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項目 内容
ID J0400299
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日(西曆一八五四、一二、二三、)九時頃、東海・東山・南海ノ諸道地大ニ震ヒ、就中震害ノ激烈ナリシ地域ハ伊豆西北端ヨリ駿河ノ海岸ニ沿ヒ天龍川口附近ニ逹スル延長約三十里ノ一帶ニシテ、伊勢國津及ビ松坂附近、甲斐國甲府、信濃國松本附近モ潰家ヤ、多シ。地震後房總半島沿岸ヨリ土佐灣ニ至ルマデ津浪ノ襲フ所トナリ。特ニ伊豆國下田ト志摩國及ビ熊野浦沿岸ハ被害甚大ニシテ、下田ノ人家約九百戸流亡セリ。當時下田港若ノ浦ニ碇泊セル露國軍艦「デイアナ」號ハ纜ヲ切斷セラレ、大破損ヲ蒙リ、七分傾キトナリ、後チ遂ニ沈沒シタリ。震災地ヲ通ジテ倒潰及ビ流失家屋約八千三百戸、燒失家屋六百戸、壓死約三百人、流死約三百人ニ及ベリ。翌十一月五日十七時頃、五畿七道ニ亘リ地大ニ震ヒ、土佐・阿波ノ兩國及ビ紀伊國南西部ハ特ニ被害甚大ナリ。高知・德島・田邊等ニ於テハ家屋ノ倒潰甚ダ多ク諸所ニ火ヲ發シ、高知ニテハ二千四百九十一棟燒失シ德島ニ於テハ約千戸、田邊ニテハ住家三百五十五戸、土藏・寺院等三百八十三棟ヲ灰燼トナセリ。房總半島ノ沿岸ヨリ九州東岸ニ至ルマデノ間ハ地震後津浪押寄セ、就中紀伊ノ西岸及ビ土佐灣ノ沿岸中、赤岡・浦戸附近ヨリ以西ノ全部ハ非常ノ災害ヲ蒙リタリ。津浪ハ南海道ノ太平洋岸ヲ荒ラシタルノミナラズ、紀淡海峽ヨリ大阪灣ニ浸入シ多大ノ損害ヲ生ゼシメタリ。震災地ヲ通ジ倒潰家屋一萬餘、燒失六千、津浪ノタメ流失シタル家屋一萬五千、其他半潰四萬、死者三千、震火水災ノタメノ損失家屋六萬ニ達セリ。
書名 ☆〔安政見聞錄附圖〕○一名如夢實話
本文
[未校訂]本書ハ紀州有田郡廣村住古田庄三郞致恭ナル人ノ手書デアッテ、安
政四丁巳春當二十二歳トシテアル。序文ニ子孫ノ爲ニ書殘ス、門外
不出タル旨記シテアルガ、ソレガ今ハ廣村養源寺住職守法氏へ傳ハ
ツテヰル。本書ニハ冒頭ニ目次ガ次ノヤゥニ揭ゲテアル。
○諸國地震高浪衆説○同輕重之事
○日本國中地震津浪安否早見全圖
○地震原因之説○廣高浪之圖
○廣高浪説 自初回至十回
内容ハ上記目錄ノ通リデアルガ、其中冒頭カラ地震原因之説ニ至ル
マデハ地震津浪ニ關スル一般的記事デアルヵラ之ヲ割愛スルコト
ニシ、最後ノ二節ダケヲ拔萃シ、尚ホ卷末ニ附シテアル隣村ノ狀況
ヲモ收錄スルコトニシタ。
題字
天作孽猶可違避自作孽不可活
錢金や美ふく美宅をのそむより
つなみ地しんをおもひ出すべし
目錄
○初回 四日地震諸人村を離逃去る事
〇二回 五日諸人歸村之事附井水乾之事並に大地震及高
浪 諸人再逃走騷動之事
〇三回 濱口大人智發火を放諸人を救ふ事
〇四回 溺死人之事附不思議に一命を拾ふ人の事
〇五日 諸人在々へ落行或は野宿之事
〇六回 諸人へむすび飯をたまはる事並に浪靜る事附盜
賊之説○六日未明諸人廣く見廻りに歸る事○廣
市中在樣之事○寺社破損並諸物流失及溺死人數
之事○市中諸家名前流失委細之圖○浪上り留之
事○狂歌
〇七回 救小家之事附施行之事○諸人追々歸村の事○大
晦日地震の事○濱口大人仁惠土堤をきづく事
〇八回 卯十月廿三日夜地震廣中騷動之事
○九回 井水濁之事
〇十回 廣平治八幡におゐて御祈禱並に餅まき諸人群集
をなしよろこふ事、大尾
○湯淺高浪之事附後日之寄談○酒論之事並他村○女房を
間違へ負ふて逃る事
如夢實話○初回 廣高浪之事
○抑嘉永七甲寅年霜月四日巳之刻過俄に大地震おこり、瓦飛
壁なと崩るゝ程にてありけるが、誰云となく高浪上るとて老
幼家物を所緣之方へ預る人も多かりき。當家之老母時に年六
十九歳、此地震に恐れ、直に東隣橋本氏之娘子を曳連、明王
院へ逃籠、諸品此に預くる。殘る雜物は藏の二階へ入置ける。
扨夫より大小之地震數度あるひは小津浪等は平生あらぬ處迄
潮滿たり、干べき折みちたり、不審之事とも多く、人々いよ
いよ心細くやありけん、一人逃れば我も〳〵と跡を追ふて段
段村を離れ、小高き處所緣の方へ逃延けり。日も黃昏におよ
び、天無常ならずます〳〵浪きは高かりしかは、村中の人大
かた諸道具を携逃たりけり。當家内は明王院へ行、男二三人
番に殘る中にも、世間に我慢強きもの何の津浪が上る事がい
と、家物も出さず其身も覺悟なく、吾れ受あふなとゝ剩高言
吐、大きな顏して居られける。さて今宵我宅を離れ所緣なき
ものはあるひは茫然と野に立、山に伏、塞氣におかされ月も
なき夜の困みは、今や大敵の寄來らむとするが如く、實に戰
國のありさまも斯やとおもはる。此夜子刻過亦大に震ひ、家
に殘りし人も門外あるひは裏へ飛出しまゝ夜の明るを遲しと
待たりけり。
〇二回
明れば五日朝方少々風吹雲を拂ひ思ひかけなき晴天と成、殊
に海面常よりも穩にて清々と春景のことく、昨日とは雲泥の
相違なかりしかは一同安堵の思ひをなす。暗夜に燈を得たる
心地して皆夫々に家物を持歸る者大半に及、昨日逃ざりし我
慢もの得たり顏していよ〳〵鼻をのばして高言を申されけり
されとも用心深き人はいまた家に歸らず。
不思議なる哉今日處に寄井水さつぱり涸し家あり。是を聞
く人々我家の井を例し見れば、あるひは一尺又は二尺減り
し處もあり、又別條なき家も有、其しなまち〳〵なり。是
に依て此井の變をしらぬ人も多かりき。當家の井を見るに
常に變る事なし。また西側の庭の井を見れば平水より二尺
ひくし。東隣の人來、私方の井も常に變らすと云。後の人
よく〳〵推すべし。
早日も西山に傾き申の刻頃又大地震して壁など悉く崩落、土
塀は見る中はた〳〵と手を反す如く、あるひは地ひびわれ水
いでし處もあり、弱き家は是に倒れあるひは怪我人有時に、
西方のあたり火の光天をこがし、大雷の如き音遠近に響くこ
と引つゞいて三四度に及折、俄に日色朦朧として光を失ひ宛
も日蝕の如く衆人恐驚逃覺悟の事他事なし。酉の刻に及スワ
高浪と立騷ぐ程こそあれ、天地震動して白浪空に逆ち躍り、
潮煙雲のごとく散亂する事夥、數拾丁陸に至るまで雨の降が
如し。此に至諸人夢かうつゝかと途方にくれ、周章大かたな
らず取るものも取あへず、夫れおそし逃よ〳〵と老たるを負
