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項目 内容
ID J0400218
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(西曆一八五四、七、九、)二時、伊賀・伊勢・大和ノ諸國大地震。就中、伊賀西北部、大和東北小部、山城南東端、近江南部ヲ包括スル長サ約八里、幅約四里ノ區域ハ震害特ニ甚シク、山崩・地割・土地ノ隆起・陷沒等ヲ生ジタリ。伊賀上野城大破シ、城内ニテ二・三百人ノ死者アリ、上野町及ビ其ノ近村ニテ死者五百九十三人、潰家二千二百五十九戸ヲ算ス。伊勢四日市ニテ死者百五十七人、潰家三百四十二戸、燒失家六十二戸、寺院ノ倒潰十一ニ及ベリ。奈良モ震害多ク、全潰家屋七・八百戸、死者二百八十四人、大和郡山ニ於テモ百十餘人ノ死者ヲ出セリ。
書名 ☆〔大阪府西成郡史〕
本文
[未校訂]二五一四、甲寅、安政元、大地震、六月十四日。此夜八ツ時
頃大地震す。家内皆々起出で門へ出たり。明方まで折々震ひ
庭の石燈籠二ツ倒る。床几の上にて夜を明し、明け前大に震
ひたり。時に霧の如きもの降りたり。田村の新藏及橋卯の樽
納屋・大幸の樽納屋皆倒る。又藏々の味醂大方桶每にこぼる
こと多きは貳斗、少きは一斗許なり。四ツ時過より塗善七の
上荷船へ皆々乘り居りしが、梶長の忠兵衞乘の上荷も來れり。
七ツ時頃より皆々忠兵衞船へ乘替へたり。十五日も船中に蚊
帳釣り寢たり。此夜中まで絶えず地震あり。但十五日の夕方
より雨降り出し、夜半頃遠く雷鳴す。
大坂十四日夜子中刻嚴敷震ひ、夫より夜明迄廿四五度、又十
五日卯刻嚴敷、亥刻頃迄少々宛止不申候、云々。
我西成郡は六月十四日四ツ半、即ち今の午後十一時大地震な
り。さて十三四の兩日は此程に替りて暑さもまさりぬるは、
けふより六月なればなど云ひあへりしに、其夜子の刻過る頃
戌亥の方よりとも辰巳の方よりとも定かならねど、ドオウド
オウと響き渡りて、大なるなゐ震ひ出たり。されば家の大小
をいはずゆり動くこと風荒き日船にて海を渡るが如く、疊の
上さへ歩みかねたり。とみにもふるひ止まずして、家の鳴る
音いはん方なく恐しければ、皆一まとひにまとゐし、或は打
臥などしてあるに、燈火をさへゆり消し、又は倒などしけれ
ば、女童は泣まどひ、たゞ神佛の御名を唱ふるより外なし。
明がた近くなりて少し穩しく成ぬるにぞ、人々生出たる心地
せしに、又強く震ひなどして、朝の五ツ時迄におよそ三十五
六度に及べり。あくる十五日もきのふに替らず空晴たりしか
ど、猶ふるひやまずして、暮るゝまで長短強弱はあれど、十
五六度に及びぬ。抑もこの浪華になゐのうれひかく數多く時
を移すこと、昔より聞もつたへず、云々。
十四日夜八ツ時大極大々地震あり。是は昔より今に初めぬ大
地震なり。隣村にては人家損じ人死す事數不知、誠に古今稀
なる騷動なり、皆人は雲霞の如く啼き、實に哀成事口にも不
言盡。當村氏神鳥居七八ツにも折れたり。其日小震四度、中
震三度、小々震七度、七ツ半時大震一度、六ツ時又大震一度
十五日小震六度、中震一度、九ツ半後より翌日まで小震十一
度、中震四度、十六日中小震十一度、夜八ツ半大震一度、十
七日中小震三度、朝八ツ時大震一度、十八日中小震三度、廿
三日小震一度、廿四日小震三度、廿五日小震一度、廿七日小
震五度、爾來、大中小震斷續して止まず。然れども其度々漸
次減少し、七月に入り三度、八月に三度、九月六日朝六ツ時
の小震にて終る。(豐里村野本米三郞氏藏舊記)
出典 日本地震史料
ページ 71
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 大阪
市区町村 西成【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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