寺にもあれ、心々におくり
行が、五ツ七ツ乃至十五とゆきかひひきもきらず。身がらよ
き人のはかごにものすれど、、五人七人送りゆくはたえてな
し。五六日過てぞ武家などは、はづかに葬式めいたる事して
ゆくもあり。血にまみれたる人つり臺に舁れたる人、貴きは
きぬ夜具につゝまれ從者の男女とりかこみてゆくもあり。よ
しはらのあそび女、猶いづこにも〳〵ちりぼひあるき、中に
は美服目をおどろかしたるが、手拭もてかしらつゝみ、供の
男具したるなど、心あてのまらうどたづね行、ものこふとぞ
きく。小傳馬町の牢拂にいとよく似たり。誠や獄屋そこなは
れて、かの牢拂ありなどいふいとおそろし。こは淺草の溜の
あやふかりければ、病たる罪人をとり出したるを、きゝひが
めたるなんめり。けふより湯屋髮結床そのほか商店、よわた
りのなるほどなかばみせをひらく。きのふよりすでに大道の
食物商人はつねに十倍してうる。商人ならぬも心さときは、
老少も男女もいはず、おもひ〳〵にたべもの調じて道傍にた
ち、あやしのもちぐわしすしみせ、かんざけの類ひ勝計すべ
からず。燒原方角うりもやう〳〵にかずまさる、商ふものお
ほきに買ふ人もまたおほく、いつしかと諸色のあたひ高くし
て、錢も酒もをしみてうらず。かゝる天變にあひ、あやふき
命をひろふと、はや貪慾心熾盛して奸商利にはしり、かゝる
折大利を得ずば、やう〳〵に衰微する世の中に、何をもてゆ
く〳〵饑渴を凌がんと、一時に利を得んとするさま、いとい
とあぢきなくあさましなどはおろかなり。けふは空はれ風も
靜也。祖母の服にて神前には憚あれど、せめて御門前にだに
伏拜、神恩を謝したてまつらんと、未刻ごろ赤羽根へゆくと
て、まづ角久をとぶらふ。ふみや町河岸千匹屋水菓子屋はつぶれ
人死せりといふに、この家は新造ながらさらに破れもなく、
土藏さへ聊のそこなひなし。主人人と酒うちのみをり、め
でたし〳〵と壽ぐに、むかうなる版木の藏損じたりとなげ
く。そは欲のかぎりなき也とあざむ。されどこゝの番頭松五
郞の父は、小兒をいだきて壓死し、せりの[安|やす]の妻もまた小兒
とともに命を殞せりとぞきく。この家のつぐ子庄吉地震の
時おやぢ橋のつめなるらんかんにすがりつき居たりしに、
あたりの地少しさけ白氣吹出たりと云。こは砂か、そのわれ
たるあとのちにふたがりぬとぞ。或人云大ゆりのさいちゆ
う、西北の空より馬のごときもの南方へ飛行したりと。
又或人は白氣の南へわたりしともいふ。淺草寺の塔の九輪、
西のかたへいたく曲りたるを見れば、[實|げに]地震のみの所爲には
あらじ。照降町も大かたよろし。えびす屋をとふ。こゝも無
事。さてつたや吉藏もまた無事なれど、町中にかりやつくり
をり、このあたりもみなかりやあり。南傳馬町二丁目三丁目
は、左右河岸通り迄殘りなく燒失ぬ。をり〳〵の火災しよう
ししようし。芝通りも破損多く、柴井町崩れ、宇田川町一丁
目左右ともやけ、神明町は西側大かたつぶれ、神明前三嶋町
あたりも潰家いとおほし。しかるに神明のみやゐは、本社末
社御門鳥居もつゝがましまさずと見ゆるに、たふとさ限りな
く、神主も無事なり。これより芝山内も大破損はなげなり。
市町も同じ。かくて將監橋わたり、武家一二軒ねりべい又家
のくづれたるもみゆ。久留米侯は長屋土藏すべていたく潰そ
こなはれたるに、あなたふと尊神のみやしろは、拜殿も本社
も土もおちぬやうに、うしろの塀のくづれよりみいられ、御門
も傾かず、御鳥居も倒れず、かうもみやしろ〳〵の御恙まし
まさぬは、たゞ事にはあるまじ。神田の明神も高き所なれ
ど、さはりなしとぞきく。かくて御門前おろがみて、大なる
みめぐみをよろこび申すに、今も淚さしぐみて嬉し。とばか
りありて立ち、もとのみちへ歸るとき、十ばかりの袖乞の坊
主兒、わが手拭わすれおきしをひろひ、旦那のには侍らずや
ともて來る。このわらんべの志感ずるにもあまりあり。其手
拭やがてあたへてもよけれど、志をもどくにも似たれば、よ
くこそとてうけ取、錢聊あたふるに、いと嬉しとておしいた
ゞく。後におもふに、せめて當百の一ひらもあたふべかりし
をと、心はづかしくほいなし。さて神明前の町へ立よるに、
潰家山とつもりてあゆみがたければ、うらの筋に入るに、は
しなく和泉屋市兵衞のかりやを見かけぬ。市兵衞さつまいも
煮あげ居て、このとほり家も土藏も二つまでつぶし、一つの
こるくらも裸なり。さはれ人につゝがなし。いふやうもなき
は佐野屋喜兵衞なり。藏のあたりに少しのこる所あれど、家
崩れ家刀自と十一になる男子、店のもの二十ばかりなる淺草のも
ののよし三人[壓殺|をしころされ]ぬ。あるじうつし心もなしといふ。予かねて
さるやうきかぬにもあらざりしを、さりともとおもひしな
り。悔みいふさへ顏なきやうなりとこたへ、御守も懷中しつ