ひ幼を抱き家を捨、湊邊の人は烏の森通りを走り、西丁の人
は段へ走りたりしが、最早川筋を浪上り岸にみちける、思ひ
〳〵に足を運ぶ隙こそあれ、早一番浪(此浪の起らんとするや
湯淺浦へ打上、夫より逆さまに打かへし、一さんに廣の西へ激發し
て又東へ上りしなり)西の方より汐脚大道邊まで上る。是にて
濱通の家大かた損亡にいたる。此において親は子を失ひ子は
親に離れ、夫婦兄弟別れ〳〵になり、あるひは山に登り遠き
に落のび漸辛き命を拾ふ。やがてに番浪に至死するもの數人
三番に至流亡のもの益〻多く、歎悲聲山野にみつ、當家内は
地震するよりまづ火を消し藏の戸を締、家は明たまゝ明王院
へ逃入り、老母と對面いたし、夢の覺たる心地して互に悦、
神佛を禮拜しいよ〳〵愼てぞ入られけり。
〇三回
扨後れ走の男女危くも二番浪をまぬかれ、今や三番浪起り來
らんとする時草履をぬぎ捨、波をふみ既に田に出走らんとす
れども途は次第に暗く方角を失ひ殆んど難場に及、此ところ
にて海の鬼となるべきやと泣叫聲に應じ忽然と火燃上り、忽
炎天に登り四方白晝の如くになりしかば、是に便を得て氣を
勵まして九死を出て一生をもふけ、蜘の子を散らす如く上へ
〳〵と逃のび鳧。畢竟今野に火を上たるは誰ぞと尋るに、則
當村の舊家濱口儀兵衞君(號梧陵大人時に年三十五有餘歳)其性
質大丈夫にして殊に仁智深かりしかは、今日の地震只事なら
ずと兼て覺悟をきはめ村中を順廻し人々を逃し、二番浪にも
恐れず寄來る浪を東西南北へ免れ、なほも後れ走の人にあや
まちあらん事を恐れ見廻りし處、黃昏に及道分明ならず、こ
れによりて智略を發し野にあり合せし積し藁へ火を放ち多く
の人を助けしなり。殊に其志よの常の人の及處にあらず、神
か佛かと感ぜぬものは無りけり。まさに三番浪起らんとする
氣色至てすさましかりけれ。此において濱口大人今に及殘り
死すものは天命なり、いのちほしきものは早く逃げよと大音
あげながら漸大道中頃に至西を見かへれば、すでに飜り起る
大濤の高き事天王山に齊ならひ、その迅速なる猛蛇の怒りし
勢も此やとおもはる。忽東南に廣がり一面の白海となり、潮
煙天を覆ふ。濱口大人も是に驚一生懸命走るといへども、浪
の早き事飛鳥の如くなれば、浪にひたさるゝ事度々に及、さ
れども厚德の運によつてあやまちなく、終に八幡地内に遁入
る。いさましかりし事ともなり。此時に及或は宮山へ逃登る
ものもあり、或は法藏寺又は殿村其外思ひ〳〵に高遠の處へ
逃しものは勿論助り、運拙なく走り後れたるものは悲哉海の
ゑとなりしなり。中にも不思議に命を助りしもあり。末の回
にくわし。夫より又夜に入り浪上る事四度に及、都て七度、
三番浪尤烈しく且つ高かりしなり。(貳人高樹に登り助りしに五
番浪甚高かりしと云候)
〇四回
扨も前日より我慢いゝつのりしもの今日の變に始て驚、急に
家物を運ばんとするに叶はず逃んとするに日暮道遠く、今さ
ら心氣をいため終にくるしみ其身をそこなふもの少からず。
叉老人や親の病氣にかゝはり是を捨るに忍びず其身もろとも
に流死する人あり。是一つは孝功の道に死すといへ共、互に
あたら命を犬死する事是も天命と言條ひとつは前日よりの不
覺によるなり。不覺は大てい衆人の言をそむきあなどるゆへ
なり。天人を以ていわしむるといふ古言恐愼まさるべけんや
此度の變またあらわれざる前人々津浪上る〳〵といゝふらせ
しも、果して前表にてありしをみれば則天にあらずして何ぞ
や。君子は機を貴ぶべし禍其身に逼らばまぬかるゝ事かたし。
後世の人是を明にせよ。誠に前車の覆るを見て後車のいまし
めとすべし。人は何といふても我は我たりとこゝろを定人を
たのみになさす、兎角我備をたつるを肝要とすべし。斯樣の
時に及衣類家財にかゝわり、父母より受し大切の身體を傷ふ
は實に不孝ならずや。愚なる事ならずや。斯樣の急變にあた
りては格別の思慮に及ばず只逃るを妙策と心得へき事なり。
如何なる大切の品ありとも身亡て何にかせんや。手柄をなさ
んとて却て身を失ふものまゝあり、逃過てあやまつものをき
かす、叉逃後れ家根或は樹に登り幸助りし人もあれども、危
いかな是全止む事を得ざるの事なり。後世の人必々是らをの
りとする事なかれ。此に橋何某不計逃後既に浪にまかれ危か
りしに、藁家根のふひふひと流來に取つき當家の裏へ漂寄。
此處に百年餘になる肉桂の大樹あり、太さひとかゝへあり。
津浪後枯て伐此木に飛うつり息を休め、もし流されし時の遺
物とて枝へ着たる處の次をしばりつけたり。然處暫浪のひき
たる間飛下り命からがら段の方へ上る。されども大に塞くも
のいふこともあたはず。然るに濱口大人の御苦勞にて人に迎
はせ焚火にあたり漸元の人にかゑれりといふ。斯樣の類多し
といへども略す。(濱口大人御苦労の事先にしるす、てらし見るべ
し)
〇五回
去程に濱口大人八幡へ逃入しより息をも休めず先つ無難の人
人へ悦を述、直に究意の男を取つれられ、若後れし人の流さ
れ來らん事を思ひ段の邊迄見分に戾りし處に其近邊迄逃來、
逆に浪に溺九死と成て苦しむものを救助る事數人みな大にこ
ごゑけるを、鳥居邊にて火を焚あたらせ漸元氣つき感淚を流
し悦ぶ事限りなし。扨も逃し人々は殿村中村、井關、中野、
所緣あるかたまた懇意のかたへ至、宿を賴み食を求叉法藏寺
旦中は我がちと此にいたりたちまち堂に滿、其人數あげて算
ふべからず。常に荒く是迄念佛を申たる事なきものも掌を合
し眞から念佛を申けり。叉明王院へ賴入る人も多し。憐むべ
し足を託する處なき人々はあるひは八幡の境内繪馬堂あるひ
は拜殿或は觀音堂の四方、是に餘る人は雲を天上とし地を席
とし草を蒲團のかはりとしてあるひは大樹の蔭なとに縮り居
折しも、度々大小の地震に驚され、堂叉家に居る人は出たり
這入たりする有さまさながら煤掃などをするが如し。叉は畑
へ莚を敷居るもあり、中にも用心深き人もし此所迄も浪の來
らんかとおもへば思ふ程胸くるしく、魂も身にそはす足震ひ
我身の搖動するをも地震かとうたがひ、こゝろもとなくやお
もひけん山の絶頂へ上り居るもありけり。後におもへばおか
しき事共なり、中には夫婦兄弟離々に逃しより其行衞をしら
す、泣聾を發し名を呼尋るありさまあわれといふも愚なり.
