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項目 内容
ID J0400165
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(西曆一八五四、七、九、)二時、伊賀・伊勢・大和ノ諸國大地震。就中、伊賀西北部、大和東北小部、山城南東端、近江南部ヲ包括スル長サ約八里、幅約四里ノ區域ハ震害特ニ甚シク、山崩・地割・土地ノ隆起・陷沒等ヲ生ジタリ。伊賀上野城大破シ、城内ニテ二・三百人ノ死者アリ、上野町及ビ其ノ近村ニテ死者五百九十三人、潰家二千二百五十九戸ヲ算ス。伊勢四日市ニテ死者百五十七人、潰家三百四十二戸、燒失家六十二戸、寺院ノ倒潰十一ニ及ベリ。奈良モ震害多ク、全潰家屋七・八百戸、死者二百八十四人、大和郡山ニ於テモ百十餘人ノ死者ヲ出セリ。
書名 〔大坂地震記〕
本文
[未校訂]嘉永七甲寅年○安政元年六月十三日午之時と未の時に地震二度強
けれども、二ゆりにて鎭りたり、今年は七月潤くは〻れる年
にて、六月節十四日なれば、暑さも後れしにや、折ふしは袷
を着る事もありなどし、とかく寒暖定らず、皐月之末ゟ逆上
之病に惱て、目を憂ふる人多く、風邪もまじりて、何方も五
人三人の病人ありしが、水無月になりて、大かたは癒たり。
扨又去年丑年は、近く二三十年に稀なる早にて、五月廿八日に
雨ありしより、秋の半過る頃までに、漸夕立兩三度せしま〻
なれば、川々のながれかれ〳〵になり、溜池とても限り有水
なれば、茂る稻葉を養ふにとも(ぼ)しく、神に祈りて雨を乞ふと
て、日暮ぬれば、松ともしつゞけて、山々に登る人、每夜あま
たなれど、それとさだかなるしるしも見へず、名にたてる字
治の川水さへ、五尺ばかりも落たり。さる故に常は水底なる
獺の住家顯れたりとて、それ見に行人、日々數百人に及ぶ。
平等院より二里ばかり川上にて、田原へゆく道を、左の溪に
下り、流に遡る事廿町あまりにて、大なる巖の根に洞穴三つ
有、奧へは深からねど、口は五尺もあるべし、仙人洞と云。
今より四十年前顯れし事あるよし、里人はいへり。おのれが
遊びしは神無月廿日なりしかば、水は常より七尺餘も少とい
へど、名だ〻る湖より滝なして落る早瀨なれば、さる樣にも
見へねど、とにかく水に乏敷ゆゑ、秋の稔も所によりては採
牧る事を得ざるのみか、あくる年今年の夏、麥の實のる迄の食
にさへくるしむ所もあまたなりとき〻て、暮に至りなば、さ
こそ米の價貴かるべしとて、その心構する人も少からず。然
るに過し六月七日、亞墨利加國の使節船、例なき浦賀に來り
て、交通和親を請ひ、南港壹所をかりて、商館となさん事を
願ふ、是が爲に安房、上總より武藏の海かけて、江戸迄の海
岸を、諸大名に命じて固めしめ給ふ、其勢凡三十餘萬に及び
數日の出張なれば、失費も大方ならず。さればありとある米
を滋に大坂出して、代となしたもふ大名家多ければ、冬になり
ては、かへりて價は賤かりき。七年寅年と改りぬるむ睦月十三日
又もや亞墨利加船數艘、今度は内海なる神奈川の沖に碇泊す
る事數日、強て申むねのありしにや、卯月に至りて、伊豆の
下田、松前の箱館にて地を賜りしときく、この時も御固に出
張ありし諸大名、去年に劣らず、其上今年は正月より四月迄