ればたちよらず。けふみちあし場いとあしく、あゆみかねて
かへりは夜になりぬ。燒場方角辻賣漸しなまさりて、くわし
きさまにしるせるもみゆれどみだり事おほし。二三種かふ。
あつた難波へたよりせんと、けふ京屋へよりとひけるに、正
六日限書狀一通三匁といふ。たよりの外金銀雜物さしたてな
し。○こよひも垣ぐろに地ぬしの母女とともにざこねする。
餘人も例のごとく、子上刻やゝつよくゆする。きのふよりつ
よきなり。また深川のかたにあたりて午時ごろけぶり見ゆ。
けふおのれ他出おあとに護岳來りしよし。又きく深川六間堀
の神明宮、四方丸燒にてみやしろのあたりはさはりましまさ
ず、これにひきかへ佐藤信古は、子二人壓死のよし。土藏も
全くあるまじ。藏書も灰となりけるか、每日々々凶便のみき
き、心きぬもつくるやうなり。かゝる世界なれば、御緣日な
れど御燈も御酒も何もたてまつらず。いとかしこし。
六日南風あり。のちやみくもる。空のさまあしげなど云。此
ほど日だにくるれば、何の時大震あり、何の時大事也などい
ふ訛言しきりに行れ、吉作などさらに安心もなくもてまど
ふ。南部新五左衞門と楠里亭其樂へ、こたみのこと告やらん
と、二通の文かいつけたるに、猶粟田因幡守にもつげ、同じ
くはかうをかしからぬ所にすまひせんより、歸國して赤貧を
甘ぜまし、いかでさやうの時には、おりたちて助けさせたま
へと、たのむよしを一通南部のに封じ入、地震火災場所づけ
の辻賣三通ともに入る。難波へのは五ひら、この二封狀を京
屋へもて行、田植園とひてきのふきたりし禮をいふ。此家そ
こなはれなし。さて品川屋久助燒場方角附あまた人して摺立
をり、一ひらこひとりつ。またけふも山崎をおどろかすに、
けふは主人も在宿、冬木川はつぶれたれど冬木氏はよし、青
山おだやか深川潜藏つぶれなどきく、又深川あたり亂妨のも
の徘徊する風説なり。あらかじめふせぎの用意あらまほし
と、隣家のいづや又三郞にかたらふ。又三郞いふには、われ
よくしれりよのつねの狼藉にはあらず。まづしきものの小家
どもみな潰れたる中に、財に富るはたもと某の家のみつゝが
なし。家もなくしたづきをも失ひたる窮民ども、きのふけふ
ものもくはず、うゑつかれてくるしきまゝ、五人七人かたら
ひあはせ、かの武家に米錢の合力をねがふ。家のおとな等う
けひかず、うれい訴ふる事數度、のちにはいたくしかりこら
しておひ返しければ、あまたの窮民ふかく怨み、いでやわれ
われ餓死すべくば、慳貪武士の家を打ちくだきて腹いせすべ
しと、二百人ばかり黨をむすび、棒鍬やうのものをもちてお
しよせたり。家のものいかり弓よ鐵砲よとさわぐを、あるじ
とゞめて云、今つく〴〵おもへば匹夫の志奪ひがたし、爭ふ
とも必勝はえがたげなり、ゆりつぶされ火もてやかれたりと
おもひなして、渠等が心にまかせおけとて、鳴をしづめてひ
そみをり、窮民等さこそあらめと、先玄關をこぼち所々亂妨
し、穀倉の戸をひらき、積蓄せる穀のこりなくかつぎ出し、
わけもていにけりとぞきく。亂妨とはこの事ならんといへ
り。またきのふおほやけより、伊勢兩宮へ祈りの爲、また京
都所司代へつり物宿次にて發遣のよし。
こよひもよべのごとく垣根に露宿、萬きのふにかはらず。か
くてあかつきがた寅上刻なるべし、よべより今すこし大なる
が一[震|ふり]ふりつ。ねぶりゐたりしかばおどろきさめて、胸とゞ
ろき身ふるはれて齒の根あはず。誠やけふ黑川翁たづねら
る。予外に出をりてあはず。またけふは伯母の忌日なれど料
供も調じ得ず、夜もなかまんぢゆう少し奉りき。
七日天氣大かたよし。あさのほど玄魚をとふ。品川やのあつ
らへ地震火事方角付の版下かきをり、のち品川や來り外にも
圖どもあつらふ。品川屋は地震のをり品川にをり、震はてゝ
はせかへりけるよし。田町芝薩摩侯の下やしきのまへ大地裂
たりと云。いかゞあらん。金竹江川なども來り、こよひもな
ほかきねの野宿。よひに酉中刻いと大なるが一つゆりつ。さり
とて二日のとはくらぶべくもあちず。さはれ田原町あたりの
古家又つぶれたりなどいふ。いとおそろし。かくて亥中刻ご
ろたしかにまぎれぬばかりの一たび、子刻ごろ小ゆすり以上
三度、人々おそれまどふ。けふはあさ料供調じつ、但し一菜
のみ。
八日けふはくもれり。少しばかり雨ふりぬべくなる。ひる小
ゆすりありと云。予しらず。けふも料供を調じ奉れど、御燈も
御香も奉らず。誠や家廟は三日の夜、傳藏二階の次の間へ引
出せるを、四日にいたり北のかたのかべにそへ直して、御位牌
等御定位におき奉りぬ。朝は大かたそこ〳〵にも神も佛もお
ろがみ奉れど、よるは心拜ばかりにて日をへぬ。いと〳〵ほ
いなし。けふはおほやけより鹿島、香取兩宮、伊豆權現、箱
根、三島、鶴ケ岡八幡、富士淺間社、豊前國宇佐八幡宮、こ
の八所へ寺社奉行衆より祈りの御爲、つりもの宿次にて發遣
