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項目 内容
ID J0400581
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(西曆一八五五、一一、一一、)二十二時頃、江戸及ビ其ノ附近、大地震。震害ノ著シカリシハ江戸及ビ東隣ノ地ニ限ラレ、直徑約五六里ニ過ギズ。江戸町奉行配下ノ死者ハ三千八百九十五人、武家ニ関スル分ヲ合スルモ市内ノ震死者ノ總數ハ約七千人乃至一萬人ナラン。潰家ハ一萬四千三百四十六戸ヲ算セリ。江戸市中ノ被害ハ深川・本所・下谷・淺草ヲ最トス。山ノ手ハ震害輕ク、下町ニテモ日本橋・京橋・新橋附近ハ損害比較的輕微ナリ。地震ト同時ニ三十餘ケ所ヨリ火ヲ發シ、約十四町四方ニ相當スル面積燒失セリ。近郊ニテ殊ニ被害大ナリシハ龜有ニシテ、田畑ノ中ニ山ノ如キモノヲ生ジ、ソノ側ニ沼ノ如キモノヲ生ジタリ。津浪ハナカリシモ、東京灣内ノ海水ヲ動搖シテ、深川蛤町木更津等ノ海岸ニハ海水ヲ少シク打上ゲタリ。
書名 ☆〔利根川圖志〕○赤松宗旦著
本文
[未校訂]附手賀沼北邊紀行こハ義知が友人某松戸を過ぎて布川に來れる紀行なり。固より經過の中に見聞せる事のみなれ
ば精からざれど、こゝに用ある事多かればしるし載せたり。文中に地名多かるは地志好む故なるべし。
安政二年乙卯十月江戸には地震のさわぎ有りて心靜ならず、
訪來る人も希なれハ、却に暇ある心地して、さらバこの間に
下總の布川かり行きて見むとて廿五日吾が本所の崩れたる家
を後に見て、深川高橋の東海邊大工町なるサイカチといふ處
より小名木川に舟うけて新川の宇田川柳庵がり行きたり。○中
略夜あけて例の大門に船さゝせ妙見島を後になし松戸の方に
溯る。○中略午時頃に松戸に著きぬ、舟をばこゝより返し岸に
上る。こゝも家崩れて人もうせぬといふ。○中略ゆき〳〵に小
金に著きぬ。一月寺も崩れたり。○中略我孫子に著きぬ。小金
より三里なり。○中略いで異なる事も無かりしやと問へば、今
年は例より青頭菌多く出て、梨李桃歸り花多く、地震ふりし
十日許前より雞塒に棲まで梁に上りてとにかくに困じたりと
いふ。○中略左利根川邊に布川の飛地なる江藏地新田あり。布
佐に到る。その村にて臺といふ處なり。○中略猶行けバ利根川
左に見ゆ。ゑバし下り居て憇ひつゝこゝらの物語す。我孫子よ
り布佐まてハ三里十町あり。こたびの地震に布佐も布川も家
損ねたり。そハ皆井を掘るにも地下の柔なる處なりと。げに江
戸よても家の甚く壞れたるは古川の迹若ハ蘆場を築き固めた
る處とおほし。なほ思へば今年は處々に彼岸櫻梨等の歸花多
く開き栗柿早く熟し、殊に九月の晦には烏鳶中空に噪ぎ行き
しをさる前表とも知らで十月二日の災に罹りぬる[最|いと]うれた
し。川の向なる立ツ崎羽中等の村にてはヤマカヾチなどいふ
蛇ども蟄したるが蠢き出てたれと寒くて行きも得さりしハ九
月晦の事と聞え、布川にて井幹の中に俯して聞けバ[數|し〓〳〵]鳴りし
ハ十月二日の事とぞ。
出典 日本地震史料
ページ 527
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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