たま〳〵尋逢人は誠に再蘇たるこゝ地して互に淚にしみなが
ら抱きつきあふもありけり。
〇六回
扨も逃し人々は勿論晝飯より一食する事を得ず、殊に平生弱
き人も恐しさあまりて思よらぬ力出て、家物を脊負或は荷な
ひ一生懸命働きし草臥追々發り、塞氣は夜更るにしたがひ烈
しく、次第に空腹におよび殆飢んとする折から、法藏寺にお
いて飯をたかせむすびを拵衆人へ一つ宛賜はる。時は申の
刻頃なり。誠に飢たるものは食を甘んじ渴するものは飮を甘
んずと、古人の言宜なる哉。今夜のむすび一つは平生山海の
珍味飽まで食するに勝れり。是をおもへば平日泰平の世に居
ながら驕をきはめ酒色に溺れ食物に不足をいふは、實に天下
の罪人とやいはん。恐つゝしみ天の命にまかすべき義、是人
たるものゝ專要なり。人は萬物の靈といへり。然りといへど
も天を恐れざる時は則禽獸に劣れり。孟子も人の禽獸をさる
事殆稀なりといひ置れり。叉飽暖にして教なきときは是叉禽
獸に近し。仁義忠孝を全ふして而して後に萬物の長とも靈と
も言なり。我子孫必是を忘るゝ事なかれ。さて此一飯に大に
咽をうるほし腹あたゝまり、大に悦神佛を祈後々の安穩を願
ひ夜の明るを待たりける。
扨神佛を祈るも先我身を清淨に心を潔白に、親に孝君に忠人
と交りて信、一家睦じく商賣に高利をとらず、惡事をいたさ
ぬうへ信心するは可なり。聖人もの玉へり鬼神を敬して之を
遠ざくと、然るに何ぞや我身を濁し心を常に邪に配り行正し
からずして或は富貴を願ひ病難を助けんといのり、我を福に
すれば人は何なりともかまはぬ心がけにて神佛に近づきなれ
かすものあり。是我こゝろを以て我身を欺く也。神佛なんぞ
是をうけんや。
夫神は非禮を受ず正直なる事則神前の鏡の如くなるを見て知
るべし。神は正直の頭にやどるとかや。されば神はあるとい
へばあり、なしといへばなし、人間いかでか是を知らん。然
らば恭三日其外參詣いたし敬して遠くをよしとすべし。必無
理なる願はなすべからず。然るにむつかしき願をかけ其利益
なき時は則神をそしり或は外の宮へ行て叉右の如くいたし迷
ふものまゝあり。是神を持遊にするものなり。つゝしまずん
ばあるべからず。道實卿もの玉ずや、心だに誠の道に叶なば
祈らずとても神や守らん(是は三尺の童子も知歌なれども守
る人まれなり)。誠に是に相違なき事なり。叉ある人の歌にみ
な人の參るやしろに神はなし心の内に神そまします、是を以
て明むるに足れり。中々天災病難等其外富貴長壽は神の及處
にあらず、聖人もの玉すや、死生命あり富貴天にありと。此
通りなり。されば善人とてよき事計あるものでなく叉惡人と
て惡しき事計あるにてもなく、みな天自然なり。人力の及處
にあらず。さりながら君子は常に善を守り仁義の道にこゝろ
を寄、深く愼み戰々兢々と薄氷をふむが如くにして而して災
の來ることは天命と明らむ。小人は身の業も務ず放逸にして
酒色に溺れ自ら病をもとめ、あるひは金銀を貪り而して困窮
するをも天命といふて己が身をかへりみせむる事をしらず、
是君子のこゝろに反し惡人といふべし。所謂自らなせる孽は
のがれがたしとは此事なり。鳴呼つゝしまずんばあるべから
ず。浪は七度上りしより夜半迄全靜りければ究竟の男子とも
未明より追々我家如何と見廻りに歸られけるが、恙なき家も
早盜賊に家財を奪はれたるもあり。
實に盜賊といふものは己れ獨榮耀せんとてあくまで天理にも
とり、翌日にも首の落る事を知らず、かゝる危き事を爲す。
さて叉斯樣の時にあたりて平生善と見へし人も一旦の利慾に
迷ひ、虛に乘じて惡心起りあたら身を害するのみならず、父
母の名をけがし或は御上の御苦勞に預るものもあり。また平
生格別見處なき人も時に臨み彼是につき思の外眞實のあらは
るゝのみならず、功をたて譽を受る人もあり。されば往古よ
り國亂れて忠臣あらはれ、家なやんで孝子出と云、此理なら
ん。凡人の子たるもの唯正しき人と交り賢者に逢ては善をき
ゝ見ならひ、惡しき人には心のうちにて遠べし。巧言令色を
みゑにする人には實すくなし。人たるもの明に察せずんばあ
るべからず。
追々東白み鶏の聲など常に變り細々といとあわれに聞へける
(尤廣村の鷄猫類昨日の難に死せしもあり、棟或は二階等にてまぬが
れしも有)頓て手の筋も見ゆる程に明れば、雀啼といへども處
はきのふに變烏は悲の聲を發す。早明渡りければ衆人廣のか
たをのぞみ見るに、思の外四ケ寺の屋根及並家根見へければ、
是にて少しよろこびの色をなす。しかれども浪の上りし跡は
海底の砂泥にて田も溝も町も平一面に成、道を分つ事あたは
ざれば、老幼女子は通行する事ならず、就中血氣の男子共は
難を厭はず見廻りに歸られける。田町すしは一かろく尤西
の方にて少々湊養源寺前にて少々當家前三軒西隣一軒流亡、
中町は湊西の端にて三つ通流亡、尤西の方多し。濱町西側不
殘流失南側纔五六戸殘るのみ。(吹田宅は寳永にも殘り叉此度
も殘れり、勿論鳥籠の如くなれども妙なるかな)三町ともに
半潰或は九分潰等ありといへども其形なし。廣の地凸ならば
田町中程の家は床下迄外浪の上らぬ家もあり。其餘は皆床上
より一尺或は二尺三尺、處に寄其高下あり。中町に至ては五
尺六尺、勿論中程の家は輕し。田町に順じてしるべし。濱町
に至ては屋根より上に過たり。(委しくは先の回にしるす)扨崩
れし家も諸道具も雪陰も人も亂入岳の如くに積かさなり東西
も分ちがたく眼もあてられぬ次第なり。其後追々人立戾り或
は死骸を尋ほり出すもあり、終に知れぬもあり、またはるか
日數を經て漁舟など沖にて網へかゝり引上來るもあり。叉態
〻磯邊へ尋に行見付るもありといへども、混亂の中なれば葬
式も行とゞかず粗略にすみしなり。叉財寶諸道具をほり出す
もありといへども皆泥ごみと成りぬ。或は瓦をあつめ道を直
し家を洗掃除し、數日を經て漸人の往來するやうになれり。
當家内は明王院において一間の座敷を借切居る今朝男を見廻
りに歸せし處家藏は壁崩れたる計にて無大破、部家は棟少々
斜む、裏の土塀は不殘崩、浪は三尺上りし跡あり、高き戸棚
に入置しものは無別條、下へ置たる品物は戸棚押入の差別な
く流失、殘りしものも散々なり。可惜ものは兼て昨日藏の二
階へ入置し故無事を得たり。藏は入たまゝ透間より汐の出入
せしと見へ庭は濡てあり、家は明たまゝ逃しゆへ害尠し。如
何となれば濱町より追々流來向三軒の崩家等一時に當家へ打
あてしまゝ累々と岳の如くに止り、格子散々に破裂し、諸物
戸障子等流往來し座敷をぬけ肉桂(前文にあり)の木へ留りし
もあり。叉庭の戸口をぬけ出て藏に留りしも有、叉床の間に
大なる鱠殘魚潮に引殘されてあり、斯樣の類多し。もし昨日
用意に念入戸を入て置たらば、諸物激發逆散して突倒され大
に害有べき處なり。是も亦命なる哉。不念變して幸となりし。
○廣村家數三百三拾九戸之内、百廿五戸流失、拾戸潰、四
拾六戸半潰、百五拾八戸潮込破損、惠比須社西湊二ケ所流
失、祇園社流失、大將軍社大破潮込、神宮寺潮込大破、安
樂寺本堂潮込大破、其餘不殘流失、圓光寺潮込大破、覺圓
寺同上、正覺寺四ケ寺之内輕し。(湯戸雪陰)流失、養源寺
四方之土塀悉崩、松凡六七拾株倒或は損枯後代取。
○人數千三百二十三人之内、三十六人溺死、(内六人七歳未
滿者)、十二人男、十八人女、怪我人なし、牛馬無事。
其後追々病氣起死する人甚多し。是全津浪のつかれなりや
とおもはる。
○船拾三艘流失内(壹艘魚船、二大漁同、三手ンマ同、三
同手操、四小同右同)、同六艘破損、(大漁船壹、手操同四、
傳馬壹)、網四張流失(地曳、ワラアミ、魚同)橋三ケ所流
失。
○御藏貳戸流失、御高札場流失、(但御高札取集無不足)村
方諸帳面無別條、浪の留りは中道筋は一本松より二枚下の
