Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J0300134
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/02/10
和暦 寛政四年一月十八日
綱文 寛政四年一月十八日(西暦一七九二、二、一〇、)肥前國島原温泉嶽破裂ス、是レヨリ先キ前年ノ冬屢々地震ヲ發シ、山崩ヲ生ジタルガ一月十八日ニ至リ、温泉嶽ノ中ナル普賢山鳴動ヲ始メ、新タニ火口ヲ生ジ、水蒸氣・土石ヲ抛出シマタ多量ノ泥ヲ噴出セリ、二月四日ニハ普賢山ノ東方穴迫ト稱スル谷間鳴動シ、六日ヨリ噴煙ヲ始メ、九日頃ニ至リテ其ノ勢ヒ愈々甚シ、二十九日ニハ蜂ノ窪ト稱スル地ヨリ噴煙、翌閏二月三日ニ至リ再ビ其ノ附近ヨリ噴煙セリ、三月一日ヨリ地震・鳴動強ク、山腹ヨリ岩石・砂利ヲ崩落シタルガ、一日夜半ヨリ翌二日朝マデ地震最モ烈シク、三日ニ及ビテ漸ク間遠クナリタリ、九日ニハ前山ノ南面崩落シ、四月一日ニ至リ裂シキ地震二回アリ、前山ノ南面、山頂ヨリ麓マデ一時ニ崩壊シ、崩土海ニ奔下シテ津浪ヲ起シ、タメニ島原半島ニテ田畑荒廢ニ歸セシモノ三百八十餘町、死者九千七百四十五人、負傷者七百七人、牛馬ノ斃死四百九十六頭ニ及ベリ、肥後ノ海岸モ津浪ノ襲フ所トナリ、死者飽田郡二千百餘人、宇土・玉名兩郡ニテ四千人アリ、天草諸島ニ於テモ死者三百四十三人ヲ出セリ、
書名 *〔寛政四年島原地變記〕
本文
[未校訂]一、寛政四年の島原事變は近世の大異事にして之が
事實を調査するは地理歴史上に關する必要の件
とす土地西陸に僻在するを以て未だ精細の著書
あると聞かず星霜を經る事僅に百年巳に其地名
を失するものあり今に當り之が調査を成さゞれ
ば或は恐る終に悉く其在所を失するに至らん事
を是れ予が此者を爲す所なり。
一、 島原大變記と題す書は當時目撃したる人の著
書なるべきも一人にして全般を目撃し得べきに
あらざれば未だ盡さゞる所あり加ふるに虚談に
渉るものなきにあらず此他の書冊は多く一方の
事のみにして全約を窺ふに由なし。
新崎和盈の大變記は當時其身は他所に在り後年
他人の著書に依り抜萃したるものなり。
佐久間維章此雜錄は其身は江戸常住にして
地形を知りたるにあらず他日一度來りて當時の
事を聞き漢文を以て之を記したるなり故に記事
粗にして又誤聞なきにあらす。
深津世紀之記事は島原大變記を漢文に訳したる
に過ぎず。
一、 地形に至ては當時之を詳にするものなく僅に
𦾔島原市街の地因あれども皆實測に出たるもの
にあらず故に其𦾔海岸は何所に在りて其埋説の
土地は爰許なりしや今は之を明にするを得ざる
なり。
一、予は首として地圖を製する事に注意したれども
終に其精確なる材料を得ず是を以て已を得ず文
政の未年島原藩測量圖に依り𦾔圖を参照し再三
實地を踏査して其大體を定めたり故に或は當時
の實況を異る所あるべし。
一、明治廿四年六月稿本を印刷し之を知人に〓ち
其説を需めたり。
一、爾後修正を加へ明治廿五年之を東京地學協會に
送りしに二月以後其雑誌六册に分載せられたり。
一、 地學協會に寄送したるの後一二書册の發見す
るものあり又學者の説を聞き之を實地に調査し
得る所ありて大に修正を加へたり再び之を印刷
し同好者に須たんとす。
