[未校訂]享和元年辛酉鳥海山硫黄焼之次第
二月十二日夜五ツ時東の方に當て奇異の震動有之、
天より鳥海山煙立候而相見候得共、雲か煙かさなか
に相分不申焼候共、左のみ難決色々風説ニ御座候、
それより次第ニ雪消相見候付、三月十二日登山一見
仕候處奇休之大變に御座候、則圖入御覧候、小瀧村
に傳來候記録を見申處、當年にて六ヶ度ニ御座候燒
候年毎に悪水涌出下村郷里百姓共申候ニハ先年のや
うに悪水ニも相成候てハ御田地並牛馬呑水に至まて
水毒甚敷物のよし申聞候
乍恐書付申上候
先月中旬頃より鳥海山煙氣立候趣、麓村にて見受候
由風聞有之ニ付一山の者心を付度々見聞仕候得共、
山上大雪にて登山難成、當月ニ至リ候而も折々雪降
登山仕兼候、然處一昨八日より快晴に付強力の者四
五人爲指登見せ申候處、荒神嶽の邊七八ヶ處煙立御
本社並長床等も燒失候哉相見不申候由、煙氣盛に立
登近所へ立寄難く、業者嶽と申處にて遠見仕罷歸候
由申聞候、此後何程燒廣かり候も難斗奉存候、此段
注進申上候、猶相變候も御座候ハヽ追而可申上候以
上、
酉三月十日 鳥海山學頭
龍頭寺
役僧
玉泉坊
同
般若坊
寺社御奉行所
先月中御注連申上候鳥海山煙氣立、折々見届ニ爲登
候得共、煙氣盛にて近寄兼遠見斗致居候、漸此間ニ
至煙氣も薄らぎ衆徒の内𠀋夫成る者四五人罷登見聞
仕候間御注連申上候、七高山下より燒始候歟、荒神
嶽仕地燒候、仁賀保小瀧駈郷之方燒通谷に相成、御
本社ハ飛候哉、又は燒失候哉相見不申候、長床は二
軒共燒穴より吹出候土石にて埋まり申候、先頃迄七
八ヶ處煙立候之處、當時一ヶ處に相成申候、此間見
分之處別紙繪圖いたし奉入貴覧候、尚相替候儀も御
座候ハヾ追々可申上候以上、
酉四月五日 鳥海山學頭
龍頭寺
役僧
玉泉坊
同
般若坊
惣衆徒
寺社御奉行所
坂尾宗吾○大泉叢誌著者六十二以前元文五庚申年山上燒候
せつ、三代實録十九巻の寫を添寺社方へ御注連申上
候扣、大庄屋阿部善太夫役所ニ有之、今度御郡奉行
へ指出候由、
山燒の事遊佐郷などにては、當二月中初て聞及候付、
仙北邊の咄を承候に最初燒初候ハ、去十一月頃より
と也、當年の山燒は山裏にて遊佐郷にても様子見へ
ず、鳴動も聞不申由、女鹿小砂川邊ニ至りてハ、其
日風合ニより折々鳴動聞へたる由、何ほと所々燒候
ても山の欠け崩れ候事ニハ無之、先年の燒のことく
燒穴斗り明候事に可有之となり、荒瀬郷舛田川の下
福山村川筋の者の咄しニ雨後水氣の有節は燒灰流れ
硫黄の匂ひありと川水のみ悪しきとぞ、
去年中願申上候行者嶽と申所に造立仕候鳥海山御本
社並作事小屋共に當十三日煙氣のため燒失仕候次第
左ニ申進候、其日晝四ツ時頃伏置候大桶杵之類を以
打候ごとくどん/\と二三度鳴とひとしく瑠璃邊よ
り其黒煙氣是迄見かけ不申程甚敷立登り如何いたし
候事やらんと見居候内、山上北風と見へ、此方前山
へ黒煙吹掛候ニ付、人々恐しく肝を潰し見居候事ニ
御座候、其節山上にてハ火玉吹出し嶺松の類一面ニ
吹上罷飛候由、山上勤番の衆徒も川原宿小屋、逃去
候處小屋番の者一人も不居合皆々下へ逃下り候由、
尤筋坂は吹上泥にて一尺余苗代の中を漕ぎ候やうに
相成候、其節山上鳴動其上水呑と申邊迄真闇に相成
り灰降候而山稼の若者共人馬共に大ニ驚キ肥草打捨空
馬ニシテ這々逃歸候事ニ相聞候、元文五申年燒候節
ハヶ様の變事不承事ニ御座候、右ニ付寺社方へも御
注進申候得共、右之趣も被仰上可被下候以上、
七月十五日○享和二年阿部善太夫
小野伊太夫様
斎藤銀四郎様