す。上野芝兩山は日々いのりあるべし。こよひ松屋儀右衞門
のあね女きく、へつい河岸より小兒つれ父の家に來りやどる。
こは小網町松坂屋某の外妾なり。子ふたりもてり。あね五歳
おまつ、末子は神田祭のころ出産、産後の手あて人なくてゆ
きとゞかず、すでにすこやかにはなりぬれど、あのあたり津
波くるなどいふにおぢて、小婢つるを具し子ども二人つれ來
りぬ。こよひ夜中ばかり雨ふりいでつれば、にはかにおきさ
わぎ、はなをやのみせにかけ入て寐つ。金六後家、むすめふたりみちきやう、おのれ
ときりとおなつと也、おはるはなをやのつま、のみわが家なれど入らず、猶おの
がかりゐに自若たり。雨にも風にもなれば、地震せぬといへ
ば人々よろこぶ。
九日空晴たり。夕やけ甚し。小ゆすり五度ばかりありと人はい
へど、おのれはしらず。けふ家のうちあらあらはき清め、次の
間へ戸棚出し、東にむかはせ家廟を載、靈牌ぬぐひきよめ、例
のごとく鎭奉る。料供つねの如し。北條御燈も同じ、又献香も如例、但しこ
よひは御燈も香も不奉拜するのみ。あさ[飯|け]ひる飯わが家にて
くふ。きのふまではかりやにて地ぬしとともにたうべき、午後武陵來り、吉原あたりと
ぶらはんとすといふ。おのれもさる心にてありければ同道
す。武陵並木の薄荷園をとふ無事、但し二階一と間あやふし
とて椽板はづしたり。この家のへつい尋常ならぬ製なり。つ
ちへつひにて銅壼のやうなり。煙出しあり。さて觀音へ入る。
雷門雷像の臺損じたりとて、雷像を出し奧の院に入置たりと
しるしたる札貼たれど、實は門際の水茶屋まつち山がもとに
おわすとぞきく。寺中兩側寺の門悉たをれ、堂も家も潰れた
るもあり。梅園院の門のみやね損じて倒れず、傳法院門の左
の塀崩れたり。二王門無事、本堂も無事なれど、西のつま瓦
のこらず拂ひ、ところ〴〵損じたり。むながはらいたまず。
此堂の椽の下にかりずみするものあり。いと危くおぼゆ。本
尊は花やしきの植木やにうつし奉りたりといふ。奧山水茶屋
など倒たるもあれど、堂のくづれたるはなげに見ゆ。猶くは
しくはしらず。二王門外の地主いなりと、奧山のくまがへ稻
荷は潰れたり。三社權現少し損じて無事、石鳥居くだけた
り。又辨天山のまへなるぬれ佛、くわんおんかたへ躰あほの
けに倒れたり。辨天社も崩れたり。因果地藏はたをれず。五
重塔九輪西のかたへまがりたり。塔はかたむかぬものときく
に違はずいさゝかのきずもなきに、九輪の折ばをるべきに勾
りたるはいとあやし。物の飛行せりと云もいはれなきにあら
ず。隨身門を出て南北の馬道より、さる若町、聖天橫町、中
谷をすこしのこして、北谷寺々凡て灰燼となり、土藏どもゝ
さらにのこるものなければ、誠にひろき野の如し。田町山川
町のあたりやけがはらに、みち凸凹してあゆみなやむ事もの
にも似ず、鳥寺に武陵のしる人仙八あれば、尋ねてもかりゐ
だにもしられず。門のやねの鷄くだけてちりをり、田町より
上手にのぼる所、幅二尺ばかり長さ五七間なゝめに裂て、深
さ三尺ばかり也。いとおそろし。五十間こなたより右側、く
づれたるままにて火はかゝらず。高札場前へ倒れ、吉德稻荷
は仰向に倒たり。中の町吉川屋吉兵衞は武陵のともだちな
り。金杉の唐木やしやうゆぐらのうしろにゐると札出した
り。又松木屋勝五郞を尋るに、山の宿の河岸としるせり。京
町のうしろよりはね橋わたりて、龍泉寺まへゝゆく。入口の
茶屋少しのこりて、すべて倒れぬ家なし。大垣侯の下やしき
も大くづれ也。駐春亭は大破損なげなり。金杉の町みのわへ
かけて大かた潰れ、例のあゆみなやむ。みさきいなりもつぶ
れたり。かの吉川のかりゐは、根岸の方へ一町ばかり入りて
惣木戸あり、一と地面の田舍長屋あり、このあたりも竹垣は
倒れり。家は大かたつぶれたり。吉川はさゝぶきの平屋の長
屋のうちのしる人の家に同居したり。あるじをらず。甲州吉兵
衞の本國、にて此大變をきゝ、二日の間にはせ歸りしとぞ。今は
おやのもとへ行たりといへり。妻あしをいため歩行むづかし
といふ。こゝを出みのわより日本堤へ出るに、ほそくながく
つちさけたり。田中にまがるにすべて倒れぬ家なし。武陵舊
友玉川兵右衞門、崩家の山のごとくつみたる中に、犬小屋め
いたるうだつやつくりひそみをり。何ごゝちかすらん。かや
うのすまひいづこにも〳〵いとおほし。火災後のかりゐにく
らぶれば、わびしさいくらもまされど、こぼたれながら少し
はものゝのこれるぞ猶よかりける。山谷町も大あれと見ゆ。
あさぢが原をぬけて橋場へゆく。化地藏たふれて、笠かむり
たるまゝくびのおちたるもをかし。橋場には大傳馬町升屋喜
右衞門の地面あり。家ぬしは九兵衞とて、おもてのかたに平
屋きよく建すまひ、喜右衞門ば川にちかく眺望よきやうに、