一、 記事は皆古書に基き口碑に取りたるものにて
妄に創造を加へす故に未だ隔靴の憾なき能はざ
るなり。
一、 此書は只其事實を記するに過ぎず學理上の事
に至ては其學者の考案を待つのみ。
一、 米國人ドクトル瑪高温氏の説話及質問は大に
予が記事の足らざる所を補はしめたり。
一、 予が集めたる地圖及び製したる地圖看取圖等
は數十葉なり今其中に就き重要のもの二葉を付
す。
一、温泉の地理は大に本書に關するものあり故に
予は別に温泉の地理に就き編集する所あらんと
す。
明治廿六年四月 金井俊行識
地形
南高來郡は肥前國の東端に突出したる半島にし
て中央に温泉岳聳へ三十餘の村落其麓を繞れり。
温泉うんぜん岳古央高來山とす詩人雲仙に作る國見くにみ、普ふ
賢、妙見みやうげんの三峯を以て成れり。國見岳尤高く海面
を抜く事四千四百八十二尺(文政年間島原藩測量
圖に依る以下同じ地質要報四千九百〇九尺とす)、
普賢は四千四百四十六尺とす(地質要報四千八百
三十尺)、妙見は稍低し(地質要報四千四百六十
八尺)、普賢と國見との間の谷を鬼神谷とす、普
賢と妙見との谷をあざみ谷と呼ぶ。其間僅なる距
離なるも其谷甚だ深し想ふに古代噴火して此關谷
を生したるなるべし。普賢・妙見共に嶺上其神を
祀るを以て名く土人普賢岳を呼て奥山とす。
九千部くせんぷ我妻岳(地質要報三千〇三十四尺)宇土うと
山舞岳・前山・高岩山(測量圖二千八百八十六尺)
矢岳(地質要報三千二百六十二尺)衣きぬ笠山・高岳・
千々石ちゞは等繞りて温泉岳を擁す九千部山一書求仙
峰とす傳へ曰ふ昔し僧空海此山に登り經九千部を
誦読せりと。
前山は普賢岳の前方に位する高山にして二峯よ
り成り高く海に臨めり。北方の峯を七面山と云ふ
海を拔くこと二千六百四十尺(明治廿三年海軍技
師の測量二千七百三十四尺とし地質要錄は二千七
百五十七尺とす)嶺上七面守を祀るを以て名く。
南方の峯を天狗山と呼ぶ其東南破裂したるなる罹
災の當時藩廰より幕府へ報告せる圖面には元の高
さ凡八町とす(二千八百八十尺現時二千三百八十
五尺)其前山と云ふものは奥山に對するの名なり
詩人は前山に作る古圖島原山とす。
島原の市街港湾は前山の麓にありて權現山其東
方を擁し南に松島あり以て港湾を成せり。上下二
口あり水深くして數百の大船を繋ぐべし昔時海運
の未だ開けざるや有明海に面する肥後筑後肥前地
方の産物を上國に運輸するもの其本船は皆島原港
に止れり是を以て島原は有明沿海の商權を占め上
國貿易の市場となれり。市街沿岸の地は高摟浪に
〓み翠簾水に映し千船纜を繋ぎ萬檣林を爲し絃歌
の聲は晝夜に徹す一朝滄桑の變に遭ひ港湾は埋り
て丘陵となり海面十數町の外新に港湾を爲すに至
れり。
温泉岳の下に部落あり總名を溫泉と云ふ海面を拔
く事に千二百四十尺四方連峰僅に南北の二方に水
流あり北温泉中縦三百間横百間許りの地至る處噴
火す之を地獄と稱す、此邊地下總て火遁にして溝
渠庭隅湯を吹き烟を發するものあり、南温泉にも
一噴火地あり小地獄と呼ぶ、傳へ曰ふ僧行基此山
を開し時已に地獄ありしと、
温泉岳は火山にして古昔數度の噴火ありしは只記
錄を徹するに足るべきなきのみ、其實地に於て已
に之を證するに足れり、寛政噴火より前百餘年高