之間、大城近く船をとゞめ、折々は上陸などして、よろづ我
儘なるよしなれど、公よりは平穩に取扱ふべきよし度々仰出
されければ、諸家の人々、むなしくにら見居るのみにて、其
費はいくばくと云事を知らず。是が爲に大坂より江戸江下す
金の多ければにや、壹兩之價七拾目餘六十貳三匁なりしを、になれり。
夫のみならず、卯月七日の正午之刻、仙洞御所御構のうち、
芝御殿といへるより火出で、風はなく穩なる日なりしかど、
しばしが内に禁裡をはじめ奉り、内侍所、仙洞、女院、准后
の御殿をはじめ、御築地内なる宮殿は本よりにて、其邊りの
公卿の御館迄、未の下りまでに殘りなく煙と立登り、その末
中立賣下長者町の民家に靡き、ひた押に燒ゆき、西は千本通
にて、明る八日の朝漸く鎭りぬ。昔天明といへる年の炎上は
程遠き鴨川の東より火出て、洛中をやき〳〵て、其名殘九重
に及びしかば、參り仕ふる人も時移る間に、その心がまへせ
しかど、こたびは御築地の隔はありといへども、はひわたる
程なる殿より出し火にて、わづかに一時が程に、さばかりの
殿舎亭宅、殘りなく灰燼となりしこと、いかなるさとしにや
など、かたむき思う人もありき。かく江戸は夷船にて騷々し
く、都は内裡炎上にて皆人恐れかしこみぬれど、大坂は異な
る事もなくて、五月に至り、先に記せしごとく不順の氣候に
て惱める人多かりしも、六月には大かた本に復し、十三四六月
の兩日は、此程に替りて暑さもまさりぬるは、けふより六月
なればなどいひあへりしに、其夜子之刻過る頃、戌亥の方よ
りとも、辰巳よりともさだかならねど、ドヲウ〳〵と響き渡
りて、大なるなゐ震ひ出たり。されば家の大小をいはず、ゆ
りうごく事、風荒き日、船にて海をわたるがごとく、疊の上
さへ步みかねたり、とみにもふるひやまずして、家のなる音
いはん方なく恐しければ、皆一まどゐにまどゐし、或は打臥
などしてあるに、燈火をさへゆり消し、又は倒などしければ
女童は泣まどひ、たゞ神佛の御名を唱ふるより外なし。漸く
明がた近くなりて、少し穩しく成ぬるにぞ、人々生出たる心
地せしに、又強く震ひなどして、朝の五ツ時迄に、およそ三
十五六度に及べり。あくる十五日も、きのふに替らず空晴た
りしかど、猶ふるひやまずして、暮る〻まで長短強弱はあれ
ど、十五六度に及びぬ。抑此浪花になゐのうれひ、かく數多
く時を移す事、昔より聞もつたへず。寳永四年十月四日、地
震津浪一度に來りて、家倒れ橋落、人多く死せしよしを、恐
ろ敷例にいへど、たゞ一度ゆりしのみにて、穩しく成たり又
文政二年六月十二日未の時のを、其節古稀已上の老人だにし
らずといひし程の大地震なれば、家每に石燈籠倒れ、住吉
社のも、いたくそこなはれたりしかど、それはた二度許ゆり
しにて、其餘は同十三年七月二日未時、二度許り強く震ひし
かど、石燈籠の倒れし事はなし、此地震都はいと強く、堂舍
の倒れしも有、在家も潰れ傾き、怪我せし人も多く、冬に至
りて全くは納りし、これはしたしく見聞しかば、かく都にて
は強かりしも、滋にてはたゞ二度のみなれば、地震といへば
外に迯出べき事とは露心附ずして、地震戸觀音開、或は開戸の類、を設
し家とては、廣き市中に數ふる程也、よしやその設ありとて
も、かく建こめたる町中にては、外へ出たりとも恙なしとも