樓などたてゝすまひしなり。みせは大伝馬町にありて水あぶらをうるなり、こゝもつ
ぶされて、妻は死失たりなどいふものあれど、店にてきけば
つゝがなしと云。喜右衞門父子すべて庭中に大なるかりやた
てゝすめり。二間半に三間もあるべし。土間なれどやねはあ
つき板もておほへり。子の平次郞も出來りぬ。主人も平次郞
もすべての子どもゝ、壓倒されて身じろきもならず、但し平
次郞はあしのさきをはさまれたりしよし。喜右衞門いせのお
ほんかみをつねも信じ奉れば、此時こそと祈念せしかば、あ
しに力の出來て、やう〳〵身もうごき出したりなどいふ。す
りきずはかぎりもなけれど、けがといふほどのきずはなしと
て悦ぶ。かくて橋場今戸とかへり來るに、全く立たる家はかぞ
ふるばかりなり。寺どもゝ崩れたり。八幡宮鳥居拜殿倒れ、
本社むねこぼれたれどかたむき給はず。今戸橋南のはし臺損
じたり。北のつめ金波樓の道五七軒も燒たり。種魚の家はつ
つがなきさまなり。入らざればしらず。聖天町あたりも破損
あるべし。河岸通りひさしのおちたるはおびたゞし。山の宿
河岸松木やは人の家に同居し、うらの方にすまへり。おちかの
うばもおかつもおみちもをり、おそび一人かむろ一人をり、
まづ〳〵御無事とたがひにしゆくして、淚もおちて嬉し。か
の時それ地震といふとやがて家倒れたりといふ。おちかは箱
火鉢のかたはらにゐたれば、殊に身よくうごき、かしらをも
たげて見ればひきまど也。天窓なるべし、こゝにゐるかむろつねに
愛したれば、をささんをささんと叫ぶ故、ひきよせおきつる
により、まづこのかむろを出し、さておちかいでゝお安をひ
き出さんとて、さしいれたる手のたぶさをとらへたれば、そ
のまゝ力にまかせてひく、あらいたや〳〵首のぬくるはとさ
けぶもいとわれず、首だに出さではとてつひに助けいだした
りと云。老女のわざにはいとしたたかなり。そのさまわざを
ぎのあだちが原のうばのごとくありけんとおもふにをかし。
勝五郞もおかつもおみつもぶじ。あそび等ひとりもさはりな
く、その夜の客とひとしく物など少しはもち出せりとぞ。い
とけなげなり。下男ひとりひとへものとりにとて、再いると
てひさしにつぶされ死失たりとぞ。仙太郞は新川にをりてこ
れも無事なり。かくて並木へいで駒形より黑船町のやけはら
すぎ、武陵にわかれて家にいれど、こよひも垣根に寢よと人
のいふにまかせ、夕飯はそこにてくひ、例のざこね。こよひ
も曉すぐるころより雨やゝ大にふり出ければ、鼻緖屋へかけ
いり、しばしまどろむとせしまに空しらみわたりぬ。けふ武
陵いへらく、この程大川の水かれたり、津波の徵ならんとい
ひさわぐ。また川水あかくなりし事あり、川上の山くづれ
てあかばねの流れたるなめりなど人云。また亞夷長崎に舶來
し、海岸暗礁測量の一件うけひき給はぬは盟約に背けり。さ
らばこなたより兵端をひらかん歟、けふより六十日かぎり返
事きゝに來むとて、やがて出船せしよし。また櫻田御門邊大
に破損し、大樹たふれしとも云。すべて地震は風とたがひ、
樹のたふるゝは一つもみず。こは土のくづれたる故に倒れし
なめり。又云護岳の妻大道にてあまざけ鬻ぐよし。
十日空晴る。きり加藤敬藏ぬしのもとにつかはす。家もくら
も破損少からず。鳥越の女髮結おとめをもとふ。無事也。け
ふ御像の御箱御符の御箱きよめ奉り、御棚もかきぬぐひ例の
ごとくませまつり、べつにわけてつゝみ身にそへたてまつり
しもひとつにをさむ。但しきりにもたしたりける御守袋は、
なほ首にかけさせおく。五日の御酒御餅御燈奉る。まことや
をとつ日地ぬし雇工をして、すべての家あやふき所々かりに
直すにつけ、二階ねだのおちかゝりたるをつくろはす。すこ
しはさがりたれど、ふみても危げなきばかりになりぬれば、
心づよくぞおもふ。入口は柱かたむき戸はづれてたちがた
し。たゞおしつけおくなり。こよひ久しぶりにて内に寢つ。
松屋に來をりけるおつるも來りてねる。
按ずるに壓されて死ぬよりは、かけ出して物にうたれつぶさ
れたるが多き。おされたるは聊下にものあれば、その[間|ま]ある
をもて十に八つはしなず。かゝれば箱火鉢本箱などだにあら
ば、むなぎうつばりおちたりとも即死はせじ。況んやたんす
小戸棚などあらば、外ににげ出て瓦かべつちなどうちつけら
れたらんに勝るべし。かならず心あわたゞしく、やみなどに
はせ出ては創かうむる事少からず。
十一日くもり、よる少し雨ふる。未刻一度小震。けふ本箱類
つみ直す。地震安心記五丁かきをはる。武陵彦太郞つれきた
り、けふ大音寺あたりにかりゐせる吉川屋妻のおやとぶらひ
しよし。地ぬしよりあづかりしものどもみなかへしやる。け
ふ無事の御よろこびに御酒御餅御燈奉りをろがむ。
十二日空よくはれ微暑、よるくもる。けさも御よろこびの御酒
御燈奉る。御もちひはなし。けふは彦太郞の誕辰なれば、あ