田迄、西は山本下出迄、川筋は馬出し場下迄湊は烏の森の
裏筋迄廣川筋は名嶋堀川屋湯限、此處に傳馬舟壹艘流寄、
大納屋新田前に五六十石船二艘有、是は備前蜜柑船二艘共
少々損しけれども格別の破なし。別所田に船或は家の破れ
し古木其外雜具類山の如く流寄れり。
昔寳永四年の津浪は舒々として來るゆへ能走るものは浪を負
ふて免るゝ事を得、其去る事至て烈敷、二番浪にて夥敷人家
を失し由。三番浪にて輕果る浪は一本松迄行し由。此事を人
々每々記錄等にて見或は聞傳へしゆへ、皆其心得にてありし
處、此度は之に反したるゆへ大に人の氣をそかなふ。されど
も浪ちひさかりし故大に遁安かりしなり。若昔寳永の時の如
く二番浪強ければ甚人を損すべかりし。往古文明乙未の頃の
津浪は井關三船谷迄上りしと云。故に三船谷といふは此時舟
三艘此處迄流寄りし、夫より人唱ふる名なり。また八幡石壇
三つを浸す。叉天正の頃の津浪は廣安樂寺遁れしよしにて、
寳永の浪には人々安樂寺(此頃建立ありて三四年なりし)を慥に
思逃入、二番浪の高かりしにて堂鐘樓も引倒され夥人を失せ
りと記錄にあり。然るに此度は堂計殘れり。さればひとり浪
の輕重によるといへども亦一は時々の變あり、必定すべから
ず。後世の人是を辨へ、すわといふ時は逃處等大に心得ある
べし。尤臨機應變を貴ふべし。扨地震心得の歌に、地震には
唯々廣きとこへ出よ、藏軒土塀石垣を避、是一寸平生の心得
にもなるべければ序にしるすのみ。斯樣の事は人々自然心得
有べき事なれども、其時に臨大に周章して迷ふものなり。隨
分平日腹をきはめ置て可ならんか。
○津浪には橋を便りに逃るなよ川へは早く潮のみつれば
○津浪には只足ばやに宮參り跡の事へは念を殘すな
○津浪ぞといふ人あらば疑はずたゞ一心に逃支度せよ
○大變におよばぬ間こそ覺悟せよ一寸先も知れぬ人々
○剛情をいふて逃すに流されて浪の中にてさぞや悔らむ
○しつかりと見へてあやうし無稽武者まだも大地と驕金持
○さけ博奕女くるひと飯と汁味のよいのに心ゆるすな
〇七回
浪は靜りしといへども地震はやまず、日々大小の動搖數も覺
へぬ程なり。扨つゝかなき家も先づ破損跡の掃除或は普請に
かゝるといへども、中々以て容易に成べきやふにもあらず。
足を託する處なきものには宮の馬出し場邊或は明王院の東藥
師堂邊へ救小家を立寓居させ、大家すじ栖原湯淺廣より救玄
米を其家々の分限に應じ出す。
目錄
右救玄米は日々粥に焚(但観音堂邊にてたく)衆人へ施行事同年
十二月晦日迄、其後は米のまゝ施行、比しも師走上旬に移り
追々家々の普請もそこ〳〵に壁抔出來ければ、同月十三日吉
日に付當家内新家其外大槪此頃目出度歸村に及べり、しかり
といへども疊も十分には敷べからず、漸潮出したる疊を裏か
へし敷くらひの事なり。其餘推知すべし。女中連は今日始て
歸村なれば四方の有樣を見て驚仰天せしも理りなり。扨歸り
し事は無理々々にも家に這入しが酒呑には廣中になし(西の
酒屋は浪に桶悉浮上り藏もろともに流亡す、のち大桶倒れしまゝ雨
さらしになる事今に及べり)。
湊の辻の酒屋は殘りけれども混雜にて中々賣るべくもあら
ず。其外商賣は何家も同斷なり、しかし餘の商賣のとまりし
はともあれ每日入用の品、す、豆ふ、醬油などの不自由には
大に困けり。其難儀常におもひ出し無益の驕なすべからず。
先々是程の事は有かたしと日々安穩を祈ける。實に晝夜は水
の流るゝ如く早月迫大晦日となりし。しかるに今日地震八九
度に及尤大なり。(津浪後每日ゆれしも格別なりとしるべし)故に
諸人再恐怖無限家財を携逃る人もあり、當家老母また明王院
へ退居す。しかれども何事もなく、明れば改り安政二年元日
は只寒きのみ大震もなく目出度かりける事共なり。されども
禮者の往來はせず松飾等勿論なく餅搗し家も稀なり。是も大
家すじには唯神を祭る程御祝儀に搗しのみ。扨叉小家に寓居
する人には曆も無誠に塞盡れども年をしらす、去年の春を思
ふては擧(みな)首を疾(やま)しめ額を感めて歎息の外他事な
し。はや春も半になりければ暖氣日々彌增凌安そなりける。
しかしながら花はさけども遊宴の沙汰もなく、桃の天々たれ
ども節句の差別もなく、蝶の遊びたわむれ飛かふを見ても是
をうらやみ、緡蠻たる黃鳥丘隅に止るを見ては我止る家なき
をなげき空敷數日を送りける。頃しも五月雨に及ければ蟹或
は毛蟲蛙其外種々の蟲類小家の中へ見舞に這入られ大に困
けり。其頃廣村も濱口大人の御世話にて長家を立ければ追々
此に入人あり、叉湯淺邊へ行もあり、あるひは在邊へ行もあ
り、其品さまざまに散去ける。扨濱口大人は何卒元の廣にい
たし度と色々御心を配り長家など建連ね人の立歸るやう御苦
勞いたされける。是に因て餘村へ行んとせしものも其恩德に
感伏し歸るも多かりき。夫より叉濱通りへ土堤を築事を企ら
れ、折しも大勢の人を集め其賑ひ花々敷人の眼を驚かす。追
々に成就いたし諸人大に力を得歡事いふもさらなり。
〇八回
地震は卯年十月頃まで每日のやうに震り、外へ飛る事何度と
いふ數を覺へず。或は叉小高浪等浦々へ打上、騷動する事度
々。予卯十月五日銚子發足し伊勢其外京浪花へ廻り長旅に成、
十一月七日廣着す。其頃より少し地震も薄らぎける。辰の年
に明正月も大槪平年の通禮者も往來し衆人悦あへり。二月上
旬叉度々中大の地震に飛出る事有、或は是に驚逃る人もあり。
其後も忘頃々々震けれども別條なし。同年十一月廿二日夜中
大震、廿三日夕六つ時中大に震、其夜半頃俄に人立騷、海の
汐常に異なる由。追々家々の人眼を覺し、叉寢込し家はたゝ
き起し、大かた村中の騷となり、或は海の容體を見に行く人あ
り、叉は逃る人も多し。村主より濱へ七八人番を出し、若異
變あらば早速町中へ觸しらせんためなり、叉町々を金棒曳て
まはり嚴重にいたしけり。然るに念を入れて潮の樣子を見て
歸る人常に變る事なしといふ。夫より人すこし安堵の思をな
し、叉殘りけり。中にも恐案して居るもあり。以來いよいよ
安穩にて悦けり。
扨此事後に聞けば其夜東にあたり、火の光宵から八つ頃迄不
止見へける(是は山火事のよし)を叉風も烈しかりしかば、火の
元氣を付べしと誰かいゝしとなり。此に叉今宵沖より歸りし
漁士のいふには沖は常より浪荒きよしを語りけるを、混雜に
誰かきゝとり、殊に此日度々地震もありければ思ひ通し、右
の次第になりしも理ながら、言は愼まずんばあるべからず。
論語にも多聞闕疑愼言其餘則寡尤と曰へる、宜ならずや。
〇九回
此に甚難澁なるは津浪來家々の井水濁或は潮辛、皆遠方へ清
水を汲に行、あるひは廣川西の方の人々は、乙田黑岩邊其外
清水ある所ときけば遠道をいとはず我かちと先を爭ふて往來
する有樣見事なり。其うち追々清む井も有りしに、當巳の春
に至れども直らぬ井も多し。當家の井はいまだ濁退かず且金
氣多し。尤折々清かかる時もあり、暫の間にて叉濁る。いつ
の時かなをるらん。勿論水かへも度々しけれども、其時のみ
叉濁、全水脈とゝのはさるゆへなるべし。
〇十回
話跡へ戾る、照見るべし。卯十月五日は津浪の期年に付八幡
宮において御祈禱有、且餅まきいたし群集をなす。叉此日土
堤へ家々より一人宛出て土を持運ぶ、辻の濱にて御湯上ケ土
を持し人へ此處にて家々分限に應じ米を焚出しむすびにして
遣し、勿論御役人衆出張賑々しく事なり。翌辰の年今月今日
此例に從ひ去兩年とも殊に穩の天氣にて諸人悦賑へり。來る
年も來る年も定て此日は賑しかるへし。盆踊等も大いに花々
敷かりけり。是全御代の餘澤且は濱口大人厚德の餘光天是を
たすけ賜ふならんかし。稱すべし稱すべしめてたしめてたし。
必愚筆の及はぬ事多からん。其は見る人推察せよ。必予が妄
語なるをとかむる事なかれ。あなかし古。
湯淺村の話