定めがたし。さればかく強く、あくる日とてもゆりやまねば
此末いかに成行らんと驚きまどひて、十五日の夜は、船にて
大川にうかびぬる人多し、されば屋根船は本ゟ、上荷茶船あ
やしの網船、或は三十石天道抔いへるをさへかりて、心うき
うきねをなし、又は過し年嘉永五子年の火に逢て、いまだ家を造
らぬ廣き場に、疊板戸を持出て明しぬるもありて、いと騷々
しき事共也、家每のぬり籠の壁に、ひゞき(れカ)の入らざるはなく
軒の妻のくだけたるも有、燈籠(石脱カ)は家每に皆倒れたりとぞ。西
橫堀なる瀨戸物店、店物大かた打破たり。はし〳〵には倒れ
傾し家もありといへば、怪我せし人もなきには非るべし。十
五日の暮ちかく成ての三度は、餘裡強かりしかど、夜に入て
は子刻過るまで音せねば、最早是までぞと思ひしに、同じ時
過る頃より、又震出て、明はなるゝ迄に十度餘りに及びぬ。
夕べより雨いささか降しかど、明はてゝやみたり。
十六日、陰晴不定。
朝より暮るゝ迄に、大小はあれ共七度許震ふ。其内朝之二度
強くして、隣家の塀の土落たり。こは此程よりゆるみ有し故
なるべし。夜に入て震ひしかはしらねど、夫と思ひしはなか
りき。
十七日、けふも晴陰りて、折々小雨降る。
晝の中六度許、夜に入て二度許は至而輕かりし。けふ未の時
頃より、西南の風烈しく吹出たり。夜に入て丑之刻より雨さ
へまじりて、いと騷々しかりしが、朝十八日になりて、雨も風
も止たり。けふは御靈の御神事也、此頃の地震故、例よりも
早く神輿を渡し奉りぬ。作法替る事なけれど、地車を出す町
は壹所もなし。
十八日、日和きのふに同じ。
暮方迄に四度許震ふ。夜丑之刻過る頃の一度は強かりき。
十九日、けふも同じ天氣なり。
晝の内二度許震ひし由なれどしらず。夜中四度許強く震ひぬ。
廿日、けふも同じ。
晝の内はしらず、夜中二度至而輕し。夕方より雨強く、雷二
聲ありて、夕五ツ時ごろ、雨もやみたり。
廿一日、陰晴不定。
晝四ツ時ごろ二度、至て輕し。きのふけふ晝之内は震ひし由
なれども、それともしらぬ程の事なれば、もはや異なる震ひ
はあらじと、皆人心をゆるし、端居して在しに、暮過るころ
六ツ半時、思ひがけず震ひ出たり。過し十四日のにもいたく劣ら
ず、ながく震ひしにぞ、むねさわぎて、せんすべを知らず、
とかくする内に止たりしかど、是に驚されて、今夜は油斷な
らずと、船の事とかくいひさわぎたれ共、夜中の事なればと
てやめたり。
けふは稻荷の御神事にて、神輿還御の路上なるべく、驚し人
もあり、しらずしてうかれ居たるも有なるべし。夜四ツ時過
少し、八ツ時前後二度は強く、七ツ時頃一度、明六ツ時頃一
度、すべて今夜五度に及ぶ。
廿二日、朝より曇り、五ツ時過雨一しきり降て晴、七ツ時頃
より又強く降出し、暮六ツごろより別而烈敷、電光如晝、神
まへ鳴出て、小止なかりしが、五ツ時過雷やみ、雨も少し靜
にて、終夜降たり。夜七ツ時過いさ〻か震ひし。けふも(はカ)座摩
の御神事なり、渡御の時刻雨嚴敷ければ、晴間を待しかど、
小止なれば、さまではとて神輿出し奉り、御撫物其外とも例
のごとし。道の程より火ともしぬれど、強く降雨に提燈破れ
火は消て、たゞ家每の軒に出せる獻燈を便りに、大路を渡し
奉るに、雷光きらめき、おどろ〳〵敷鳴はためく度每に、駕