づき飯ふるまはんと云しかば、ひるごろ武陵のもとにゆく。
隣のいづや、又三郞も來りともにひるげたうぶ。赤飯に銀杏大根
にあさりのむき實の汁のみ也。心ばかり無事を祝ふにこそと
なり、仙八をぢも醉てきたり、のち護岳も來り、予こゝをい
で永樂や豊藏をとふ。こぞ火の災の時のまゝ、つくろひもせ
ぬが却てよかりけり。ひさしはおちたれどつぶるゝにもいた
らずといふ。巴人亭も命ばかりは別條なく、八幡宮の地内龜
岳がかりごやに、本店の人々とともにをるときくに心おち
ゐ、太田屋をとふ。家に破損なし。かくてこゝより引かへし
深川へゆかんとす。小舟町をすぐる時、やゝ大なるが一つふ
りたり。てけのよく風もそよふき、空もいと高う見らるゝ
に、かゝる事あれば人々もてさわぎおそる。かくて永代橋に
臨むに、小あみ町も南部堀あたりも全き家藏まれ也。いづこ
も〳〵かきむしりたらんやうなり、永代ばしわたりて、やが
て相川町みなつぶれてやけ、富吉町、中嶋町、北川町、諸町、
熊井町、蛤町などいふあたり、黑江町ものこらず、一の鳥居
もやけおちたり。八幡橋の東のつめより北側、少し殘てやけ
ねど崩れたり。永代寺門前町大島町もやけ、南側は土橋のか
た迄やけゆき、北側は永代寺のきは一軒殘て火留りたり。門
前の鳥居無事、そりはしの中の鳥居くだけたり。本社つゝが
ましまさず。聊のいたみもみえず。但し西の方廻廊のやうな
る所々崩れたり。龜岳の家きり〴〵すばこのやうにて建り、
庭に大なるかりやたてたり、椽もはりて見よげなり。龜岳に
も巴人亭その妾お濱にもあふ。地ぬしの妻もをり、このほど
二男直藏京よりかへりをるとぞ。けふはあはず。巴人亭六十
にあまり病身、こぞよりあしもよわくなり遠くへはいでず、
しかるに二日の夜直藏翁と枕を並べ、お濱は枕にそひよこに
寢たりけるに、一ゆりつよくゆするとひとしく、家つぶれた
りとおぼしく、翁も直藏も二階のねだに壓され、いとくるし
けれど頭ばかり外に出たり。燈火ははやくゆりきえて眞のや
みなり。お濱はものにはさまりたるまゝなれば、はやくむぐ
り出たりとぞ。ふたりは少々づゝかたみにはひいづ。からく
して身のぬけたる時、となりの摩利支天の堂ゆりつぶれたる
いきほひに、雨戸倒れて少しあかるくなりぬ。巴人亭手さぐ
りするに、ものにとりつきたるを見れば、いせのおほんかみ
の大宮のみはらひなり。直藏もまた千度のみはらひにさぐり
あて、いと〳〵たのもしく、四人おみのを加へてなり、おみのの事きかず、手ひき
ひきはだしにて、瓦のつもれる上をふみ〳〵立退に、はやち
かきわたりより火おこり、やう〳〵一面あかくなりぬ。かゝ
ればものひとつもとり出さず、かりまゐらせたる書ども、
左傳二家注唐本十二册、五雜爼八册、蠅打六册、遠州拾遣十册、一目玉鉾六册 路程全圖一、南海道々中記一、九州圖一、崑山集一より
五までか、其内左傳は質なり、唐詩解頤三册皆燒失ぬ。いかにともすべなしなどい
ふ。おのれおもひもよらぬ災にかゝりたるなれど、おのが身
壓つぶされたらんにくらべては、何條ことかあらん。さてか
へりぢ右の町へ入り、ゆき〳〵て方角たがへ、もとの相川町
へ出づ。さが町も惣つぶれ、小松町の一江のなかやもうしろ
よりみるに、あたりは皆崩れ倒たれど無事也。誠や永代寺境
内にもおすくひ小屋たつ。大川邊靈雲院のまへ地長くわれた
り。柾木稻荷もたをれつ。御船藏大かた無事なれど、東側は
一ツ目のはしまでみなつぶれ、藏前町橫町をのこして、南へ
木下氏のやしきまで、東へは八名川町邊すべて潰たり。八幡
御たびの門内も皆つぶれたるに、高橋瑞庵のみつゆさはりな
し。御みやも鳥居も例の損じ所なし。まことにあやし。神田
川平右衞町をすぐるに、こゝは新に造たりとはいへ、兩側す
べて露のあやまちもなし。地震こゝにはゆらぬにやとゆきゝ
の人いふ。かへり日ぐれに及びぬ。なごや神谷傳右衞門地震
火災の事きゝつたへ、母尼公のうへをいとおぼつかなくおも
ひ、六日發足の飛脚けふ着て松坂屋へも行、予の方へも手紙
もて來り、予他行きり請取かきてやる。おもふに今は慈慶尼
もたゝれつらん。
十三日くもりて日の影みず、夕ぐれつかた少しふり、曉方よ
りつよくふり。翌十四日一日ふりたり。けふも如例御酒御燈
奉りぬ。けふはあさ辰刻小震あり。日くれてひとつ曉にもあ
りしときけど知らず。午後加藤主敬藏ぬし也、をとふ。うらにかべ
つちこねてときゝあはず。内方にあふ。此家げに所々損じ、
中の口亥關のあたりも、新しき家ながら全からず。三味線ぼ
りへ行とて、鳥越明神を外より見奉るに、このあたり土藏つ
ぶれ、武家の塀其外崩れたれど、例とはいへど聊地ゆりたる
けしきも見えず。佐竹下總兩侯の中やしき所々くづれたり。
上野町長者町すべて燒、おかちくみやしき數おほく灰とな
り、小笠原侯の中やしきよりむかふのやしきも北どなりもつ
