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項目 内容
ID J0300261
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1799/06/29
和暦 寛政十一年五月二十六日
綱文 寛政十一年五月二十六日(西暦一七九九、六、二九、)加賀國金澤、地大ニ震ヒ、金澤城下ノミニテモ、潰家二十六戸、破損家四千百六十九戸、土蔵ノ崩壊並ビニ破損九百九十二棟、死者十五人ニ生ゼリ、
書名 *〔金澤豪語〕○和田文次郎著
本文
[未校訂]寛政の地震も前後にない激震であった、同十一年七
月二十四日日の出甚だ赤く人これを恠んでゐた、そ
れは前兆でもなかったであろうが、二十六日夕七時
過ぐる頃大地震に襲はれた、最も強震を感じたのは
大手先、近江町、彦三町、味噌藏町、小立野の邊で、
武士町の土塀は崩れ、石垣も損じ、何處の邸宅でも
少しく傾斜したのや鴨居天井の堕ちたのもあつた、
古い土蔵は四方が開いたのもあり、或は傾き或は破
れたが、井戸の崩れたのは無かった、金澤城の石垣
や土塀も損じた、彼の辰巳用水も犀川の取入口から
城内に注ぐ處までの水路は殘らず破壊され、死者も
四五人あつたさうだ、殊に小立野の大乘寺殿、新坂、
中坂等の人家は最も多く破損し、中には崖下へ轉落
したのもあつて、家數百軒計りは居住し難く、その
住民三百人許りは、町會所の取計ひで三ヶ寺へ収容
して十日の間握り飯を與へ、その間に家屋の修繕を
させて、當日は地震の後に夜中數回揺り返しがあり、
兩度の揺り返しがあり、七月三日兩度の揺り返しは
稍々強かった、その地震は金澤が最も激烈であって、
越前境や越中境は微震を感じたに過ぎなかった、當
時市内の警戒は物々しく、菰、縄、簀の類も人夫の
賃錢も一時高直であったが、當年は別して豊作であ
つたゝめ人心は安定して居た、然し宮腰に海嘯があ
つて人家數百軒許を掻き攫った、
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 134
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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