[未校訂]寛政の地震も前後にない激震であった、同十一年七
月二十四日日の出甚だ赤く人これを恠んでゐた、そ
れは前兆でもなかったであろうが、二十六日夕七時
過ぐる頃大地震に襲はれた、最も強震を感じたのは
大手先、近江町、彦三町、味噌藏町、小立野の邊で、
武士町の土塀は崩れ、石垣も損じ、何處の邸宅でも
少しく傾斜したのや鴨居天井の堕ちたのもあつた、
古い土蔵は四方が開いたのもあり、或は傾き或は破
れたが、井戸の崩れたのは無かった、金澤城の石垣
や土塀も損じた、彼の辰巳用水も犀川の取入口から
城内に注ぐ處までの水路は殘らず破壊され、死者も
四五人あつたさうだ、殊に小立野の大乘寺殿、新坂、
中坂等の人家は最も多く破損し、中には崖下へ轉落
したのもあつて、家數百軒計りは居住し難く、その
住民三百人許りは、町會所の取計ひで三ヶ寺へ収容
して十日の間握り飯を與へ、その間に家屋の修繕を
させて、當日は地震の後に夜中數回揺り返しがあり、
兩度の揺り返しがあり、七月三日兩度の揺り返しは
稍々強かった、その地震は金澤が最も激烈であって、
越前境や越中境は微震を感じたに過ぎなかった、當
時市内の警戒は物々しく、菰、縄、簀の類も人夫の
賃錢も一時高直であったが、當年は別して豊作であ
つたゝめ人心は安定して居た、然し宮腰に海嘯があ
つて人家數百軒許を掻き攫った、