ぶれ、やがてやけつゞけ、角の町屋一軒のこりて、ひろ小路
山下へつき、三橋のあたりまで東側うらへかけて燒、西側は
大につぶれおほきにあはせて、仲町□□ぬやうなり。しかる
に御すき屋町より芥坂あたり、立たる家門まれなり。ゆしま
の天滿宮も女坂大に崩れ、本社の破損おほし。池のはた茅町
のかたへゆくほどつぶれ家多く、すべて人すみたるさまにも
みえず、皆新土手にかりやせり。こなたより臨むに辨財祠は
やね全し。さて御山内は無事ときく、さもあらむ。山下の家
さしたる破損なし。たゞなにとかいへる料理屋つぶれたり。
まことや伊藤松坂屋くらものこらずおち、人もおほく死傷せ
りとか。この所のまへ町會所の御救小屋焚出しの場となり、
山下火除地に御救小屋たつ。今つくるさいちゆうなり。この
あたりすべてあたりかろし。伊場氏また木村錦之丞主とふ。
ともにかべひゞわれたるほどなり。大久寺のかねつき堂をか
しく倒れたりと、武陵のいひしかばゆきてみるに、げにを
かし。巽の方へやねのまゝあほむきて、つりがね鐵鉤にかゝ
りたるまゝよこたはりをり。その傍にひろくいかめしきかり
やたてたるは、かのしゆろうの柱をかたどりたるなるべし。
小堂どもみないた、みかたむきたり。けふは日蓮の忌日なれ
ど、寂莫としてともし火のひかりもなく、無住のやう也。廣
德寺の門はよしありてひくけれど、左の柱の礎聊ゐざりぬ。
菊屋橋のきはつぶれてやけたり。川升より出たりとぞ、門跡表門左扉は
づれてたふれたり。本堂巽の檐大に損じ、その餘所々損じ、寺
中門など倒たる多かり。法融をとふ。かたむきながら人すみ
たり。少女來てものいふ。東光寺をとひ住持有溪法師内方おふで、
にもあひしばし物語る。葬法來るとて人々入來りてさわけ
ば、そこ〳〵に出、本法寺へ入みるに、熊谷稻荷土はふるへ
どつゝがなし。寺内はいたくそこなはれたり。寺々皆大破損
つぶれたるもあり。本智院燒たり。おもふに菊屋橋またこゝ
の火もし大に延たらば、福富町も灰となるべしと。今さらそ
ぞろさむくおそろし。神の惠いとたふとし。諏訪町裏のやけ
ざまみて、こまやしき過て富坂町倒家のまへ、しげきかひ棒
の根につまづき橫ざまに倒れぬ。きものもけがれねどいとは
づかし。大野屋安兵衞の養子地震のときかけ出、廂のおちて
脚にきず受たるが、餘病加はゝりて昨夜みまかりぬときゝ、
このついでにとぶらひつ。妻お秀も顏にきずうけたれど、今
はよけれど夫におくれ、いと〳〵おもひくしたるさま也。此
養子は物などはか〴〵しくもいはねど、裁縫のわざにたけ
て、をさをさ世わたりにもたづきなからず、よき人と人もい
ひきかし、富本流の上るりも上手なりき。をしむべし。こよひ
も例のごとくおつる來りやどる。また地主むすこの橘作は夜
番に出通夜す。このほどぬすびとしげしなどいふに、女ども
のさびしきに、いかで中戸ひらきひとつになりてといはるゝ
に、さはりなしとてうけひきぬれば、ふたりの少女もわがか
たはらに來り遊ぶ。夜ふけからすどもはう〴〵なくに、月夜
といへど雲もあつきに、何の徵ならんと人々あやしむ。道子
一たびねたるが、おき來りきりの傍にねたり。お鶴とともに
さま〴〵ざれかはして夜のふくるをしらず。誠やけふあつた
南部新五左衞門より一日の書狀つく。九月廿八日かしこにて
は早く地震せりとぞ。その日は國君あつたの濱にて船いくさ
調練御覽、築地あたり貴賤の雜人拜見せしに、御歸船のころ
ほひ夕七ツ過ゆりいでゝ、人々おそれわなゝき、こと〴〵く
あつたのおほん神のみまへにはせあつまりぬなどしるし、又
秋の水難の田地損毛高、死傷の人數などくはしくしるしたる
をおこせたり。
八まんの別當道本老僧、はりにしかれつゝがなしとて、此
守りを大岡どのへ奉られけるよし。まつや儀右衞門よりも
ち來る、
(呪文略ス)
はりはやつ門もこゝのつ戸はひとつ
我身のうちは大社かな
水神のをしへに命たすかりて
六分のうちにいるぞ嬉しき
十四日あめふる。よる亥刻地震一つ。きのふより少しつよ
し。けふも中戸とぢず、ひる御酒御燈きのふに同じ。但しき
のふつねの夕のは、死穢をはゞかりて奉らず、默拜せりき。
おみちもこなたにて寢る、あすよりは來らず。
十五日、木むらのお高八幡宮へ詣づとて來り、よべは三度震
しといふ。また四日五日のころ、池の端近きおすきや町邊の
げいしや家などつぶされたる、さならぬもにごり酒田樂など
廣小路に店出してひさぐ。髮を銀杏くづしにむすび、鉢卷し、
緋の胴ぬきの下着に、たちつけはきなど花やかに粧ひ酌など
もすれば、かうやうの世界にても、色好のみちは忘られぬも
のなれば、うつゝ心もなく買人いとおほしなど云。
こよひも亥刻に一度すこしゆる。けふ天氣いとよくさむし。
あつた南部新五左衞門諸家の早追に、二日の變をきゝ驚きを
りしも、八町堀の同心衆小林平十郞ぬし、大澤藤九郞ぬし上方