輿をはじめ、あやしの雜人迄、聲を揚てひたばしりに走るに
ともすれば倒れ伏などして、列を正す事ならず、とかくして
御旅所に着御なりて、御禊そこ〳〵にて還御なりぬ。その頃
より雨は少し小止ぬ。
諸社の神事には、渡御の道筋なる家每に、朋友緣者を迎へて
饗し、共に神幸を拜み奉るは、例の事なるに、此頃の地震に
て客を請ふ家もなければ、心なく行人もなし。ニワカといへ
るざれわざして、うかれ歩行人さへ、かぞふ許り也。すべて
神事は名のみにて、淋しかりき。地車壹ツ出たり。
廿三日、陰晴不定。
夜べよりの雨に、近在は雨悦びすときく、地震も夕べの雨に
ては、もはや事あらじと安堵せしに、未の刻頃少く震ひ、程
なく強くふるひたるに、また胸さわぐ。
河州金剛山、先頃ゟ山鳴たへず、山麓大和、河内の村里、い
たく恐れ居るとぞ、山にてはこの鳴動に驚き、天下泰平の祈
念に丹誠をこらしぬるよし、訴へ出たり。
廿四日、朝より雨、巳之時頃より晴たりしが、暮はて〻又雨
となり、子刻頃より雲收月清。
きのふの廿三日夕日花やかにて、夜に入ても靜なれば、曉近く
起出みれば、月色明らかにして、此程のごとく蒸暑からず、
快き肌もちに、をと〻日の雨にて時氣融和せしなるべし。地
震も實に是迄ぞと嬉しく詠め居たりしに、明六ツ半時ごろ一
ゆすりしたるに驚きて、雨戸引置て臥ぬ、明はて〻廿四日見れ
ば、夕べよりのさまを(とカ)引替て雨となりたりしが、四ツ時ごろ
より空晴たり。
朝四ツ時すこしく、九ツ時過震ひしかど、強からず。夜中は
不震。
けふは天神社の地車六番、宮入の折から、雨となりし故、物
商ふ人、茶店出せる男抔、いたくこう困じけるとぞ。川中にす
ずみ船十艘ばかりありし、とにかくに此頃の空のさま、晴雨
時の間に替りぬるぞ心うき。
廿五日、雲多けれども晴。
終日不震、夜中も同じ。
天神御祭禮、例年より早く渡御なりぬ。屋敷々々人家の獻燈
は本より、川すじの篝などは減ぜねど、大川のす♠み船は、
例の年の半にもたらず、遠方の見物人も是に同じ。
廿六日、陰天、今日土用に入る。
けふも震ひしかはしらねども、それとおもひしはなし。總而
廿四日よりこなたは震ひしと云人あれど、おのれしらぬ程の
事なれば、先者鎭りたりと云べし。
かくふるひやまずして、日を經るうちには、いろ〳〵の浮説
おこりて、けふの何の時には、わけて其心せよ、いと恐ろし
き目見るべし、或は來る何日の日は、こよなくあしき日也、
油斷すべからずなど、とり〴〵いひさわぐ程に、まどひやす
き人心にて、其度々に驚き騷ぎ、何事もなさでむなしく守り
くらしたりしかど、きのふけふはふるひもやみ、何の恙もな
く、相知りたる人はた無事なれば、互によろこびいひかわ(は)し
などして、心の落居るま〻に、つく〴〵と考ふれば、こたび
の地震は、去年の夏雨なかりしによりて、炎熱の氣、地中に
欝伏せしを、ことしとなりても雨だに多ければ、か〻る大變
にもならずして、程よく散發もすべきに、苗代さへ水に乏し
かりしかば、去年のま〻に蟄したるが、夏の氣にさそはれて
かく一時に激發せしなるべく、さらば何方も同じさまにこそ
有べきに、國所によりて強弱のあるは、いかにぞやとおもへ
ど、それはた炎熱の氣を受る事の輕重と、土地の堅愞による
なるべし、とにかくに此度の地震こそ、一時發陽の地震にて