力氏の時に於て三會村宮林噴火す之を古焼と稱す、
其跡江丸と飯洞岩の中間に在り谿谷中數町間高く
其形を存す、此時北方各村は明暦三年とす或は天
和年間とす、此翌年深江村中木場村の奥谷(赤松岩なるべし)
より出水し兩村に汎濫し屋屋を流し死亡三十餘人、
德川原は其水道なりと云ふ(安德川原又水無川原
とす〓た攝津の港川に似たり川底は人家より高く
白沙にして一滴の水なし、只梅雨の候普賢より流
下する雨水は滔々として岸を拍ち往々堤塘を破壊
し田圃を損傷す)小濱由來記に寛文三年三月普賢
山九十九島池燒出し廿五日目大雨にて消る事を記
す、此他温泉の地及び妙見岳麓池の原、あさみ谷、
赤松谷等の地は皆古代噴火の跡なるべし、又前山
の崩れたる地より木根の化石したる者出たりと云
ふ、一書に曰く普賢岳の東方前山に聯絡せる峯巒
中板底と云へる平地あり、東西二町南北一町許中
窪くして池の如く草木生ぜず土地青色を帯ぶ、寛
政地變數年の後樵者死せる事あり又其上に摺鉢谷
と稱する地あり、方四五町の間地窪みたる所多し、
岩石累積し恰も古燒新燒に異ならずと是或は古代
の噴火跡なるべし。
地質要報に深江村の土地も亦寛政噴火の時燒土
堆積せるが如く記せり、然れども此時深江村の地
は格別の異變なければ該村の平原に燒土多く堆積
せるは明暦の噴火にて洪水ありし爲めなるべし然
らざれば其前後噴火したるものならん。
北溫泉に筑紫國魂(つくしのくにたま)神社あり。元四面宮
と稱す。白日別(しらひわけ)今、豊日別(とよひわけ)命、速日
別(はやひわけ)命、豊久志此泥別(こよくしひねわけ)命、建日別(
たけひわけ)命を祀る三代實錄、清和天皇の貞觀二年前
國從五位下温泉山の神に從五位上を授くるもの是
なり。多くの田園を寄付せられ、九州諸国幣帛を
奉し來りしも今は郷社となり只南高來郡中にて崇
奉するのみ。
大樂院滿明寺も亦溫泉の地にあり。山號を温泉
山といふ。文武天皇の大寶元年増行基の創建にし
て四面圖の別當たり瀬戸石原(せといしはる)に三百坊別所
(べつしよ)に七百坊あり。二所の僧相闘ひ瀬戸石原の
僧、別所の僧坊を燒く爲めに漸に衰微し加ふるに
再興し一乘院下號す。明治三年南串山村東泊浦末
菴の地に移す。
普賢岳及穴迫谷(あなぜめだに)の噴火
寛政四年壬子正月十八日子の刻激震す。鳴動の
聲は溫泉山に起り數百の大雷に異ならず、是燌火
の始めなり、先是去年十月八日始て地震あり以後
毎日三四回地下鳴て而して震す。十一月十日頃よ
り地震漸く強く其時々前山土石崩れ落つ、就中小
濱村地震尤も烈しく、該村山領(やまりやう)の内字横手
に山番小屋あり。老人夫婦居住しけるが後山崩れ
て家と共に〓せられて死せり。其他各地とも家屋
の破損甚多し。此年正月に至り山岳頻りに鳴り其
聲雷の如く又庵の如し。
此夜は諸人只激震に驚きしのみ翌朝山を望めば
黒煙嶺を覆ひ雲を突き朝曄に映して其色錦の如く
其勢ひ猛裂にして凄しき事言ふべからず。翌日登
山したる吏員の調査によれば普賢祠前の平野方三
十間許地陥り中に三四間方の坑口ありて泥土を噴
出し近方二町歩許は泥土充滿せりと。而して逐日
噴火勢を増し坑口廣を加へ煙焰空に騰り廿日に至
りて尤激烈を極めたり。時として一天曇り城下灰
を降らすに至る。爾來漸次勢を減じ、閏二月に至