のかへり、八日の夜長門屋新兵衞家に止宿あり。もとよりし
る人なればおのれらの上を心にかけ、もし居所なく迷ひをら
ば、この人々をもたのみ、また尾張のとのゝ築地の御やしき
なる、鬼頭市十郞ぬしをもたのみたらましかば、力をそへ給
はましなどねんごろに書かいしるし、あつらへつけておこせ
たる。その日は八日なり、けふ小林ぬし歸府ありとて、その
人の出入黑船町代地喜太郞と云がもて來りぬ。安否の返書と
どけつかはさんとなれば、無事にてもとの家にすまふよし書
つけ、喜太郞のもとへつかはす。
十六日あかつき一度、よる亥刻一度小ゆすりあり。天氣けふ
もよし、きのふもけふもおつるのやどらぬ夜なし。近藏きり
とねる。また十四日の雨にて、古家などまたつぶれ、死傷の
もの多しなどいふ人あり。虛實つまびらかならず。よるはく
もりぬ。
十七日くもりまた日もてる。午下刻やゝ驚くばかりひとつゆ
る。積たる箱どもうごくほどなり。十八日は心をつけ、大火
たくななどこのころのゝしりさわぐ。觀音のみさとしおほや
けよりの御觸也などいふ。いとをこなり、はたして、
十八日はくもりのち雨ふり出、夜に入東風つよく吹、雨車軸
を流すがごとし。よもすがらやまざりけれど地震はなし。た
だ□□は時ならず兩三度もあり、あけぼのにいたり雨やみ風
なぎ。
十九日てけいとよく晴わたりぬ。南風にてあたゝかなり。
けふあしのやと、さのやへ死傷のくやみをいふ。
さのやは妻と男子とみせのもの即死也。
廿日未刻すぎてのち、觀音おく山花やしきなる雨の屋をと
ふ。こは清くひろき家のさゝぶきなるにかりゐしたり。いか
にせん夫婦ともにきずを受てもこよひをりかの時かけ出した
りしに、隣家の物のたふれかゝれるに壓倒され、又人にふま
れなどせしとて、ちかはるはかしらに大疵三つ、右手のうで
ぼねを折りてきかず、つまはあしのほねをひしぎあしなえと
なりぬと云。されど後には全快すべくや。三人の子どもはさ
はりなし。さるあやふき時にも、としごろ心をつくし寫しお
きたる、おもしろくめづらしき粉本やうのものは[男|こ]をして倒
家の内よりとり出させ、器物も少しは助けたりといへり。書
籍はつくしてやけうせぬと云。いかゞはせんけふみればおく
山のぬれ佛もおちたり。
錢がめ辨天、出世大黑、二王尊、多福辨天、不動などつぶれ
たり。大神宮もつちをふりおとし、みぐるしくなり給へり。
並大木やほややねおち、とらやといふはつぶれたり。からし
や十兵衞はかり家落成してすめり。けふ訪ふ。
○こよひきらくへ返事、またなごや神谷への返事どもいだす。
このほど見まひのこたへ也、○平右衞門町もけふみれば、いへごとにつツ
ぱりかはぬ家稀なり。
廿一日あさ五ツごろ、少しおどろくばかり震りつ。てけはよ
く西北風つよし。なかね其樂へ地震火災の板行ものしな〴〵
とゝのへておくる。
廿三日天氣いとよし。武陵いはく、石町大橫町すゞき越後の
藏前に賣卜者のみせあり。このト者九月の下旬にいふやう
は、來る月のはじめ、よにいとおどろおどろしきわざわひあら
ん、この邊りにをらば命もたもつまじとて、いそぎ他所へゆき
ぬ。千住へうつりしといふのちの安否はしらず、はたして二日夜のなゐぶりに、藏
のかべはがれおちて、かのみせのあたりに山をなせりける。
こゝらにをらましかばと、そのト者の未然を察せしを感ずと
云へり。
廿四日あさ田のもとにて、よし野あやを云、淺裏庵ひろよし
をぢいとあさましくいたましきかぎりになむ。かのやしきつ
ぶれたるも、長屋の梁のいとふときに壓され、のがるゝ事を
えず、人々力を戮せうごかせどもあがらず、火はいとちかく
もえ來りぬ。ひろよしはいとくるしげなる聲して、今はたす
かるべくもおぼえず、槍などにてつきころしてたまへといふ
ほど、ほのほかゝりてわれも人もやけうせぬ。むすこは助り
けれど、内かたもむなしくなりぬるいとあぢきなきや。寄食
の人もありて、すべては十三人ばかりすまひせしに、四人の
外はみなみまかりきとぞかたる。中濱萬次郞は長屋つぶれつ
れど、妻も子もつゝがなくぬけ出たるよし、文鳳堂いへり。
廿五日空はれたり。未刻たしかに一つふるふ、但しみじか
し。廿六日木むら錦之丞來り云、山内上野は無事なりと世には
いへど破壞少からず、宮の御殿にても潰れたる所ありて、し
もべ一人壓死す。また□□門内の□□院傾まがり、土藏全き
はなし。淺草の傳法院も方丈つぶれ、住持金とりにかへり
て、ものにうたれむなしくなられたり。少年三日ばかりもの
の下におされ居たるが、猶死なで餓鬼のやうになりて、もの
の下よりはい出たすかりたりとぞいふ。
十一月朔、けさ午上刻ごろまためづらしく震すといふ。予はゆや
にありてしらず。
けふ上野山内に地震後はじめて入る。下夕寺車坂屛風坂などのかたにつきた