扨當村の衆人は四日の地震に諸道具を携、考幼別處村青木山
田吉川其外近在の所緣或は懇意の方へ逃行、男分計跡に殘け
れども何事もなく、明れは五日平日の如くなりければ、昨日
持運びし物も叉大かた持歸事廣同樣、然るに申の刻頃の地震
に怕れ北町邊の人々北川向ひの大根畠などへ疊を席敷、居所
を構へ、此に至今日持歸りし着類蒲團抔の荷物幸いまた束ね
しまゝ持行並ひ集る事數百人、喰事も此にていたし夜を明す
つもりに用意悉備り、さて昨日は津浪といふ聲に怖逃げれと、
往來穩なれば波の事には更に思寄らず、人々をゆるしたゞ地
震のみを案し、或は甚しきは濱へ荷物を運び居る人もあり、
思ひに明地に居られけるはうたてかりける事共なり。漸あり
て未申の方にあたり雷の如き音鳴ひゞき、海を詠○眺カむれば
浪上穩にて疊を敷たる如く、酉の方より亥の方迄は雲厚くた
な引く、未申は日光照々と雲なけれども、すでに海上に近く
せまり赤氣覆ふ心地す。日光の下にあたりて聲頻なり。(廣湯
の隔りにて海沖の樣子少々別あり、廣より西に中り火の光見
へし事前に有)酉の刻頃に及再天地震動して、數千の家々一
時に騷立、諸道具を持運び、おもひ〳〵に逃る有樣、周章途
を失ひ迷事推して知るべし。此時北町邊の或人磯畑へ出海を
見るに、なほ穩なれども水際に忽然として白漚の立上る事一
尺計り、濁りを發する事二三尺、洲崎へ打上るひとしくまた
一尺計、續て一尺また一尺と次第次第に水の沸くが如く、あ
れよ〳〵といふうちに岸の如く水高、南は廣の波戸より北は
湯淺洲崎足の下より只一面に山の如く鳴動して立上る勢、浦
邊に置し船も雜具も、磯邊に繋ぎし大船も、皆一撫に大風の
塵を飛すが如く、筆墨にも盡しかたし。諸人恐驚、親子兄弟
離れ〳〵に滿愈寺始天神山悟念寺或は向山邊へ逃行けり。其
夜は山々所々へ逃し人々、暗夜の事なれば松明の光天を焦す、
其夥事昔楠公夜兵を用ひられしも斯やと計おもはれける。或
は叉親を尋子を呼聲々は恰も數千の軍兵喊の聲をあぐるに似
たり。追々明れは六日夫々尋會廻逢無事を述、歎の中にも幸
を得るもあり、叉は親を失ひ子にはなれ、歎の中に悲をそふ
るもあり。鳴呼天なる哉命なる哉。
扨町々小路々々或は濱村の端々へ船材木或は古木古竹、其外
諸道具の碇損もの山の如くに流集、濱町より西は北より南に
至る迄一面、其外北南兩端一向往來出來ず、救合○護の誤米にて
難澁なる者を施行、日雇に遣ひ一人宛白米小ます二升宛遣し
右の惡雜物を片付させける。此人足每日北南濱より四百人餘
岡方難澁の者三百人餘都合七百餘人餘づゝ皆救合米の助にて
命をつなぐ。凡日々人足米二十七八俵より三十四五俵づゝ入
其餘足を託する處なき者には滿願寺門外へ救家を二ケ所建、
村長下知して一日に一人前二合當の積にて粥を焚、當六日よ
り十二月二十五日迄施行、同月二十六日より來る卯正月十六
日迄一日に一人前米にて二合づゝ遣しける。
○川原 辨財天鳥居近所にて七八軒殘る。新田筋にて八軒
殘、其外皆流失。
○中川原 丁子屋近所にて四五軒殘る。其外皆流失。
○大小路筋 西は何某長兵衞宅近所少し殘る。夫より東は
皆右同斷。
○鍛冶屋町 坂の下 流失。
○北戸岩 家不殘流失。
○北川土橋落 橋詰にて家二戸流失。橋の三五郎屋敷にて
借屋二軒流、鍛冶屋細工部屋三軒流、是皆三五郎屋敷。
○北川堤荒 橋の向ふよりの堤皆崩流、同詰北川堤二十間
餘崩流、土橋下も南側堤養仙川口にて二十間餘流崩。
○潮入場所 濱町西側、新屋敷不殘、(北より南迄半流同前)
御藏町は濱町辻より西半流、北町は中町角より西、夫
より東は竹屋善吉東隣の表迄少々潮來、尤カツラ石限。
○中町 北は本勝寺表迄カヅラ石限、南は福藏寺同。
○道町 南札場迄、北傳馬所迄皆家へ入。
○走り上邊 養仙川上の家々道町筋傳馬所を見通しに西東
共不殘家々へ汐入。
○山家町 紺吉柳半此近所不殘家々汐入、此處に五六十石
の船二艘流寄外古木類。
○久木里 潮入。
○北、南、惠比壽社 兩方共塀は不殘、御社は聊も無別條。
○田地荒 南は金八新田、滿願寺近所畑、汐栖原坂新六畑
一段上る。北は向嶋同、戸岩向き畠。是らは皆石砂持
込大荒。
○潮入田 南は別所領迄汐込、御藏後ろ畑、北は本下藪下
も惡水溝岸迄、六軒屋裏走上邊。
○川筋 北川筋清水渡り橋少々上迄汐行走り、畑より六軒
屋うしろ濱田向き宮後邊一里松前の方船材木家の古木
雜物山の如く流寄、南川は廣の部にくわし。
○流失家數 竈百八十軒餘、棟數三百餘、汐入半潰家共凡
八百餘戸、其外少々つゝ潮入家は數不知。
○死人三十四人 之内廿七人當村住人、其外備前才加崎其
外遠國の旅人也。
○船 浦中に無事なるは漸三四艘、船具網等悉流出數不知。
○穢多村 流失家二三軒、其外在所之内下通の家は不殘潮
入、半潰、潮入の場所は諸木不殘枯、松は青々として
不枯。實にめでたき木なりけり。
○宇田村 格別の破損なし、尤穢多家少し、潰流等あり、
汐つかり烏の森邊へ小家立居る。
○他村の部
○白木人家無別條、船類流失、西廣流家あり、小浦人家無事、
由良、橫濱不殘流失、溺死數人、其邊荒多し略。惠奈無難、
栖原人家無事、田村上同、美ノ嶋人家無事、船類破損、下津
浦家五六十戸流失、高田人家無事、加田津浪、家三十戸程流
亡、粟嶋社邊へ船流寄、潮津人家無事、船破損、藤白不殘汐
入、通町の高處の家にて床迄卑家にて軒下迄、五六戸流失、
怪我人死人なし。日方通町家床かきり、下家は軒をひたす、
人家損亡なし。黑江家三十戸ほど流失、人十五六溺死。其外
津浪の憂なき處も、地震にて逃出し野宿する事一同なり。宮
原へん皆野宿す。餘推て知るべし。浦々は人家無事なりとい
へども、少しづゝ浪の障りなき處はなしとしるべし。
☆(安政元年甲寅十一月四日大湊大地震之事〕○伊勢大湊、山中立之介秀之稿
嘉永七年甲寅六月十四日之夜九ツ半時大地震、近き所にては
四日市伊賀の上野殊に甚だしく、潰家多く即死怪我人多く有
之たるよし也。當所は足立次郎左衞門乾之土藏、松崎長次兵
衞橋臺之土藏瓦半分計落、家々の庭に有之石燈籠五六臺倒れ
たる計の事也。其後折々少々づゝ地震有之、八月頃よりは大
方相止みたりしに十月末より霜月始迄に三四度少し強く震り
たり。
十一月四日天氣よく少々風なり。五半時(辰上刻)大地震空一
面に煙立樣に見えたり。いまだ震止まざる内、出火々々とい
ひて走者あり、全く出火にはあらで砂煙の立たる也。潰家の
ありたるは此時なり。其數は次にしるす。(註記載なし)
四時(巳刻)に至りて津浪々々といひさわげど、余は閏七月下
旬より病氣にて、見に出ること叶はざれば、庭の小たかき處
に椽臺を置き、其上に臥居て大浪のくだくる音と人のさけぶ
聲を聞居たり。三度目殊に甚しく西北は余の屋敷際まで潮お
し入たり。此大津浪にて流家流死人のありたるは此時也。此
數も次に記す。(註記載なし)
五日天氣よく西風強し、夕七ツ半時(申中刻)大地震昨朝にく
らぶれば少々ゆるやか也。同夜五ツ半時(戌中刻)大地震七ツ
半時(申中刻)にくらぶれば短し。
六日晴天少しの散雲もなし。
七日夕より小雨降りたり。
八日夕刻より大西風至て甚し。
十六日夕刻より宵の間雪降りたり。此日汐甚高滿なり。多は
潮のひくきものなるに、四日の津浪より日々潮高く、十二月
大晦日、卯正月朔日殊に高滿なり。
十八日
二十五日 二十六日大風雨此時も津浪々々とよびて他所にに
げさる者もありしなり。されど津浪は來らず。
四日震後晝夜に五七度づゝは震たり。次第に輕くなりて十二
月末に至りて大方ゆり止みたるに、叉正月七日四五度少々強
く震たり。其後は次第に止みたり。
四日浪津の節より海限院の後の小高き所、水饗社の乾の小高
き所に小屋を掛て數百人づゝ十四五日も集居たり。叉御高札