りては噴泥僅に五六尺に過ぎず。其跡數十丈の深
谷となれり。之を地獄跡と稱す。
普賢噴火の後十五日を経て二月四日三會村穴迫
谷頭「ひわのばち」大に震動し砂石崩れ落ち六日
巳の刻土砂を噴出す。之を新燒頭とす。此地島原
より二里普賢より十五六町峻嶺の半腹にして容易
人至るべからず、其岩石崩れたる所遠見三町歩許
九日夜火光あり爾後炎焰空に騰り岩石燒て谷に落
ち其響雷の如し、其火は日に卑しに就き終に杉谷
村千本木の平原に至り深谷突起して高陵となる(
新燒頭は飯洞岩の下にあり飯洞岩峯の尾崎を隔て
古焼と並べり。穴迫谷は飯洞岩の麓より千本木に
達し大なる深谷なりしに此時飯洞岩の下山腹の地
新に噴出し、一峯を爲す之を吹出と稱す。是より
渓谷に沿ひ噴火して下る其跡蜿蜒殆んど一里千本
に至る其左右岩石屏風の如く其中間は窪たして燒
岩錯難し所々空洞あり小石を投ずれば深く轉落す
る響を聞くと云ふ。千本木噴火の止る所高く黒丘
を爲し屏風を立たるが如く直立二百尺幅五百尺許
之を燒石と稱す。燒岩の上矮松多し、年を経て伸
るを得ず文人採て盆栽とす燒岩に沿ひ櫓木山の上
に大谷と稱し數十丈の窪谷あり蓋し噴火前穴迫谷
の原形なり)。初め普賢の噴火するや人皆恐怖堵
に安んせず、日を經るに随ひ其火は近きに來るも
漸く慣て而て怖れず、時春暖に乘し酒瓢を携へて
千本木及櫓木山邊に遊び噴火の景況を〓る者あり
後には老若男女群を爲して其近郊に遊び宴を張て
遊樂す。又近國より來り觀る者あり是を以て櫓木
山の地には新に茶店酒舗を設け恰も神社佛閣祭禮
の時に異らず眼前噴火の危険あるも却て之を楽し
みとし甚しきに至ては乱舞泥醉身を傷するものも
あるに至る。當時の著者之を記して都會の遊山東
海道の往來も啻ならずと云へり。其盛況想ふべし。
藩廰は三月十三日終に遊觀を禁じ、但戸主に限り
其景況を視察する事を許せり、嗚呼人智未だ聞け
ず、噴火地震の恐る可きを知らず、只目前數十日
間に害なきを見以て之を奇觀とするが如きは甚歎
くべき事なり。
飯洞岩の噴火(大變記には飯洞岩と蜂の窪を別地とす。
今郡方役所日記に從ふ。)
二月廿九日未下刻、飯洞岩(一に蜂の窪といふ)
噴火す、(普賢噴火より四十一日穴迫噴火より
廿六日)普賢噴火の地より東北十餘町に在り後四
日閏二月二日飯洞岩より北西二町餘古燒の地亦七
所に噴火す。飯洞岩の峯は其頃より崩れ二峯とな
れり。二所の間地裂るもの噴火す。飯洞岩の峯は
其頃より崩れ二峯となれり。二所の間地裂るもの
數所幅三四尺乃至十七八尺此地溫泉山中些少の變
事は記するに暇あらず、各地の焰煙は朝暉夕陽に
映し種々の色を呈し、夜は火光天を焦し噴火は箇
所を増して城下に向ひ盛々卑きに就き其勢旺盛に
して終に海に至らざれば止まざるが如し。
閏二月中旬城外銃砲町の内古町字あたまなし辻
家士杉岡夘右衛門が家屋の地下殊に鳴動する事數
度にして柱震ひ害物棚より落つ、十五日藩廰人夫
を發し地下六尺許と穿ちたれども別に異狀を見ざ
りき。
女人登山の禁止並入林制止
穴迫谷見物の途次溫泉山に登り噴火の影況を見
るもの多く婦女の登山するもの亦少からず。當時
噴火中にして頻りに地震ある時なるに當地の高山
に婦女の登るが故に其時に於て地震殊に激裂なり
との流説ありければ藩廰は於に婦女登山禁止の高
