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ID J0300340
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1804/07/10
和暦 文化元年六月四日
綱文 文化元年六月四日(西暦一八〇四、七、一〇、)羽後兩國、地大ニ震ヒ、本庄城波頽破シ城下及ビ領内村落潰家五千五百ニ及ビ山崩レ、加フルニ津浪ノ襲來アリ、死者三百三十三人ヲ生ズ、象潟ノ海底、隆起シテ平地ト爲レリ、
書名 *〔田中又右衛門聞書〕
本文
[未校訂]文化元子六月四日、夜四ツ時、同五日暮六ツ時、
庄内幷木庄大地震ニ自、大變之次第聞書
一四日夜四ツ時、鳥海山鳴事雷の如し、等しく地震、
一酒田濱家數五千之所、頽家三百七拾八軒、大破四
百廿四軒、右震ふ節軒 バ地江付候様ミへ候、其
外不淺小破致候、土蔵五千余も有之内、頽百七拾
八、大破三百八拾貳、其外皆以損じ候得共、是等
ハ修理可相成、當時ハ火防ニなるへき土藏一ツと
してなし、海晏寺林正寺大破、妙法寺の山門頽る、
其外小破算へかたし、社家一軒修験三軒頽ル、五
日の朝顔色常の如きもの壹人もなし、皆人鉢巻を
致し居候、別而婦人ハ氣を痛め正氣不付もあり、
又狂亂を起ものも有之候、其後痛て死る者多し、
片町之頽家ゟ火事出て、子兄弟焼死す、町數多し
といへとも、第一にいたみたる人船場町也、大地
を川へゆり出したる事壹丈余、伊勢やと云脇の小
路、地割るゝ事口四五尺、窪ミたる事五六尺、市
村屋と云みせの前、地割るゝ四尺余、深サ壹丈余、
赤キ泥水を揚る事夥し、其上海上ゟ大浪來りて、
打揚たる水市中溢るゝ事三尺余、窪キ所ニては五
尺余におよへり、依て通路なし難し、町の中程ニ
井有、桶うりをゆり揚け大穴となる、藏之内家之
内、所々水湧出て大河の如し、右町の地のめる事
三四尺、其砌皆々野宿致居候、次ニ一の丁築抜の邊、
内町肴町邊大ニいたむ、所々地割家倒れたる有樣將
棊倒と云へし、其外上通り所々土を盛り、又ハ窪み
池の如きもあり、水湧出たる事谷川の如し、家潰れ
さるも住む事叶わす、山王山邊妙法寺邊廣しといへ
とも、尺地も透なし、四日程賣買なし、貯なきもの
は黒米を食し候、六日晝頃ゟ震ひ和らかに候、
田面の稲作左右ニ臥し根をあらわし、又は業埋たる
もあり、田の中もり上け小山をなし、又は馬土手め
り込平地となり、畑ハ川となり川は同となるあり、
酒田の川向ひ南ニいもり山有、一名いのり山とも弐、
五日朝さけて二ツニ成、其節黒雲出たると沙汰せり、
怖て行て見るものなし、遠く見る所貳三間も割たる
へし、折節繋ける船々は、水のさし引繋くして、上
り下り押合揉合て、錠鋼もミ切れ危き事共多し、さ
れ共船は格別之難なし、
小屋の潰大濱邊地七八尺割たる所、諸所之湧出たる
水壹𠀋余揚る、
宮之邊家数百余〓〓内八拾余軒頹る、残る廿四軒沈
ミて居る事な〓かたし、野宿を
庄内領遊佐郷八十三ヶ村、髙貳萬石大ひニいとむ、
當地ハいふ迄なく、永く田畠と成かたき地所多く有、
家數貳千餘倒レ破る、人馬の死幾ハくろ未知、所々
二壹里余之沼出る、
鳥海山去亥ノ七月迄煙て煙ミゆる、其後絶て不見、
地震後又々煙たち、山の形變す、
惣して地の割たる事蜘の巢のことし、湧出たる水硫
黄の氣甚し、
四日の夜ゟ九日の夜迄、町中へ小屋をかけ板戸扉を
敷、晝夜爰ニ居候て家ニ居るものなし、右日並ニ震
ふ事六拾余慶、其内四日の夜五日の暮大ひに震ふ、
數度大キなる事有るといへとも、右兩度程之事無之、
震ふ度毎に皆人神佛をいのり、念佛を唱て其聲殊勝
ニして裏也、其外諸説有實をも多く有之といへ共、
筆ニ盡しかたし、別而本庄領震ひ強し、酒田より本
庄迄の道筋、諸所宿々の様子を左ニ記、
一吹浦ハ八百弐拾軒、内四拾軒頽る、鳥海ニ程近し、
山之鳴動く事天に響て雷のをし、怖しとも云たか
りなり、
一女鹿五六拾軒、此所のもの共鳥海山の鳴動ニ驚き、
道たる故怪家するものない、家頽れ火事出る、牛
馬焼死す、中に〓出たる馬有、惣寄焼たゝれ、兩
耳焼落、身を振ひ、誠ニ苦敷様子みる者涙を落せ
り、
一小砂川七拾余軒不殘頽る、死人拾壹人といふ、
一關百軒半分頽る、死するもの三人と云、
一此浦七拾四軒家頽れ火事有、燒死共ニ拾七人と云、
一鹽越酒田ゟ壹り、家數五百、藏家悉皆頽る、死す
る者貳百七拾人、頭を打れ腰をそこね、手足をく
ちき惱もの四百余人、此内半分ハ死すへしと云、
馬五拾疋壹疋も不殘死す、地割て泥水湧揚り、町
中泥の海のをし、日々震ふ事夥し、故ニ山ニ登り
て是を遠さく、此邊在々宿々人民壹人も家ニ居者
なし、此處の潟を象潟と云、爰ニ滿珠と云大寺有
り、土中に沈む、少し屋ねのミ見ゆるなり、象潟
い八十八島○八十八潟ノ誤ナラン、九十九嶋有る處なるに、高キ
ハ沈ミ卑キハ浮ミ、悉皆平地と成る、同所南之方
大師崎平澤迄凡拾二三里之間タ、濱邊五六十間通
リ、砂を押上け山となる、たまさか少し押上けた
る所ハ、是迄千尋海も貳尺四五寸の淺瀬と成る、
折ふし大船小船着岸之分行衛不知道たるも有、砂
ニ埋ミて不動も有、誠に象潟は奥ニ名高キ名所と
て、西行も
松嶋の小嶋の景ハ景ならて
たヽ象潟の秋の夕くれ
かやうニ詠せし所も一震ニ荒果て、茫々たる原と
なること憎むへし、
一三森ハ二百軒有之所、半バいたミ死る者三人と云、
一せ川田貳拾軒有り、死人八人と云、
一平澤者家數百軒余、半分頽廃る、死人廿人と云、
一本庄御城下家数七百余軒、内弐百余軒頽る、殘る
五百余軒之内、半分ハ修復叶へし、死するもの五
人と云、
一亀田秋田邊各別の事なし、鳥海山麓而巳震動甚タ
し、右荒増を相認懸御目候、未一日、一度位ツヽ小
震ひ御座候
六月
右は田中又右衛門酒田出燒致居、右地震ニ逢ひ候
て晝遣候寫也、
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 166
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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