場近邊、叉其邊の家のうらうらに小屋を掛けて集り居るもあ
り。余は自分の家のうらに二七日小屋住居せり。病中にて殊
に困りしなり。
十八日の夜、月の出に、月の上下に長く光のありたるよしな
り。御奉行所より(註、以下一枚半白紙)
此度の津浪、築屋敷橋詰の燈明臺は貳丈七尺有之所、其上を
こしたる由なれば浪の高さは三四丈もありしなるべし。
築屋敷の井戸、砂を吹出し水なしに成たるあり。其外汐の入
りたるはいふに及ばず、汐のいらぬも鹽からくなりたり。余
が家の井戸も鹽からく成たりしに、正月中頃鹽氣漸くのきた
り。
何日にてかありけん、大宮司にて一萬度を受來りて波除堤に
二ケ所立たり。いとよき志なり。
大御神の冥助もあるべし。是に力を得て人々の心靜まりたる
事大方ならず。
地震があらば井戸をのぞくべし。水なくなれば津浪のくるも
のなりと、むかしよりいひ傳ふることなり。此度は井水少し
もへらず、直に水ましたり。余が家の井戸も壹尺計り水まし
て廿日計もへらざりしなり。
此所にては津浪ほどおそろしきはなし。津浪といひても、に
げさるべき所なければ心もとなきことかぎりなし。此節のお
そろしきことを忘れざる内に、所の内三四ケ所も小山の如き
ものを築きおくべきなり。
津浪に船にのるは、心よろしからず、舟かへるものなり。い
かりはひけるものなり。生木などにつなぎても綱きれるもの
なり。大船は此度の津浪にはかへらざれども、甚あやふかり
し也。此度流死人怪我人のありしは皆船にのりたる故なり。
大阪にても船にのりたるものゝ多く死したる話をきけり。津
浪に船にのることのあしき事は石にほりて立おくべきなり。
此度の地震に波除堤は堤なりにわれて幅八九寸づゝも口あき
たり。屋敷は一面にわれて三四寸づゝ口あきたり。南の濱
西の端川岸少々づゝわれたり。其外人家のあるところはわれ
たる所なし。
津浪の時も一里許沖は帆かけて走る船のさのみ難儀ならざる
樣子に見えたり。其後三前の安左衞門といふ二百石斗のいさ
婆の船頭余が家に來りて、此間津浪の節鳥羽へ入たる船は皆
損したり。吾船は外にかゝり居し故無難なりしと語れり。船
中にある時は沖にさるをよしとすべし。
此度の津浪に、阿場はよき汐溜にて波除堤をこしたる汐の此
所に溜り居て人家へ汐の押入ること少なかりしといへり。此
所御遷木圍場を殘し、田畑にすればよき所なりと常に人のい
ふ所なり。必さる事を目論ことなかれ。
波除堤の内、手の松木會所うらより西の川までの松木大木に
そだて置て津浪の時のかこひにすべし。いか成事ありとも必
きる事なかれ。
四日後、叉何日は大地震叉何日は大津浪と流言度々にて人の
おそるゝ事なりしかど、ひとつも當りたる事なし。
是迄大風雨にて津浪の來りて、此度の程、汐の町方に押入し
事はあれども、此度のほど家藏の流れ損せし事はなかりしな
り。地震の津浪は水勢格別にはげしきものとしるべし。(註、
此次三十九枚白紙)
○以下明應七年ノ地震津浪ノ事ニカ、ルヨリテ其ノ條ニ掲グ。
☆(安政及び寳永年度の南海道地震津浪に關する史料〕
本史料は主題の地震津浪に關し、内務省土木技監及び土木試
驗所長の調査方委囑により、關係地方廳の土木部主腦者によ
りて報告せられたものである。
靜岡縣管内
(一)土肥町の安政津浪の被害(第一圖)
現在の土肥町は舊時大川以北は
大藪、中濱、平野、及馬場(海
岸よりの順位)等の數村に分れ川
以南は屋形村と稱せり安政の頃
には海岸近くの村落は主として
屋形村にして當時廿一戸あり大
藪に九十二戸あり遙に海岸を離
れ馬場村に溫泉場あり人家あり
しと從て津浪の損害は主として
屋形村及大藪村の一部にあり今
の海岸に近き溫泉部落(大藪及中
濱)は最近の發展に係るものな
り。
浸水戸數五十六戸(屋形村 廿一戸 全村大藪村 廿五戸 (九十二戸の内))
流失家屋 二軒(屋形村 二軒)
船流失破損 多數(數不明)死者 十三名(屋形村 十一名大藪村 二名)
傷者 廿二名(屋形村 廿二名)
浸水區域 圖示の通り
津浪の水位 〃 四・四米(屋形村) 五・○米(大藪村)
第一圖
(二)松崎の安政津浪の被害(第二圖)
舊時那賀川右岸を松崎村及江奈村と稱し左岸を道部村及宮内
村と稱せりと而
して當時江奈村
は山の手及濱通
の大砂丘の上に
人家ありし故津
浪の際耕地には
勿論浸水せしも
人家の浸水は數
戸に過ぎず大な
る被害なかりし
が如し。
 舊松崎村道部
村は全部浸水宮
内村は一部の浸
水なりしも流失
屋及死傷者はなかりしと而して津浪の際汐は中央部は大砂丘
に妨げられ主として江奈の入江及那賀川河口方面より浸水せ
しが如し、現在の賑なる所は總て最近の發展に係るものなり。
浸水戸數 三百四十戸
(舊江奈村百戸の内五戸 舊松崎村百九十戸全村舊道部村百卅戸全村 舊宮内村廿戸の内十五戸)
流失家屋 なし
死傷者 なし
浸水區域 圖示の通り
津浪の水位 〃 三・○米 三・三米 三・六米
船流失破損 多數(數不明)
第二圖
(三)妻良港の安政津浪の被害(第三圖)
浸水戸數 百戸内外
(當時戸數百四十五戸の内)
流失倒潰家屋 五戸
(流失二戸 倒潰三戸)
船破損 多數 (數不明)
死傷者 なし
浸水區域 圖示の通り
津浪の水位 〃
四・八二米 四・四九米
第三圖
(四)子浦港の安政津浪の
被害(第四圖)
浸水戸數 百戸位
(當時戸數百四、五十戸の内)
流失倒潰一家屋 六戸
(流失―東部三戸 西部一戸倒潰―〃 ○ 〃 二戸)
船破損 多數(數不明)
死者二名
(東部○ 西部二名)
傷者 不明
浸水區域 圖示の通り
津浪の水位 〃 五・二九米 六・一四米
備考 一の浪の引きし時は妻良より子浦迄一直線に徒歩出來る樣
汐が引きし由、水深約三尋
第四圖
(五)下田町及濱崎村柿崎の寳永・安政津浪の被害(第五圖)
現在の下田町は元下田町及元岡方(片)村を併合したるものに
して現在の町の西部は元岡方(片)村なり、寳永及安政津浪の
記錄としては下田町役場所藏の天保年間下田年中行事下田町
書役平井平次郎氏手記(別
項摘錄)及同町町頭九兵衞組
頭德右衞門外二名手記安政
元年寅十二日大震津浪に付
頂戴物見舞其外控(別項)あ
り被害の狀況は此記錄にて
略明なり、猶震災豫防調査
會編纂大日本地震史料中寳
永安政地震津浪に關する本
縣内の記事を參考迄に別紙
に轉載す。(省略)
次に口碑に依る参考となる
べき事項を記載す。
一津浪の際大なる樹木は尤
も役立つものにして安政
の津浪の際にも樹木につ
かまりて助かりし人非常
に多かりしと。
一安政の津浪の際柿崎の山の上より見し人の話なりとの言傳
によれば「引き浪の際毘沙子島迄汐引き陸となりしと而し
て毘沙子島の下部には大なる空洞あり恰も五德の足の如か
りしと」毘沙子島附近の水深は約七米なれば約七米汐引き
第五圖
しこととなる津浪の際水面の上昇約七米と調査さるる故結
局津浪の水位が約七米上り七米引きしこととなる。
下田町寳永の津浪の被害
浸水戸數 九百十二軒(全町)
流失皆潰家數 八百五十七軒
半潰家數 五十五軒
船破損痛 九十三艘
死者(流失) 十一名
傷者 不明
同 安政の津浪の被害
浸水戸數 九百八十四軒(全町)(舊下田町八百七十五軒舊岡方村 百〇九軒)
流失皆潰家數 九百三十七軒外土藏百七十二
(下田町八百四十一軒 外土藏百七十三岡方村 九十六軒)
半潰家數 四十三軒外土藏十五 (下田町三十軒 外土藏十五岡方村十三軒)
船破損痛 不明
死者 百二十二人
(下田町百二十二人 三千八百五十一人の内岡方村 なし 四百三十一人の内)
傷者 不明
柿崎の安政津浪の被害
浸水戸數 七十五軒
流失皆潰家數 七十五軒
死傷者 なし (三百八十六人の内)
浸水區域 圖示の通り
