[未校訂]○安政大津波の景況
安政の大津波の景況を、先年書記せしもの、頃日反古のうち
に遺りありしをもて、こゝに再び載す。
安政紀元寅のとしの夏の頃より、しば〳〵地のふるへること
あれども、甚だしき程のこともなかりしが、冬に至りて大ひ
に震ひ、ことに霜月三日の黃昏どき、卒然に海上あれて津な
み發し、木津川口より溯りて、市中の川々に水俄にますこと
平日より一尺餘、木津川はすこぶる激壓して、つなぎ泊れる
大小の海舶船河舟、たちまち纜をたちきられ、一時に道頓堀
川を東へ壓のぼされ、大黑橋に到れり。されば是が爲めに、
日吉橋汐見ばし住吉橋幸橋の四橋は、こと〴〵く毀滅ておち
船とふねと打あひ碎け、、或ひは河岸の人家の中へ突き入り、
小舟は舶船のために突衝りて沈み、或ひは破毀じ、地震を避
るには舟に乘て水上に居るがよろしといへる説を信じ、小舟
にのりて川中に在りしもの、忽ち水中に沈沒して、生命を失
ふもの數を知らず。わきて木津川の西岸に住る者、街上に水
の卒にあふれ流るゝに、辛ふじて免れんとすれども、方向を
失ひ周章騷ぎ、沈みおぼるゝ者もおほく、壯きは老を助んと
し、父母は幼きを伴ひ、狼狽まはりて、東へさして遁るゝ者
婦女小兒かなしく泣さけび、駈りて逃げはしる樣、見るに忍
びぬ形勢なりし、此にげ騷げる者の容を見て、始は何事の發
りし哉と、かけ隔たる市街に住る者は、驚きおそれて倶にさ
はぎたり。其夜はさらなり、翌日も西道頓堀の西岸より、木
津川の兩河畔には、衆人親戚知己の家に訪ひゆくもの、すべ
て火事見舞に往くが如く、巷にみち、翌朝夙より大黑橋に、
船舶のおしのぼされしを見んと、衆かまびすしく群れ集り、
船頭水主は川下に船を下さんとなすに、船の下より男女の溺
れ死たる骸、うかみ上るもの多く、又幸町うら町に沿ひ流る
ゝ櫻川にも、溺死人おびたゞしく、婦女の懷ろに兒を抱き、
手に幼き者の手を携えしものあり、又脊に稚きを負ひたる儘
死するもあり、或ひは杖にすがり、老夫姨の倒れ溺るゝなど
もありて、目もあてられぬ形勢なり。而してこれ等の死骸を
千日寺火葬場に運びつみおきしを、親族の者ゆきて引とり、
葬式を行ふに市中近村の野道具やに棺をけ賣きれ、四斗樽或
ひは椎茸茶などを入る櫃を、棺にかへて用ひ、葬送暫時も市
街につゞきたり。此際老人の話に、以前津波のありし時は、
船舶日本橋に到り、溺死も多きことゝ聞くと云へり。
此津波のことを銘文として、碑石西側町の北端の濱地にあり。