はあらじと覺ゆれば、他日識者のさだめを待事なれど、いた
り深からぬ心に思ふま〻を、筆の序にしるし置て、萬用記の
追加とする事になん。
嘉永七年六月廿五日
一籠屋町通大目橋筋西江入人家、兩隣は恙なく、中なる一軒
十四日夜潰れたり。これは近きに柱廻り根繼せしが故也と
ぞ。
一大川町吉田藏屋敷、其外中之島邊屋鋪々々の藏、大體鉢卷
を落したり。其内にも吉田屋敷は破損夥し。
一天滿天神、座摩御靈とも、石鳥井之笠木の繼目、少々開き
たり。天神などは、其邊人家江用心可致旨通達せしなり。
一内久寳寺町にて、或人地震に而亂心し、剃刀にて自身江痹
付たりとぞ。
一青田氏之塾なる三太郞子、河州草香村にて止宿十四日、其夜地
震に付、雨戸を明んとすれ共あかず、僕と二人にて漸く戸
をはづし、庭江迯出、十五日歸宅之途中、崩家、死人、怪
我人あまた三十餘人見たりしより、忙然として、漸十六日晝後、
正氣になりし由。
一岩永老知音之人、地震の時刻に、屋根船にて西橫堀を通り
し折、津村御坊の内法話所崩れ、其音強く、且濱側之材木
震ひうごき、西側は瀨戸物店之もの打割音、川水は不流し
て浪立、船を岸へよせる事不叶、誠に生たる心地なかりし
とぞ。漸少し靜りて、船もうごき、船頭も働出來しと也。
一津村御坊法話所崩れに而、長屋之前へ響き渡りて倒れ候付
長屋之人、窓ゟ渡邊筋へ飛下り候も有しよし。又は助け呉
と呼候由。
一本家北野別莊、石燈籠廿四五基倒れ候由。
一此方岡村居宅、壁廻り少々宛ひ♠き(れカ)入候由、近村も同樣也。
倒家は無之、田畑少々われ候而、其所より泥水出申候、勝
山之西なる田は、清水湧上り、甚清冷なりしが、十六日に
相止み申候。
一畑之井戸、岡村邊は無恙、一里許東にては、皆々崩れ候由。
一河川八尾、久寳寺、國分邊強く震ひ、中にも國分村、人家
餘程潰候由。
一同松原村別而甚敷、潰家數々、怪我人も有之。路上裂け割
れ、泥水出申候由。
一攝州能條村、長柄より一里北東なり、同樣之地震に而、行燈倒れ、損
家有之由。
一同有馬郡結場村、大坂同樣、櫻井谷、多田村、池田、伊丹
同樣之事。
一同灘、神戸より廿三日に來りし人の話に、同所も大坂同樣
に而、廿三日にも折々震候由。
一此度の地震は、船場之内堺筋ゟ東は少々輕し。乍併上町は
外同樣なり。
一西橫堀岡田屋と云石賈、燈籠三十五本倒れし由。
一十四日夜、三十石下り船より、牧方邊をみれば、物に崩る
音、男女の泣聲などにて恐し、船もまたゆり上げゆり下し
などして、船底を棒にて突がごとく、甚不安心之心持也、
艫も梶もゆり居候内は、其用をなす事あたわ(は)ざりしと云。
一六月十六日御觸、
一昨夜地震有之候處、破損之人家、又は納屋等も無之哉、
尤怪我人等も有之趣之届も無之候。尤聊之儀、斷に者不及
候得共、相損住居も難成處、幷怪我致し、命に抱り候程之
者は、都而御番所、幷總會所へ可相斷候。一昨夜之後、追
追地震薄く相成、世上安心之體に相聞候、右に付、銘々彌
〻火之元、又は盜賊等之用心、無怠樣いたし、目浮説申出
し、惑ひに相成、無譯恐怖等致し候儀無之樣可被申聞候。
六月十六日 北組 總年寄
今度之地震、數國に亘れ共、就中、伊賀、大和尤甚敷、風説
區々にして、崩れ家壓死の多少、眞僞不相知といへども、目
前其地に往來して見來りし人の話と、飛脚屋より爲知之内、