津浪の水位 〃
舊下田町 五・七米 五・六米
舊岡方村 四・八米 寶永津浪の高 四・四米
舊柿崎村 六・七米 六・七米
記錄寫
下田町役場所藏
天保年間下田町書役 平井平次郎氏手記より寫
寳永四丁亥十月四日未刻(午後二時)大地震津浪打寄家數九一二軒
流亡内八五七軒流失五五軒半潰船大小九三艘破船痛船也、此
時波先寳福寺中後園竹林の際に至ると云。此時も小長谷勘左
衞門樣御支配の節にて御藏米二百俵急夫食として被下置叉願
上金二千兩拜借被仰付候事
下田町役場所藏
町頭 九兵衞
組頭 善右衞門
同 德右衞門
同 源七
手記
嘉永七寅十一月四日 改安政元年寅十二月
大震津浪に付
頂戴物見舞其他控寫
寳永四亥十月四日
地震津浪にて流家の事
一家數 九一二軒 内 八五七軒流失、皆潰 五五軒
一男女 一一人流失
一船大小 九三艘 破損痛
安政元年寅十一月四日朝五つ時
晴雨にて地震津浪にて流家の事
一家數 八七五軒 内 八四一軒 (流失、皆潰)
三十軒 (半潰、水入)
四軒 七軒町にて無事家
一土藏 一八八箇所 内 一七三箇所 (流失)
一五箇所 (半潰、水入)
一總人別 三、八五一人
一子供共男 五三人 死人
一同 女 四六人 同 計 九九人死人
一人別外 二三人 同 通計 一二二人同
岡方村
一(流失、 皆潰) 九六軒
一(半潰 水入) 一三軒
氏人別 四三一人
柿崎村
一流失、皆潰、水入 七五軒
氏人別 三八六人 (以下略)
(六) 新居町の寳永、安政津浪の被害(第六圖)
新居宿は津浪の爲め居處を移轉せし事二回最初の居所を大元
屋敷(圖示)と稱し元祿五年及同一二年の津浪に會ひ同十四
年中屋敷(圖示)に移轉し寳永四年の大津浪に會ひ翌五年更に
今の地に移轉せしものなりと即ち現在の新居宿になりて後の
津浪は安政の大津浪なり現在の町役場は昔の關所なり。
寳永の津浪の被害(舊本陣匹田氏所藏の手記による)
船 一一〇艘の内 四〇艘流失
家數 六六五軒 内 一二〇軒 流失 一九二軒 潰家
外土藏小家流失潰 四〇軒
合計 流失潰家 三五二軒
浸水区域 不明
津浪の水位約三・○米(次の關守の手記に依る)
當時の記錄としては舊本陣匹田櫃治氏所藏關守富永某手記あ
り次に摘錄す。
一丁亥十月四日未上刻地大に
震て御關所潰れ津浪來るこ
と丈計りにして三度然共公
事の御印鑑御證文御關所圍
の土手に上り無恙番人も叉
然り此時僕番日に當り新居
宿家潰事三四八軒船流失す
る事四八艘溺死者二一人渡
止る事四五日
(備考)四八艘の内八艘漁船な
らん又溺死者も漁船乘
込の漁夫ならんと思は
る。
安政め津浪の被害
纒りたる記錄なし次の被害
調は匹田氏の手記中より摘
載す。
潰家二六軒
半潰大破 不明
溺死者 一四人
(乘船中の人の如し)
地震怪我人 一人
浸水区域 圖示の通り
津浪の水位 三・○米
第六圖
(七) 舞阪町の安政津浪
の被害(第六図參照)
舞阪宿昔の番所は現在の役場の處にして役場以西には人家な
かりしと寶永安政の津浪に關する記錄の依るべきものなし。
寶永時には家數二二〇戸位安政時代には二六〇戸位あり津浪
の際には全部浸水せしが如し流失家屋死者等はなかりしが如
し、津浪の際には町の中央部南の神社及寺のある稍稍〻高地
に避難せし由。
浸水区域は舞坂町全部(一部の高地を除く)篠原村馬郡、雄踏村
字有見の低地全部浸水せしが如きも区域不明。
安政津浪の水位 四・九米
第七圖
愛媛縣管内津浪被害調書
愛媛縣西字和郡三瓶町(記錄なく口傳に依る)
一津浪の年月日
一安政元年十一月四日及
五日
一津浪が到逹せる地點、
別紙圖面に依る、高さ
平均潮位より三・五米
高潮位より 二・○米
一被害狀況
(イ)當時の部落名
現在の相當町村字名
朝立浦 三瓶町大字朝立
津布理浦 〃 津布理
安土浦 〃 安土
有網代浦 〃 有網代
(ロ)當時の戸數及人口
四一〇戸
二、〇五〇人
(ハ)流失家屋 なし (ニ)倒潰家屋 なし
(ホ)死亡者 なし (へ)傷者 なし
一當時の記錄
其の後役場
火災のため
記錄書類何
等なし
愛媛縣西宇
和郡川之石

(記錄なく口
傳に依る)
一津浪の年月

安政元年十
一月四日及
五日 最大
四日午後五
時頃
津浪が到逹
せる地點
別紙圖面に
依る、高さ
平均潮位より
三・五米
高潮位より
二・○米
第八圖
一被害狀況
(イ) 當時の部落名 現在の相當町村字名
楠浜 川之石町字楠町
鯛ケ浦 〃 琴平町
本浦 〃 本町
赤網代
内之浦
 〃 港町
雨井 〃 雨井町
其他被害僅少
(ロ) 當時の戸數人口
部落名 戸數 人口
楠濱 九五 四七五
鯛ケ浦 六〇 三〇〇
本町 一四一 七〇五
赤網代 八四 四二〇
内之浦 七〇 三五〇
雨井 八一 四〇五
計 五三一 二六五五
(ハ) 流失家屋 なし (ニ) 倒潰家屋 なし
(ホ) 死亡者 なし (へ) 傷者 なし
一當時の記錄
愛媛縣西宅和郡伊方村(記錄なく口傳に依る)
一津浪の年月日
安政元年十一月四日及五日 最大四日午後五時頃
一津浪が到達せる地點 別紙圖面に依る、
高さ
平均潮位より 四・○米
高潮位より 二・五米
一被害狀況
(イ) 當時の部落名 現在の相當町村名
川水田 伊方村の内川永田
中浦 同 中浦
小中浦 同 小中浦
サセブ 同 湊浦
其他は被害僅少
(ロ) 當時の戸數及人口
部落名 戸數 人口
川永田 一七〇戸 一、〇二五人
中浦 六〇 三四五
小中浦 五〇 二九六
サセブ 一五〇 九二〇
計 四三〇戸 二、五八六人
(ハ) 流失家屋 なし (ニ) 倒潰家屋 なし
(ホ) 死亡者 なし (へ) 傷者 なし
一當時の記錄 なし
津浪被害記錄調査報告(宇和島市附近)
一寶永四年十月四日の津浪に對しては沿岸各町村に就き調査
爲したるも事三百年の既往に屬し口傳記憶等據るべきもの
なく僅に舊字和島藩主伊逹家所藏に係る當時の城内日記及
立間村醫王寺所藏の記錄あるのみにして之と雖も記錄簡單
にして詳かならず想像するに可成の浸水被害ありたるもの
の如くなれども其の浸水の区域被害の程度等不明なり。
次に参考の爲め伊逹家城内日記及醫王寺記錄を記す。
(一) 伊達家城内日記(原文の儘)
寶永四年十月十二日
本月四日大地震に付御城内所々御破損夫々委記。田五百
三町二反一畝歩(高七千二百七十三石積り)家屋其の他數々
流失死人八人。半死二十四人。沖の島(現在高知縣)の人
死人二人。御城下の家々破損死人二人。右夫々委記有之
公儀へ御届申遺。
(二) 醫王寺記錄(原文の儘)
寳永四年十月大地震あり津浪陸上を浸し所々破損多く經
日鎭らす藩主宗純公には當寺院に御避難御逗留遊さる。
二安政元年の津浪に對しては幼少時代罹災せる古老の尚生存
せるものあり且叉口傳の傳ふる所によれば十一月四、五日
間歇的に激震あり數日止まざるを以て住民は皆大地震と不
可分の關係にある津浪の襲來を虞れ高所の寺院。竹藪、地
盤硬き山地に假小屋を急設避難すること一ケ月に及びたる
も地震の激甚なりしに比し津浪は住民の豫期し虞れたる程
の大なるもの來らざりしものの如し。
口傳により潮の上昇究度を調査せるに岩松灣より三浦半島
尖端部に亘る間は普通滿潮位より約二・五米昇り日振戸島
の島部海岸は約三・○米に及びたれ共死者、流失家屋、倒壞
家屋等なく護岸、堤防の缺潰等は大ならざるものの如し察
するに津浪の來襲及減退共に緩漫なりしが故に被害少かり
しものと思惟せらる。
而して宇和島灣より古田灣奧南村方面に至るに從ひ潮の上
昇次第に減退し古田町にて一・二米位にして人家に浸水せ
るもの少く河内川の樋門破壞し鵜のはえ(喜佐方村界)迄潮
上り田面に浸水せるも人畜に被害なく奧南村に至りては潮
の上昇一・○米位にして人家通路に浸水せるものなしと云
