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項目 内容
ID J0300616
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1819/08/02
和暦 文政二年六月十二日
綱文 文政二年六月十二日(西暦一八一九、八、二、)伊勢、美濃、近江、地大ニ震ヒ、伊勢湾、琵琶湖ノ沿岸震害特ニ甚シク、倒潰家屋並ビニ死傷者少ナカラズ、是日、京都・金澤・安藝・信濃・飛彈モ亦震火、金澤ニテハ潰家ヲ生ジタリ、
書名 *〔世直双紙〕○猿猴菴著
本文
[未校訂]世の諺に地震雷爵彼くわじ親仁と云ひておそろしき物の巻かき
頭だしとす、これを思へば地震程気味の思ひ事は有まじ
きにや、それに對して親仁を以て巻軸に置からは親
には恐れねはならぬものとしるべし、日本に関とよ
ばるゝ角力さへ親には負て居る物としれと手島先生
の狂歌に有も其意なるべし、今茲文政二年巳卯六月十
二日の大地震は八九十年このかた聞も及ばず、爰か
しこに此沙汰のみなりしが、さま/\の風説を語り
などするばかりにして、委しく筆記して後世に傳へ
んとする由を聞ず、予が間近く見たりし破損の所々
をとり集めて風流する圖にあらはし、或は聞傳えた
る種々の街の談をもまじへ、他州にありし事までも
一つの冊子とはなし置ものなり、
巳卯仲秋下旬 名府 猿猴菴翁書
此日晴天に少しづゝ散雲あり、風も余程有、晝頃よ
り丑寅の潟にて雷遠く聞ゆ、未の刻に至り地震振出
し、初の程は左もなかりしが、長くゆりて次第に強
く、名古屋の〓林市井ともに竪町は破損少く横丁は
大に荒たり、是は地震は北より起るものにして、南
北へゆするといふ説一つの證あり、寺々の鐘をつく
棒を南北へつけず、實は地震の節鐘の鳴ざるための
用心なる由、又地震は平一回に何方も同じやうに心
得しに所によりて破損多き所と在も無所あり、然ら
ば一様にはあらで強きとよつき所と替るは如何と或
天文者に問ひしに、地震につよきよわきの差別なし、
其土地のかたき地はひゞきつよく、砂地などはつよ
からぬ由答へぬ、同じ様町のうちなれども、京町通
は至て強かりしと見へて、軒の庇等落し家々多かり
し、其余の町々にも庇の損ぜし所もあれど、京町通
程には無かりし由、されば其土地によれるにや、但
し、總じて何方も土藏のかべひべけたる事名古屋中
にて藏には少しづゝにても疵つかぬはなかりし、古
家或は假小屋等は却て別條無を思へば、かの土地に
同じく土藏の類のかたき物にはあたりつよく、假屋
のごときものには和らかにあたるなるべし、
此地震にて諸所の高へいねりへい損じたりしが、
高へいは損じ少くねりへいは大分くずれし所多し、
屋敷小路にて山口巾下邊は如何、廣井のうちにては
かばやき町堀切筋横三藏等各別損じ、ねりへい數多
たをれし、亦若宮八幡宮の北のねりへい取分大にく
づれ、其落つもりたるかべつき小さき山を見るが如
く抑山なるさまなり、
此邊外に破損は無かりし
七つ寺の塔大にゆるりて甚あやうかりし如し、初
の程は南北へゆりしが後にはくる/\とまわる様に
見へて、池端の蔦屋の店なる人々大におどろきしと
ぞ、されどもむかし造りにして丈夫なるがゆへにや
少しも破損はなかりしなり、西掛所の總門の南の方
くつれたりしが馬つなぎにもたれかゝりてありし、
古渡ふるわたりの里、新宮稲荷の神社は山王とのみ俗に稱號す、
此北の小路は古驛にして小栗街道といえり、此所の
高へいくづれ、又南のかた東門前なるつい地くづる、
但し數石と柱はなれたるのみにして大なる破損は無
かりし、今度地震に付ての狂詩に
地震
高塀已壊土藏危 如此地震未曽知
鯰公所業何騒動 我以瓢箪欲押之
作者不知