札を各所に揚げたり。
二月下旬に至り噴火の爲め空氣の變動する
普賢山中唖(おし)が谷に往く者往々呼吸逼迫す
ることあり。又猪鹿猪狐兎小鳥の類斃死しければ
山中毒氣ありと云はやし。藩廰は又入林制止の高
札を掲たり。
地震鎭靜の祈禱(郡方日記には三月十一日とす。尤度々ありたるよしなれば閏二月にも爲したるや計り難し。
閏二月十四日藩廰は正月以來地震強く人民堵に
安んぜさるを憂ひ特に温泉山の一乗院に命じ眞言
宗の僧侶十四人を集め穴迫谷の下に假屋を設け一
七日間眞言秘密の祈禱を爲さしめ他の寺院にも亦
祈禱を命じたり。
三月朔日の地震並に城内外の景況
三月朔日申刻、地大に震ひ前山鳴動す、或は一
聲、或は三四聲、當時の著書に記す。其音恰も近
く阿蘭陀船の大砲を聞くが如しと。其聲奥山より
發し前海へ通過するが如く、或は海より山に響き
其状平常の地震に異なれり。前山は土石崩落、樹
木顚倒し炙焰嶺を震ひ火光終夜減せず。人皆前山
己に亡せりとす。曉に至れば山形以前、只樹木焚
燒して諸山となりしのみ、爾後遂日地震益甚しく
諸人大に恐怖の念を生したり。
此日家中は地震あるや猶に春城し終夜三ノ丸に
在て藩廰の命を待つ地方に關する吏員は地震の景
況視察として各村に派出せり。此夜家中の家族も
早〓の別なく皆城内に逃入り三ノ丸にて夜を明し
たり。平常ならば種々の談話もあるべきに數百度
の地震打續きしなれば、人皆之に氣を奪はれ、只
茫然たる計なり。家中此の如き景況なりければ市
街の人民は取る物も取り敢へず此夜谷村に避去す
りあり或は城内に逃入るあり。其混雑名伏すべか
らず。斯くて終夜強弱三百餘度の地震あり。二日
三日に至るも尚百度以上にして鳴動強し戸障子の
外るゝもの朔日六度、二日は四度なり。斯る景況
はりければ屋内に居るものなく皆庭園に出て莚苫
或は澁紙等を張り僅かに雨路を凌ぎけり。頃は彌
生の初めにして桃の節句の準備とて折角飾りし雛
棚も地震の爲めに揺崩され棚より落る人形を頗る
の暇もなく只地震に心を勞するのみ。
地震の景況は此月三日藩廰より幕府に報告せる
書に詳なり之を左に掲ぐ。
先度御届申上候私在所肥前國島原温泉岳並に普
賢最初吹出の箇所は差て相變儀も無御座候二月
廿九日吹出 候峰の窪と申す所至て勢氣強く裂
敷岩崩れ右近邊の山々悉く崩込四五日前より夜
分火氣相見鳴動強く御座候且又穴迫吹谷の儀、
兎角火氣強、次第に谷下に燒下り民家程近相成申
候然處一昨朔日申の刻より折々地震仕第に強く相
成山鳴繁く有之及深更候程地震強く其度毎頻に普
賢山並右麓前山嶮岨成場所より地震毎に岩石砂利
等夥敷崩落申候同夜子の刻頃より翌二日夘の刻迄
別て地震烈敷城内外迄住居建具等も外れ候程之儀
に御座候同日夜中迄も無絶間時々強く震申候處今
朝よりは少少軽く相成り強き震も間遠に御座候就
右城内外平地一寸程つゝひゝれ候處有之破損所怪
我人等も御座候得も未委細の儀は相分不申候先此
段御届申上候以上。
二日諸公子皆出て守山林に移る此日より三日に至
り市民の負擔して南北に移るもの陸續として絶えず
或は一人留守するものあるも多くは擧家他に移りた
るを以て藩廰は四日より城下巡邏を設く。大日吏員
を派遣し、市民戸主の歸家を諭さしむ。而して公子
は尚森山にあり。
避難者の通行多ければ神代兩にては村境に晝夜馬