る寺町也ことにあれおほし。いづこも〳〵石垣くゑ壞れたるぞ
多き。しゆろうのかたへゆかねば見ず。宮ざまの[外垣|へい]はこと
ごとく倒れ、いたもてかこひたり。眞空法師の寮をとふ。こ
の僧かの時他の坊に居て、歌物語してゐたりし頃也とぞ。ゆ
すりしづまりて早々歸りて見るに、地火爐の鐵瓶くつがへり
て、おぼつかなかりし火みなきえ、あたりは灰にくもり、本
筥どもみなころ〳〵とみだりがはしく、あしふみ入べうも覺
えず。此時寮にをらましかば、軒ぢかき土手の石ともくづれ
かゝり、家は無事なれども瓦をおとしたりしかば、頭にもあ
れ足にもあれ疵うけましをといと嬉し。世はすてながらも猶
命はをしきものになんとやうのものがたり、さすがにあはれ
なり。かくて根岸へゆかんとて谷中門を出る。このあたりよ
しはら京町のくつ(るカ〕わども立退たる家おほし。すでに店はりた
るもありとぞいふ。なまめくものほのめくも、地震の事おも
へばふさわしからぬこゝちぞする。天王寺の塔の九輪げにか
たへゝおちたり。輪のさしわたし大なるのは四尺あまり也。
此寺いたくあれず。いも坂あたりも寺の門などは、例として
たふれたれど氏家はさもなし。
二日市中にて心まかせにはゞかりなく彫刻しうりたる地震
火事方角付の類、ならびに戯作の一まい畫の類の板とりあげ
おくべきやう、行事地本屋の、にかゝりの名主よりいひつけら
る。これによりてかづ〳〵板をとりあぐれど、いやます〳〵
ほりもしうり出しもして、品かず百數種にあまる。○またけ
ふ一めぐりにあたる日なればとて、いたくおぢいる人おほ
し。されどゆるがず。かへりてにいたり三日の間也、けふ台命ありて、諸寺にて枉死人のために大せがきあり、四日
別にしるすべし。
三日の夜亥下刻ごろやゝ大に長くゆすりたれど、物のまろぶ
ほどにはあらず。
五日田中喜三郞來り云。地震火事の彫刻もの、その數三百八
十餘種ありとぞ。その中に重板三四丁あり、山口藤兵衞當番
にて板をとりあぐるに、いまだ十の一ツ二ツなり。板木屋ど
もこれを禁ぜられては、當分の飢渴しのぎがたし、一箇月も
延引せさせ給はずば、いづかたへもまゐりて強訴せんなどい
ひさわぐよし。さて〳〵あるまじき事なり。
九日夜小ゆすりありといふ、我はしらず。
十日午中刻、根岸木むら德麻呂の家にゐたるに、聲ある地震
一つありて、大にはあらねどしばしゆらめくやうなりしを、
家にかへるにたゞはしらのぎしりとなりたるのみ、しらぬ人
もおほしといふ。しかるに本所の江川氏のやしき、中濱のか
り家にても、しやうじのびり〳〵となりて、しばらくゆりた
りといへり。○きのふまで盛にかざりたてし、地震火災の畫
戯作もの、すべての商店こと〴〵く下へおろして、よのつねの
にかへたり。こはあまりかぎりもなき事故、まづうち〳〵に
て憚るべきよし、そのかたの人よりさたのありしなるべし
されど猶下におきてうる中へ新板をくばる。彫工にあつらふ
るもあめり。今は四百種にもおよぶべし。畫の中にてはかし
まの御神像をあまたの人拜する畫と、くさ〴〵の人ども大な
まづをせめなやますかたぞはやく出て、うるゝ事おびたゞし
といへり。すべて重版おほくうるゝものは、十板廿板も增刻
せしよし也。○いにしころ人のいふは、いせのおほんがみの
神馬、江戸中をかけあるき積善の人を助けたりければ、無難
の人の身には、必白馬の毛一もうづゝつきてゐるとぞいふな
るまことにやこゝろみざればしらず。○つがる候のみたちに
ては、壓死七十人あまりと萬次郞もいへり。○町々の名ぬし
にて檢索しかきあげしは、そのまぎれなきかぎりなり。よし
はらなど人別にのらぬと、誰ともしられざると、何ばかりの
數かはかられずといふ。三倍はたしか也とぞいふ。武家はい
よ〳〵おほかりとぞ。
十一日 亥刻許地震。
十二日 おなじ時少しばかり。
十五日 あさ辰ばかりにゆさ〳〵とゆる。人々あわてまどふ。
巳刻ごろにもまた小動す。心もとなく恐ろし。
十六日も風あらき中に一ツゆすり、龜井戸あたりの家つぶれ
しなどいふ、虛實をしらず。けふ尾州家の御くらやしき鬼頭
氏のいはるゝやう、市ケ谷の上やしきこゝもすべて所々そこ
なはれつれど、指一本きづつきしものもなし。またをはり燒の
陶器をうる江戸の問屋十七軒あり。ちかきころあつたのおほ
ん神をうやまひ信じて、大々かぐらなど奉る事也。三都の問屋心をあ
はせてのよし、こたびの大變に十七軒のもの一人の死傷もなく、し
ろものもそこなはれざりしとて、悦びのぬさ奉りなどしたり
しよし。いと〳〵たふとき事なり。
出典 日本地震史料
ページ 528
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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