ふ。
要するに本郡南部程潮の上昇甚しく北部に至るに從ひ減少
せるものの如し。
次に參考として立間尻村舊記を錄す。
安政元年十一月四、五日
當日地大に震ひ道路の幅壹間餘龜裂せし所あり本丁通りに
は山鹽噴出し鵜のはえ(喜佐方村界)迄潮上り佳民は山野に
避難し藩主亦御裏より竹城に避難せられたり翌日歸館せら
れたるも震動尚止まず御馬場に(藤の御門内)停小屋を建て
られ五日の暮に至り歸館せらる。
越えて七日に至り降雨激しく再び震ひ人々恟々たり。
三重縣管内
一、二見町
安政元年十一月四日午前十時頃大地震あり。稍ありて十二時
頃大津浪襲來し、午後五時頃に至り引去りたり。其被害及模
樣狀況。
町内に於ては被害の大なるものは大字莊村・江村・今一色・西
村の順序にて、其他の大字には格別の被害なく、唯莊村・江
村・今一色に於て各三四棟程の建造物倒潰あり。就中莊村は
十町歩以上の田地荒廢に歸したるが爲、出願して二三年間の
免租を許され、叉上記の四大字に於ては潮水田畑に侵入し作
物の枯死を招きたるが爲、再度の播種を要したり。浸水は各
字共に床上二三尺に達したり。
右津浪の襲來は一囘に止まりしも、地震は其後十日間位は晝
夜の別なく大小每日十數回に及びたるを以て、居民は附近の
竹林中に小屋を設けて假宿し、牛馬は隣区の高地に繋留した
り。尚ほ隣町村なる大湊町・神社町・濱鄕村の如き海濱に接
する町村並に志摩郡内の町村に於ては津浪に由り相當被害あ
りきと。
二、四鄕村
嘉永七年霜月四日大津浪、其前後に大地震あり。同四ツ時津
浪來襲し、堤防決潰甚大にして田地荒廢十町歩餘に及びしと。
三、吉津村(古老記憶)
安政元年霜月四日午前十時發震し約十七八分間の大地震あり
震後二三十分間にして津浪(二三丈)ありたり。此前後の模樣
及被害狀況。
當日は特に天氣晴朗にして一點の雲なかりき。強震の起るま
で二三ケ月以前より小震屢〻あり。津浪の起るとき井水減少
せりと云ふ。村内に於ては溺死者四人、流失家屋凡六〇軒、
田畑凡二〇町歩荒廢。附近に多數の海魚殘留せりと云ふ。
四、鵜倉村(鵜倉尋常小學校保管記錄抄)
寶永四年十月四日午刻大地震あり。後高汐漲起り、當浦家屋
多數流失せり。此被害の如し。
流失家屋 一四七戸
溺死者 五八名
流失漁船 二三隻
同 網類 三一三帳
同 米 一五八俵
同 麥 一七一俵
其他諸道具流失せり。
嘉永七年十一月四日五つ半時大地震の後、間もなく高津浪來
り、家屋多數流失、同日四つ過頃までに潮引き去る。被害次
の如し。
流失家屋 八一戸
溺死者 三名
流失網類 一〇〇餘帳
同 漁船 一〇隻
其他衣類諸道具流失せり。
五、島津村(口碑)
嘉永七年霜月四日午前十時頃津浪起る。其被害及び模樣狀況。
人家十四五軒を除く外悉皆流失し、人畜の死傷多數ありたり。
六、穗原村(大字内瀨上谷辰之助所有古記錄)
寳永四年十月四日大津浪あり。嘉永七年十一月四日午前十一
時大津浪あり。其被害及び模樣狀況。
朝明方地震四五回、晝食後津浪襲來、夕食後元に復す。此時
強震の爲村内四日間野宿をなす。
右津浪に由り、田畑約五町歩荒蕪地となり、今に復舊せず。
七、五ケ町村(大字船越故濱谷與八所有古記錄)
嘉永七年霜月四日四ツ時津浪起る。其模樣及び被害狀況。
同四ツ時大地震あり。程なく大津浪にて家屋流失したれども
幸に人畜に死傷なし。
八、宿田曾村(口碑)
安政元年十一月四日午前十時頃津浪襲來、其前後に於ける模
樣被害狀況。
當日は天氣快晴にして風なく暖かなりしに、午前十時頃俄然
強震起るや否や津浪襲來し、海岸堤防を突破して人家を倒潰
流失せしめ、人民は山上に避難して大混亂を極め被害甚大な
り。特に本村龍蝦刺網(海老網)漁期とて漁夫は濱邊に作業中
なりし爲、漁具の流失亦多く、今人尚ほ當時を追想し、當業
者は每年舊曆十一月四日は休業するを例とせり。
九、神原村(古老の記憶に依る)
安政元年十一月四日五つ時頃津浪起る。其の模樣に就ては不
明なるも、被害に就ては家・倉・納屋・物置合せて七六棟流失、
死亡者三人、牛一頭、流失玄米五〇〇俵、收穫皆無となれる
水田二〇町歩、畑作三町歩に及べり。
一○、北輪内村(實驗者記憶)
津浪の起りたるは安政元年十一月四日午前十時頃。
津浪の起る約一時間前に大地震あり。之れが爲、被害はなか
りしも、津浪の爲、流失したる家屋五六十戸、死者三人あり。
翌日午後七時頃より西方に大砲の如き響あり。約六七時間。
一一、南輪内村(十二三歳頃の實驗者談話に據る)
津浪の起りたるは嘉永七年十一月四日午前八時頃。
此の日は稍薄曇りにて、太陽の光何となく異狀を呈す。午前
七時半と覺しき頃俄然音響と共に地震起り、午前八時頃第一
回の津浪ありてより、翌日午後三時頃まで大凡百回餘の來襲
あり。高さ三丈餘に及びしと云ふ。此の時流失せる家屋百戸
餘に及び、人畜の死亡せしもの人一四人、牛八頭あり、五日
の夕方より翌朝未明頃まで、恰も大砲を放つが如き響き鳴渡
る。五日午後三時頃以後は津浪の來襲なかりしも、波浪高く
全く平穩に復したるば七八日後なりきと云ふ。
一二、荒坂村
嘉永七年十一月四日朝五つ時頃一大強震あり。四つ時頃大津
浪襲來、高さ凡そ三丈餘におよび、家屋の流失、人畜の死傷
(死者一三名)多く、大字二木島浦にて其の害を被らざるもの
全戸數二〇〇の中、高所にありし二八軒のみなりきと云ふ。
此の津浪の起る前三日夕刻より時々震動ありしも、微細にし
て只音響を聞くのみなりしが、四日朝に至りて強震となりし
由。此の津浪は三度去來し。灣内大字二木島浦にて其の長さ
凡そ一〇町に至るまで峽谷狀の海床を現はせりと云ふ。此の
時小字皐月にある觀音堂は三度の高浪に屋上の擬星のみを現
はすまでに浸水せりと云ふ。浪の高さ三丈餘に及びしや疑な
し。
一三、新鹿村(當地奧村壽松地震津浪覺帳抄錄)
嘉永七年十一月四日五つ時大地震に次いで津浪あり、津浪は
七八回起りたるも高浪は三回なりき。一般人民は高所に避難
す。
翌五日七つ時より夜八つ時まで大地震あり。津浪は字下地町
まで上る。夜九つ時北より西に黑雲出で、大砲の如き音を發
し、一同生きたる心地せず。唯念佛を唱へ神々へ所るばかり
なりき。
翌六日一般人民御仕入方より板樌等を借り、叉流失具を拾集
め、高所の畑中へ小屋掛をなして雨露を凌ぎ、一部分は寺院に
假住居せり。其の筋よりは一人前米三合づゝ給せらる。
一四、井田村
地震及び津浪(井田前田政市祖父手記に據る)
(一) 安政元年十一月四月和歌山縣東牟婁郡下里村邊より奧
熊野即ち當村邊を經て志摩國・尾張國・伊豆國の邊に及
ぶ。
(二) 同月五日同上下里村邊より和歌山市邊に及ぶ。但し兩
日とも當村には甚だしからず。
(三) 安政元年より一四八年前に大地震津浪あり。
以上は僅に其の事蹟の存するものにして、安政の津浪の如き
は高浪山に突激して家屋流亡し人畜溺死するもの亦多かりき
といふ。然れども其の前寶永四年津浪の如きは尚ほ一層の暴
溢にして安政年度の比にあらざりきと。其の詳細不明なるも
槪略を記せば次の如し。
安政元年十一月四日午前十時頃大地震(發震前には一點の雲な
く無風にして天日澄み渡り居れりと)、凡そ三〇分を經て津浪襲
來、引續き三四回に及べりと(第一回は甚大、漸次衰勢)、翌五
日午後五時頃西北方に大鳴動を起し、時間三〇分に亙りて止
む。
本郡長島町佛光寺境内、引本町吉祥院境内に寶永、安政海嘯
流死碑ありと。
出典 日本地震史料
ページ 235
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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