[未校訂]嘉永七年霜月四日朝の五ツ半(午前九時頃)冴え渡りし初冬の
空は、平和の村里を包みて一際清かりし折、何方ともなく大
浪の寄するが如き響あり、人々怪しみ、雷鳴か、海嘯かとの
疑問は、一瞬ならずして解決せられたり。其鳴動こそ將に來
るべき大地震の前徵なれ。鳴動と共に天は叫び地は震ひ、家
屋は將に顚倒せんとす。すはこそ大地震よ、早や逃げよと呼
はりつゝ、倉皇戸外に出でしも歩行すること能はず、唯地上
に轉輾するのみ。砂煙は天を蔽うて暗く、逃げ後れたる老幼
は屋下に倒れ、阿鼻叫喚もの凄く、辛うじて逃れ出でたる者
共は、かしこの竹藪、こゝの芝生に打集ひ、震動の何時止む
べきかと互に顏見合せて、恐怖と危懼とにたゞ茫然たるのみ
なりしと云ふ。大岡村青木三四郞氏所藏、當時の記錄に、
四日朝四ツ半時頃、震れ出し候より、我勝ちに命限り逃出
し候得共、歩行成り難く、大地をころげ候より外致し方な
く、竹藪或は芝土手に相臥し、言語に絶し候程の事。一時は
家屋潰れ候壁土の煙、一面に立ち上り、さも天地くづるゝ
かと思ふばかり、前代未聞の事に候。野方所々より水湧き
出し吹き上る事四五尺にも及び、用水川筋夏の如く流れ絶
え、田の中或は凹み或は高く、高路も亦壞れ地裂候事、稀
なる事に候云云。
大地震の被害以て知るべし。就中、大岡村小林に至つては、
其悽愴殊に甚しく、下小林樋詰の東方一帶の地區(今呼で地震
窪と稱す)は、民家十一軒を載せたるまゝ、地下三丈餘に陷
沒し逃げ後れたる者は、地裂の間に落ち込み悲鳴を上げて救
を求むと雖も、人々己が身を處するに急にして、他を顧るの
暇なく、加之西方の懸崖崩壞して用水堀を埋め、河水流れて
陷落せし凹所に漲る。逃れんとわめく者、更に水に溺れて命
を殞せり。續發する小震は三日三夜絶間なく住むべき家屋は
悉く壞潰し、人々は稍々安全と思ふ地に野宿して生を保つの
み。初冬の寒風避難者の心を一層寒からしめたり。
沼津城は奧殿を始め、役所、長屋に至る迄悉く倒壞し、奧向
女中一人之がために死し、二人は重傷を負ひ、其他家中の死
傷者多し。通用門・喰違門・搦手門・東門等殘る方なく打潰れ、
加ふるに片端、北の長屋より火を發し、壹棟燒失せり。水野
侯は十日の間本丸内に假屋を築造して、土間同樣の所に起臥
せりといふ。沼津城下に於ける慘狀は即死二十四人、馬五頭、
其他負傷者に至りては枚擧に暇あらず。狩野川口より高浪押
寄せ來り、平の瀨に於て平水より高きこと六尺に及べりと。
越えて十二日、上土町より火を失し、烈風に吹き立てられ、
忽の間に川廓まで焦土となれり。當時「小林地震でめりこん
だ、おまけに沼津は丸燒た」と歌ひき。
駿河志料云、安政元年(嘉永七年)十一月四日辰の刻すぎ大
地震に、大瀨川筋の地、南北へ百間程、東西へ三十間程くぼ
み込、家數十一軒、家作立木畑小篠ともにゆり込、家の棟一
ツ所元地行よりは五丈ばかり底に見え、竹木は處々に聊殘り
ありて皆所在を失ふ。白晝のことなれば男女共に山野に出で
し故に、老人幼きもの許家にありしは、其まゝに立のく暇も
なく、地中に搖れこまれけるあはれはかなき事なりき云々。