法花寺町のうち常德寺の總門たほれし、此地格別
に地震つよかりしにや、寶藏寺等も大に破損せし由
なり、
町々酒屋紺屋大にさわがし、何方の酒屋も酒藏の
横ゆりこぼれて藏の内は大水の入しごとく、酒の中
を腰きり渡りし由、又紺屋のあいがめあふれて一所
になりたる由、其内にかめのふたに六つめ籠を入江
るのみはあふれざりしとかや、或は小間物店はおし
ろいの箱こと〴〵く棚より落、紙屋の店にては巻紙
などつみたるも落し由、然るに茶わん屋瀬戸物店は
さぞ損失せしならんと思ひの外圧もなく、又本町の
廣小路を下る所にびいどろ店あり、是は甚あやうき
様なれど、只びいどろの銚子一つわれしばかりにて
外に頼じなかりしは、いと不審なり、兎角手輕きも
のにはあたり少く重くかたき物にはひゞきが強き由
なり、石燈篭は寺社或は庭の物好のもころび寺々の
石塔大分ころぶ由、是も土地によれりや少もころは
ぬ所もありし、かゝる大地震といへども、熱田の宮
中のみはゆすらず、此時参詣し有し人々は地震をし
らず、町へ出でゝより初て驚きしとかや、實に一奇
事といふべし、都て熱田邊は余所よりは靜なりし由、
此頃地震に付ていろ/\破損場所の咄あれども、遠
き在邊の噂は慥ならず、其うちに北伊勢の油嶋のう
ちに金廻邑皆受寺といふ本願寺末の寺あり、折ふし
北國方より法談の上手なる客僧の寺にて法談最中な
りしが、初座濟も後座の間に此地震ありて其堂くづ
れ、天井落、参詣の人七十餘人うたれて即死す、あ
やまちせし者三百餘人とぞ聞えし、是は正説の由其處の人
の直談を誌又或在邊西むきの由、大木の松あり、地の下へ
ゆり込たるに枝葉ばかり地の上へ出てある由、それ
も一𠀋程ありといへば大木なるべし、或は地さけて
泥を吹出せし所もありといへど、その村名は定かな
らず、亦近江路殊外荒たる由、去方に書附あり、其
寫猶奥に委し、扨當地橘町裏なる大芝居にておはん
長右衛門の狂言の最中なりしに、此地震にて狂言も
止、さんじきの見物あわてわさぎけり、取分高さじ
きはほうろくにて大豆をいるごとく、諸人ころ/\
と廻りてたまらぬゆへ、大分下場へ飛おりる拍子に
あやまちせし者もあり、女中の見物はかんさしなど
落せしも少からず、此地震の最中に東掛所の茶所の
井戸ざらへにて、井戸堀は井の内にあり、綱引の大
門の方へ引行處に俄に大門ゆすり出、たおるゝやう
に見へければ、各おどろき綱を捨てにげちりたり、
井戸堀は綱に取つき上らんとかの綱をたぐれば、ず
る/\と井の内へ下りしかば、力無井のうちに居た
りて甚あやうかりけるが、ゆり止て後人々寄合て新
に引上助しとぞ、傳馬町の人の見の上番が咄せし由、
地震の節名古屋中を一面見おろせしが、町々の屋根
うねり動たるさまさながら浪のうつに似たりと、さ
れば地震はねり震ふものにや、
むかしは酒をつくるに大桶に八分目入るつもりに造
りし由、是酒屋の定法なりしが、今は其事を用ず、
十分に仕込故地震にはあふれて損ありとぞ、地震の
用心迄昔の人は勘考深かりし由なり、
橘町裏の狂言は信濃屋の段にして、圓蔵はおはん、
松江はおきぬの段なりしが、折ふし地震ゆり出しけ
るゆへ、おはんをいたはり抱て樂屋へ入たり、又地
震静りて舞臺へ出さまに、今の地震わいなと云ひし
なんど實に危患の天變にも動ぜずして、かゝる頓作
の仕内、俳優に氣のみたたるならめと諸見物覺讃美
せざるは無かりしとかや、
此度町々破損の家々御役所え御達申上候分
土藏瓦庇落候由 本町之内 三河屋彌𠮷
居宅表並瓦庇落候由 兩替町之内 三河屋七兵衛
同斷 同町 大塚屋喜兵衛
同断 同町 縫屋喜兵衛
同断 東町之内 高木屋彦九郎
表並瓦庇落候由 同町 藤屋利兵衛
居宅横通り屋浴並〓たぎ候由 東町之内 鐵屋りやう
控〓家表並瓦庇二間半落候由 中市場町 嘉兵衛