實説と思はる〻を左に出す。
一勢州四日市驛、
驛中、十四日夜八ツ時之地震に而、過半潰れ、其上出火有
之、壓死、燒死其數夥敷、旅人も餘程死亡之由。
十六日に往來せし飛脚之話に、潰家燒失等にて道を塞ぎ、
其上臭氣甚敷、往來不相成、間道を登りし由。
肥後家士泊り候處、座敷は何方歟不知、家老體之人、餘程
之人數に而泊に付、裏手小座數に而寢居候折柄、地震に付
可立出勝手不相知、其内壁落候故、其所ゟ迯出、同道人幷
家來も打捨、漸赤躶に大小を持、京着被致候。定而同道人
は勿論、座敷之家老も壓死せられしなるべしと云。
唐物町大菱屋と云唐物商人、名古屋へ用向に付下向、四日
市止宿之夜、大變に付、裏へ迯出候處、家崩れ候に付、屋
根へ上り居候處、煙強く震も不止、無是非瓦に取附夜を明
し、翌朝みれば、火事は壹町程脇にて鎭り候得共、召連候
者壓死に付、坪へ入假埋して、歸宅致候由。右之樣子に而、
今度之地震に付、餘程人死有之、輕重相立候處、四日市第
一番也。
一伊賀上野、町方、死人百三十人、潰家千百三十五軒、怪我百貳十人、半潰九百四十三軒、鄕方、
死人四百五十三人、潰家千五百九十三軒、怪我八百三十壹人、半潰三千六百五十三軒、大手御門、京橋御
門崩れ、御本丸御殿向不殘崩れ、乘馬十八疋、家中女共二
三百人餘、城内にて埋れ死候由。町方は崩れ家ゟ出火、黑
門迄燒失、壓死燒死千人餘也とぞ、廿日に又大地震、相殘
候家過半潰れ、死人も有之由。城内座(屋カ)敷向大半潰れ候由、乍去死人は格別無之由、
十九日に小役人江黑米壹斗宛、町中へ米千俵被下候由。何
れも玄米之儘粥に焚食申候よし。御救、家持、借家人に不
拘、潰家之者一軒に付、金四兩、米四俵宛、傾候家は、一
軒に付、金貳兩、米二俵宛。
一和州古市、
藤堂領に而人家四百軒許之處、過半潰れ、其上後なる溜池
之堤震ひ切れ、大水一時に押出し、壓死、流死、數不知。
陣屋詰役人多分死失、翌々日頃、砂中ゟ死骸掘出し候由。
村中人家、七部通減少。
一同郡山、
城内崩所數多有之、町家も多分潰れ、柳町之邊、別而甚敷
壓死百五拾人餘。依之十五日ゟ總門メ切、往來不相成。安
否尋之人は、役人より相通致候事之由。十九日、廿一日之
震ひに、又々潰れ家出來、死人も少々有之由。
一奈良、
南之方は清水通、建家不殘潰れ、木辻、西町、四ツ辻より
南江七軒殘り、其餘皆潰。
鳴川町、右同樣之事、中に而は細川町、北向町、北風呂、
辻町、不殘崩れ申候。北之方西天貝通、七部崩れ、北半田
西町幸北、いづれも總潰れ、川久保町大崩、家二軒殘り申
候。總而南都八部通潰、死人は三百人餘といへども、聢と
不相知、死人は勝手に取置候樣被仰渡候に付、四斗樽抔へ
入、假埋致候よし。
春日社、二月堂、大佛殿、興福寺、元興寺無難之よし、五重目屋根飛候よし、十
五日に春日社御固として、御奉行興福寺衆徒相談嚴重之よ
し。同所石燈籠は、不殘倒申候。
十九日にも、郡山同樣潰家出來、般若坂邊之寺院、本堂崩
れ、僧壓死。何れも居宅之庭に出候歟、興福寺邊廣場へ立出
居申候故、其跡盜賊火附夥敷候に付、夜に入候は♠、役人衆
見廻り、追拂搦捕候に付、夜分は却而賑々敷よし。十五日
には、往來するもの一人もなかりし由。小野澤檢校男、十
四日に南都に止宿、家内諸共裏へ迯出候内、土藏ひらき、
