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項目 内容
ID J0300885
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1828/12/18
和暦 文政十一年十一月十二日
綱文 文政十一年十一月十二日(西暦一八二八、一二、一八、)越後國地大ニ震ヒ、神原、三島兩郡震害多シ、就中三條・燕・見附・今町・與板等ニテハ家屋ノ倒潰夥シク、特ニ三條町ハ全潰シ、死者四百人ヲ出シ、且ツ全町燒失セリ、見附モマタ全潰・全燒ス、震災地全般ヲ通ジテ潰家九千八百八戸、燒失千二百四戸、死者千四百四十三人、負傷者千七百四十九人ニ及ベリ、
書名 *〔救荒孫之杖〕○越後ノ僧枕雲洞著
本文
[未校訂]霜月十二日辰の〓蒲原古志兩郡大震、凡西は吉田町
より東は加茂町迄(此間六七里)、南は長岡城より北
は月潟迄(此間十里許)尤劇しく、潰家死傷等及牛
馬の死せる幾千萬と云ふ員に及びぬ、加之三條見付
町等を始とし、火災亦尠からず、其〓の郷〓も地破
裂して數十間青泥を吐き、家傾き毀傷夥きも左まで
死潰に及ばず、(按ずるに寛文五年十二月廿八日、
當國高田大震より百六十四年にあたるなり)世俗地震
世なをしといへはやせど、寛文の地震も四年たちて
諸國一同の饑饉となり、文政の地震も翌年より凶荒
となり、又天保十年の地震も翌年饑饉、又四年たち
て諸国一同の饑饉となり侍れば、惣て陰陽不順より
としりて、以降は油断せず蓄糧してき事也、
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 281
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 新潟
市区町村

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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