控〓家表並瓦庇八尺程落候由 同町 六右衛門
居宅表並板庇三間程落候由 小牧町之内 笹屋ひさ
表並瓦庇三間之間引離候由 新町之内 くら 控家
古藏瓦並壁落候由 益屋町之内 彦兵衛
控借家表並瓦庇十間程落走路由 本重町之内 まち
居宅表並瓦庇三間落候由 堀詰町之内 石灰屋總右衛門
土藏瓦損候由 榮國寺前 清三郎
一納屋町之内椅際木戸南柱根石次目損候由
一九十軒町之内錦戸北之柱根石次目より折候由
一橘町裏之内上之切木戸柱根石折並同町之内にて、土藏
四ヶ所損候由
已上
或老人地震の最中に孫をおひて町通を行に両側の家
並がたつきて鳴音夥しければ、小兒おそれては悪し
と思ひ、あの家もよい/\するぞ坊もよい/\して
ゆくとまぎらがしたり、子供恐れずして面白がりて
驚かざりし由、頓智なる老人なりけり、
西北の在邊なる由、地割て泥吹出せし所あり、或者
これは珍らしき噺の種なりと、その割目へはいりて
見しが、甚つめたきものなりといふ、毒の試あやう
き物好なるべし、
是より江州邊より當地へ送る書附の寫左の如し、
江州八幡六拾六町之内
町並本家之分斗 同
一潰家八拾軒程 一半潰家六拾軒程

一大破損家三百軒程 但添家土藏之分は數不知
一即死十人程 一怪我人數不知
此度大變に付八幡斗に而家建直修復並諸品打碎損失
等萬端にて總入用凡廿萬兩と申風聞御座候、
右は御旗本朽木主膳守殿知行所、
一彦根領甘露村と申所一村總家數百五軒程有之候處
七拾軒餘潰家と成、
一西江州分部米𠮷殿在所大溝邑屋敷並家中居宅町屋
共大損に而八幡よりは各別増り候事之由、
一山中村家數五十軒程之所建具たてひき成候家三軒、
其餘大破損潰家三軒有之由、
一若州小濱邊も餘程荒候由
一和州奈良郡郡山も荒候由、
一越州敦賀も荒候由、
一京大阪並中國西國筋は當地同様之地震ニ而格別荒
所無御座候、
一江州伊庭と申所三ヶ寺大破損即死一人御座候、
村名失念仕候
妙樂寺とか申湖水端之寺召使之女鐘樓堂之方へ
逃出候所釣鐘ゆり落打し死候由、
右之外中山道宿並其外村々とも三四軒宛之潰家
いずれも有之候事、
巳上
是等の書附を見れば我尾府並西在北在邊の様子
は他方に比ば甚ゆるやかなりしと見ゆ、尤東南
の村々は猶更靜なりし由、但し八事山の大塔は
損ぜし沙汰有しが、瓦少し破損の由さしたる事
なしとぞ、本來本刕は地震ありてもつよからず
故諸人此度程の地震にはあたりつけぬゆへに一
入驚たること理ぞかし、かほどの事は八九十歳
の老人に問へども不覺候由、相傳ふ百何十年と
やら以前に大地震ありしと云ならわせしが、何
の年といふ事を詳にせず、愚按るに寶永四年に
やおらんか、尾陽見分事記に云、寶永四年丁亥
十月四日晝八つ時分大地震仕小時之間振、名古屋
御城中所々大分破損二ノ丸御堀端の道筋之地割
候、諸士屋敷ねりへいの分ハ十間二十間、或五間
七間程づゝ皆々頽候、町屋ハ別儀無之、熱田は
濱端の燈明ゆり崩、潮々は地割泥游水わき出、
家々も破損仕、同日晩方に津浪打寄候へ共、陸
へは上り申さず候、依熱田築出旅籠や町浦々不
殘騒動いたし、病人老人など手を引小児をだきか
ゝへ家財を持はこび、皆々宿を明立退、太神宮の
御社内に集居申事一日一夜也中略尾張中在々所々
夥敷地震にて民家悉破損田畑共地割游泥水夥敷わ
き出、田畑一面に成候、前代未聞の事、同時に諸
國も悉大地震のよし、其巳後も少づゝ折々地震年
を越て不止、毎度振候前大に鳴と云云、萬〓記と
云へる随筆に云、大地震ニ歩程之間諸人家内に居
者壱人も無之所々破損大分、御城之内角やぐら壁
おちる、巾下御藏之前八角にわれ泥水ふき出し、
われ巾少きのは一寸大き成は一尺も有之、地かた
一方は一尺程高く成一方は一尺程下り申候、町々
之土藏壁十文字にひゞきゆり、宮町藥屋久兵衛表