納屋潰れ、家傾き申候。翌日、歸宅可致積之處、町中犬壹
疋往來する者なく、甚淋敷故、無據十六日歸宅す。途中道
橋損じ所多く、潰家死人等を見受候由。町中井戸崩れ、呑
水に困り、川近く江出居候者も有之、餅之施行を好候由。
親類有之、見舞之品もたせ遣候處、途中に而奪取られ候由。
十五六日頃也、
南都之人之曰、我等生涯に、元の南都には相成間敷と云。
格言也。
一山城笠置ゟ上野道島川原、大川原邊。
此邊別而甚敷、山々より大石轉び出、人家を押潰。所々ゟ
泥水湧出る事二三尺、家居田畑共、泥之中になり、又は地
中へゆすり込候家も有之、木津川所々淵之ごとく相成、死
人夥敷由。六月廿三日頃迄も、往來不相成由也。
右六ケ所、今度別而烈敷、輕重之順、右之通りなり。
一同加茂、木津、玉水邊、宇治、信樂。
いづれも地上割れ、泥水吹出し、潰家死人有之よし。信樂
燒物釜、多く潰れ候。
一江州大津、
石場燈籠、舟番所、湖水へ倒れ込、濱通り諸家米倉、大破、
北條町加州米倉より、觀音寺邊、尾花川邊、人家不殘潰れ
死人多し。其外三井寺邊之山より、大石轉び出、田畑家居
損候由。
膳所御城、高塀損じ、湖水へ落込、城下町家、潰家も有之
怪我人も有之由。
矢橋、湊口崩れ候由。草津、石部邊、破損夥敷由。
信樂、震ひ強く、家潰れ壓死五六十人も有之由なれど、山
中故、慥に不知、信樂、怪我人死人一人もなし、浮説なり、八幡、木部、錦織寺
邊、十三日大雨大雷、十四日夜地震に而、潰家廿軒許、怪
我人數多有之、傾きし家も多きよし。
西江州大溝、高島邊も同樣之由なれど、輕き方。
一參州岡崎邊は震ひ候へ共、尾州名古屋邊、幷中仙道筋は、
別條無之よし。
一京都、
洛外東山邊、黑谷、白川村抔、人家潰れ候へ共、洛中者潰
家無之、土藏臺輪損じ夥敷、十五日之夜は、大道に而夜を
明し申候由。
一尼崎、西宮、兵庫、明石、
右、いづれも大坂同樣之内、少々宛輕き方、併廿二三日頃
迄は、折々震候由。
一紀州和歌山、丹波龜山、泉州堺。
右も大坂同樣之由。
地震寸法とて、或人の語りしは、
奈良、上野、一尺八寸、郡山、四日市、古市、木津邊、河州、
一尺五寸、江州邊、一尺二寸、越前福井、一尺、京、大坂、堺、
紀州、丹波、丹後、播州、三寸、
越前福井火、幷に地震、
一當六月十三日五ツ時頃、鹽町鍛冶屋町より出火、東西南北燒
失致申候。尤朝ゟ大風に而、九十九橋ゟ北江町數貳百町許
寺院百餘ケ所、東西本願寺御坊をはじめ、近在五六ケ村は
致燒失、夜四ツ時頃火鎭り申候。
翌十四日夜八ツ時頃大地震に而、誠に大混雜之由に申來候。
右飛脚屋ゟ爲知之ま〻寫し置。
南都六月廿日出書狀寫、
然ば十三日初發午之刻より大震動、暮過迄に三度震ひ申候。
然處十四日晝八ツ時少々震、夜九ツ時甚敷大震、誠に驚入、
家内一統召連、猿澤池衣掛柳邊迄迯退候處、其後三四度動申
候。折柄雨降出し、食物も持參不仕故、無據雨具食物取に立
歸り、飯抔焚、彼是用意致居候處、十五日明がた、殊外甚敷
大震動有之、左右へ五六尺ばかり持上げ持下げ、上野、四日市も如斯由なり
迯退候事さへ不 、家内一統死を極め候處、佛神之御蔭にゃ
兩隣家押倒候へ共、此方は壁幷塀抔ゆり落候得共、家は無別
條、依而漸々迯退、元之場所へ立歸り候へ共、何分雨具等も
無之、雨中ひらうでにて相凌罷在候内にも、折々震ひ、五ツ
