[未校訂]伊達自得は有名な陸奧宗光の父である。本文は安政元年十一月五
日の大地震に關する紀伊田邊での記事である。
安政と御代の號改りたる年の霜月五日の夕つかた、なゐいみ
しくふり出て見るまさかりに家なとたふれぬ。海の鳴とゝろ
くほどに、つなみあかるとおらひさけぶ聲さへうちあひて、
おとろしき事いはむかたなし。我居る處もあやふしとて、近
き所に鬪鷄宮とて熊野十二社おはします。其あたりの松はら
に人々にいざなはれてあるほとに、夜もすからふる事絶間な
し。町のかたを越せれば火燃あかりてたゝやけにやけぬ。や
う〳〵に夜も明になれと、たゝ同しさまなれば、こゝに假ほ
を造りて七日はかりなむ有ける。此ほとのこと委しくはいふ
へくもあらず。かゝる處に流れ來て、かく忌しき事を見るも
いかなるすく世の契ならむ。人のうへはかり常なきものはあ
らさりけり。其かりほに有けるほとよみたりける歌
野に山にさまよふ見れは貧きも
とめるもけふはおなし世そかし
契なれや濱かせ塞き松原に
板戸かこひてなゝ夜ねにけり
假庵の軒のたれこも隙をあらみ
顏にきらめく夜半の月影
經に六種震動といへるは動起踊震吼擊の六にて、形と聲とに
つきて、みくさつゝにわかてるや。其さまけふなむまさしく
しりぬ。震動はいふをまたず。あるは立起るが如く、或は踊
りあかるが如く、あるは吼るが如く、あるは擊かことくなむ
ある。阿含に地動因緣八ありといへる中に、地在水上水止於
風風止於空空中風大有時自起則大水擾大水擾則普地動と見え
今は火脈の搖動也と云。因て思ふに佛經には四大(地水火風)
四微(色香味觸)相待して風を動性とす。さるは地は四微盡く
具して重きか故に動くこと能はす堅性とす。水は三微(色味
觸)を具してやゝ軽きか故に順下の力あり、是を湿性とす。火
は二微(色觸)を具して炎上の力あり是を熱性とす。風は一微
(觸)のみにして勢益強く是を動性とす。如此因緣によりて風
大動とはいへるなり。されば動搖形に現るゝ時は、地水火共
に動なれば、風動と云も火動と云も大なる違はあるましけれ
ば、各思慮のよる處にて説をたつめれと、朕兆いまた現れず、
一氣始發の消息は畢竟識情思慮の所得にはあらざるべし。又
つなみといふ名を考ふるに宇豆波の義ならむ。吼が如く擊が
ごとき聲と共に、涌あかりて陸までもあふれくれとこれ浪か
ぜの荒び進とは異なり。物に喩へていはば釜などの湯の火勢
風氣に隨ひて釜中に充滿る時は、わきあかりてあふるゝがご
とし。此釜中の水更に增したるにあらず。風火の氣衝上るが
故に沸り騰るなり。故その蓋をひらきて其氣散する時は、湯
もしつまりてあふるゝ事なし。かくの如く此宇豆波も風氣の
つき上るにつれてうつ高く沸上る勢ひ動かざることを得ず。
卑きを逐ひて溢るゝほどに其衝上る風氣水波を透りて空に發
するに隨ひ波も又もとの如く平に收るなり。其狀勢全く釜湯
に同じ。此町々半は宇豆波にひたり半ば火にやかれぬ。いと
いと甚しき禍事なりけり、
うつ潮は餘處にのかれし家さへや
薪とすらんかくつちの神
けふまで立さかえたる家ともの、やけにやけて烟となるをも
かへりみず、老たるを扶け幼を携て逃迷ふさま、地獄變相眼
前なり。無量苦逼身の境界なれば中々に五欲の夢さめたるに
似たり
玉極るいのちの外にしろかねも
[黃|きは]かねもけふはなき世なり
また其ころよめる歌の中に
岩かねの動かすとても彌益に
國かためよとなゐはふるらし