ひさしかわら餘程震落申候、在々之田所つぶれ申
候、其後度々毎日三度四度程宛震申候、昔五月大
地震有之候由、當年迄四十六歳目と云云、此度の地
震よりは餘餘強かりしと思ハれ侍る、
秋樂狂歌集に
寶永四丁亥小春四日に大地震ゆり治りて髙木
氏より秋樂の主によみて遣す
神の旅道中づけの古あふき要やぬけてかくはゆ
るらん
秋樂返事に
鈴鹿地のふり治りて神かぐら伊勢の尾張に立浪も
なし
この比の人の心は千早振ちハやふるふと神祈るな

かやうの狂歌どもに候まゝ心和にも一首
讀てと云こされければ
寢てしらぬ身にてやすけれ古のかのゆり若の大ぢ
しんかも
是等の狂歌集を見れば地震の後それのみの沙汰専と
思はれぬ、此度も地震の評判さま〴〵の風読まち/\
なりし、今度の大地震は晴雨考にはや見通してあり
と云ふも有、然れども晴雨考には大雨と話して地震
とは無かりし、或は熱田さまの御託宣にまだ十六日
迄には驚く事が有べしなど何者が云出せしにや、人
々聞をじして甚恐れ、日々心ならず、此ごろ白鳶が
舞由、宛もふ是で何事も無御知らせなりといふもあり、
又は白鳶が其以前より空に舞たれば、是は大地震あ
るべきとの告にてありしとも云へり、只何事も無難
にあれかしと御日待をするもあれば、佛待を御力に
して諸々へ町内申合せ代参を立るもありし、老人小
兒病人などは地震の時おどろき煩ふもあり、左もな
き人までもひや/\とあんじたる折なるに同月廿六
日夜に入て雷雨ありて、夜の刻比に至りてハ近ごろ
に覺へぬ大雷にて、諸所へ落てうだれて死する者
もあり、同月の廿九日も亥の刻大雷、此夜も諸方
へ落たり、前津のうちにては尼の庵室雷火し、又
智多郡横須賀の内にも雷火にて家數あまた燒失せ
り、人々の風評には廿六日大雷、廿七日は大地震、
廿九日は火難有べしと云ひふらせしが、天に口な
し人を以て云しむるの道理にや、はたして大雷も
あたり、廿七日は何事もなかりけれど、廿九日火
炎と云ひしにたがはず雷鳴強く雷火ありしなり、
或人此地震雷より思ひ寄ての狂歌に
よい歌を誰ぞ讀んだかあめつちのしきりに
うごく地震かみなり
然にありがたくも
上の御仁恵により熱田宮において民安全の御祈被
爲仰付、亦長久寺にても同斷なりしかば、人々の
心も安堵の思ひをなし、此以後は驚くべき天災は
有まじきとの御托宣ありし由世間に云ふらし、各
悦びの眉をひらきぬ此度地震の災熱田の宮中には
振はざりしを見聞し、人々云つぎ語傳えて猶更神
德をあふぎ奉れり、されば日々参詣の人夥しく、
取分八月朔日は格別の賑合なりしも、前に誌せし
竒〓を尊故なるべし、水無月の初つかたより白き
鳶あらはれて空に舞ふ故世上沙汰せり、はじめに
は一羽なりしが追々に増して四五羽程來りて舞ひ
しなり、此取の姿腹の方はうすねづみ色にして、
つばさは真白なり、父世のつねの鳶にして白き羽
まじりたるも有しとぞ、晝は諸方へ飛行し夜は御
土居の松に宿す、或人の日誌に百十八年のむかし
寶永年中の大地震の前にもかゝる白鷲現じて空に
舞ふと誌せる由相傳ふ、白鳶あらはるゝ時はかな
らず大地震ありといへり、しかはあれど書籍等に
出たる物にはあらざる事の由、若くは其形寫に似
て余の鳥にや如何、猶識者に尋ぬべきなり、亦或
天文學者に聞しが此鳶の事は考に不及、此前夜に
心宿星月をつらぬく、是天變あるのしるしなりと
いへり、
(原書ニハ多クノ挿画アレドモ悉ク之ヲ省キタリ)
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 209
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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