[未校訂]安政元年六月十四日地震す。十一月四日辰中刻大に震す。五
日申中刻又極て大に震す。屋倒れ壁破れ塵埃四に起り、大地
簸揚恰も坤軸の顚覆するを疑ふべし。人々周章狼狽叫號悲泣
老幼は股粟して起立すること能はざる者あり。已して海嘯大
に起り、其響巨礮の連發するが如く、船舶の碇泊せし者皆漂
ひ去られ、橋梁之が爲に半折し、漂船と共に秋津三栖の兩流
合流の處に逆泝し深く沙泥の上に膠棲す。大手通の土橋も亦
逆浪の爲に壞られ、本町の橫街水深きこと四五尺に至る。之
に加るに祝融の暴威を以てす。黃昏三栖口巷橘屋嘉兵衞、岡
屋源助の宅際壞屋の下より火を發し、須臾にして火燄四鄰に
迸漲し向ひ近づくべからず。西南風に隨つて北新町の東部に
蔓延し蟻通社に及ばんとす。曉に垂んとして風位東北に轉ず。
是より榮町を焚き南新町の一部、孫九郞町、勝德寺町、福路
町の全部、片町の東部、本町の東部に及び、火の熄まざる者
凡そ三日に亙る。燒失の家宅凡三百五十五、倉庫の燒たる者
二百六十六、別室の燒たる者十四、寺院の燒たる者三、以上、
流失の家二、流失の茶室一、辻番所二、死者九名にして、溺
五名、壓二名、燒二名とす。其他負傷の者多し。私有の米麥
を失ふ者三千三百六十九石、藩米は百三十五石。寺院三中本
正寺は發火の地に最近きを以て其夜直に燒け、勝德寺は當時
新築内部の結構未だ全からざるに、翌日辰刻に延燒、寺の後
鄰に原氏の造酒場あり、構築亦大なるを以て火勢の猖獗熾盛
極まる。海藏寺は全街槪ね鎭火の後忽然として火を發す。蓋
し何れにか潜伏せし殘炎の在りしならん。有名なる天授閣の
烏有と爲りしは殊に惜むべし。京都の畫家松尾秀山適ま來遊
して旅舍にあり。災の起るに及で防禦に從事して頗る心力を
盡せり。後藩より金貨若干を賜て功を賞す。其他下長町の下
等宿舍に起臥せる賤男子は往々防火に盡力せし者あり。坂本
氏俳優用の衣裳數十點を藏す。村落戯を演ずるの事ある每に
往々貲を出して之を借る。災の起るや主翁は直に此輩を指麾
して重要なる家財器具を出さしめ、功を賞するに此衣物を以
てす。火滅して後、榮御前樣の裲襠を纒て寒を護する者あり、
松右衞門の樋口兼光然たる者、大綱を畫きたる寬袖を着して
物を買ふあり、患難憂苦中人々以て笑と爲す。然れども變に
乘じて物を〓む者も亦多し。寒風栗烈の中に在て路傍に連繫
せられ凍死せし者あり。災に遭ひ飢寒を免れざる者は粥を作
て之を施し、救助の假舍を鬪鷄社前の松間に設く。袂を被り
履を輯めて貿々然たる者實に哀愍の限なり。此年藏倉には千
石の儲米ありしに、秋の初に皆糶出し新米を代糴せんと計り
しに、忽此變に遭遇し大に功を過まりたり。田邊藩領の此
災に罹りし者新庄村高瀨村を殊に甚しとす。人家流失する者
多く、死者も亦往々にしてあり。○下略