時頃ゟ晴天に相成候付、炎暑之照に而凌兼候故、近邊上り坂
櫻の本江立退申候、矢張折々震ひ候而、最早暮近くに付、夜
中相凌候ため、南大門前廣芝へ相退、出入之者抔申付、竹木
之折を取集、小屋を掛住居致候内、其日六七十遍許震、十四
日夜九ツ半時、十五日明方兩度に而、興福寺筋塀、寺中之土
塀、不殘崩落、尤寺中之内にも、客殿、書院、押倒候處も有
之、大地割れ、南圓堂石垣、敷石等、不殘崩候而、元興寺塔
五重目屋根、ふり落申候、春日社石燈籠廿壹本殘り、跡不殘
倒申候。右之譯に付、市中は勿論、大半押倒、凡七八百軒押
に打れ、死人公儀書上二百八十四人、怪我人數不知、郡山同
樣嚴敷、死人茶毘所之順番取、貳百餘り有之由、十六日晝夜
震通し、何百度歟數不知、十七日晝十度餘、七ツ時嚴敷有之
夜中より朝迄は九度許、十八日十度許、夜二度、八ツ時頃嚴
敷、十九日晝二三度有之、此後之儀者、猶跡より申上候。實
に前代未聞之次第に御座候、將又兼而御噂申上置候、春日山
裏手穗山と申、木材を切出し山也、右穗山邊と覺敷、十五日
夜ゟ石火矢大筒を放し候樣之響、折々相聞、彼ホラと申もの
に而も出候哉と噂有之、南大門は奈良中之高みに付、市中ゟ
追々迯來申候而、諸人更に顏色無之、今にも大變出來、總死
致候哉と相恐れ候事に御座候、然處此度之地震に而、同所大
地割、火炎吹出し、誠に恐敷事之由。則右は柳生近邊也、又
當地にも西北邊、往來地割水吹出し申候場所も御座候由。將
又當地近邊藤堂侯御領分、五萬石御支配之御陣屋古市と申所
奈良より廿五町有之、右所も不殘家倒、僅十五軒相殘候由。
右陣屋奉行、家内不殘押に打れ、下部迄も過半死去に御座候
尤奉行は怪我有之候得共、存命之由、右古市家數三百軒餘有
之在所に御座候。以上。
六月廿日
加島屋專藏、上野より差越候書狀、七月七日出、
然者伏見着廿七日、六月なり、宇治越、信樂江着仕候。道筋山崩
れ、谷々江大木大石重り出、甚難澁仕候。多羅尾御陣屋諸屋
敷、地面より皆ゆがみ、皆造之由、大取込、何事も申出がた
く、今に晝夜數不知、尤大坂邊に而最中之時、同時に御座候。
夫故未不殘野宿に而御座候、一兩日逗留仕、夫ゟ伊賀上野へ
出掛、夫々見舞申候處、いづれも潰れは不致候得共、大混雜
に御座候。信樂ゟ上野迄、道筋在々大荒、青田地面凸凹出來
又はわれ、水溜り不申、見ごろし之由、氣之毒に存候。奈良
より上野迄、道筋不殘大變、夫ゟ伊勢へ出申候。道筋は少々
損不(不衍カ)申候。南は山田邊迄と存候。藤堂樣御領分、死人凡千人
餘と承り申候。四日市一二里之間、寺四十九ケ所、死人九百
人、其中に四五十人、我等近附之人有之、扨々恐入申候。
七月七日
安部侯家士、六月廿日四日市通行、雲助之話、
雲助共、暑氣難凌、廣場に而博奕致居處、十四日夜八ツ時頃
地震とも不知、地下ゟ五六尺持上げ、ドンと落し申候。直に
家倒れ申候に付、直樣馳附、餘程壓死之人を助けし由申居候
也。
右廿日頃、驛中傾候家は、棒にてツヽパリ有之、其下をく♠
り通行故、甚氣遣ひに而有之と也。
出典 日本地震史料
ページ 36
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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