三四匹を置き通行人の用を辨じ、夜中は高張提燈を
出せり多比良西郷の兩村より之に倣ん事を出たれど
も藩廰は何等の故にや之を止めたりき。
三月十五日災を避て神代に在るもの三百三十六人の
多きに至る佐賀侯は特に吏員に命じて能く之を遇し
たりと云ふ。
藩廰の準備
藩廰は急に非常の準備を定め朔日の夜中は左の
如く役所に示せり。
一、 焼岩平地に出候ても燒留り不申候はゞ村番人
左の書付相渡すべき事
燒岩飛散候か又は山林等出候様子急變承り次第
村方へ有之船御城下へ乗回候手筈可致趣程罷認
可渡可。
一、 急變村々へ爲知相圖の事。
一、 人家近く燒寄候は近在の者爲立退可申事〓南
日筋
一、 燒場最寄の所へ山奉行手代番所申付差置急變
の様子に候はゞ御城内へ爲知指圖之事。
但山水出候はゞ早鐘二つ拍子燒石飛散候はゞ
三つ拍子。
一、 淨林寺迄燒來候はゞ御子様方御立退可被成事、
御供左之通(略之)
右上々様御立退山田村守山村に御定宿可置事
山田村御本陣は明置可申事右村濱邉へ御用心船寄
置可申事但村船にても宜敷候
一、 御○(一字脱)に有之米穀時節見計村方へ廻し可
申候
一、 上々様御立退に相成候はゞ兩勘定奉行一人づ
ゝ下燒召連御立退の村へ罷越御賄方萬端差引可
致事
一、 上々様御立退き相濟候はゞ引續き御手遠
具在庄屋に御預の事此儀前以致沙汰差圖次第持
人召連村役人參様手筈可致事右引續き御家中手
遠之道具村方へ可遣之又置處等可謂置事切府右
に准す
一、 御本丸に有之合藥遠在へ穴藏拵入置可申事急
變に有之候はゞ船乗寄沖中へ乘出し番船付可申
候合藥入候船に火入候儀無用可致事番船に武具
方役人之内爲可申候至て火急に候はゞ御堀へ沈
可申候
一、 淨林寺を過彌燒候はゞ手遠の御武具富岡へ
遣可申候長崎入用の分山田村御本陣へ可差置此
節御家中家内北目村方へ爲立退可申候多比良村
より先にて宿割可致事
一、宿々へ相渡扶持米渡方手筈の事勘定奉行下役人

一、 御家中切切府家内立退候はゞ無人の面々下臺
所にて仕出爲給可申候
一、 此節に至候はゞ御城内外晝夜騎馬にて廻可申
物頭(六人)夜中は拍子木爲打可申候在宿の者
拍子木合せ可申候明家の分は内に入見廻可申候
異變有之場所早拍子木打可申候
一、 在宿之面々居町限不斷見廻可申候鐵砲町右同

一、 大横目手透次第相廻リ可申候但騎馬徒士目付
致事
一、 表御門御馬廻一人交代同斷裏御門同斷
一、 大手御門物頭一組交代同斷
御取次(二人)是は他所より御使者參候はゞ一
人取次一人別人にて御返答可申遣候
一、 御本丸内老番頭見回可申候二の丸御門御城代
固可申候交代同断三の丸席ゞ御番平日之通出仕
の役人晝夜交代可相詰
一、 大横目三の丸御構内晝夜廻可申候徒士横目徒
士下横右同斷
一、 此節に至候はゞ御船々不殘浮可申候米鹽味噌
並薪之類續込置可申候
一、 御供船へ鐵砲十挺弓十張鎗十筋づゝ船印並幕
右之通入置可申候
一、 御召船御武器は御立退の節積込之事
一、 此節に或候はゞ急變無之候とも村々の船呼寄
御家中手廻の武器並粮米等積込置可申候、
一、 席限に組合木綿白小旗上に〓下に席名墨にて
書付二艘にても三四艘にても人數に應し組合置
大變に至候節御供にて無之面々其印を目當に乘
船可申候
一、 右之節より町方老人子供婦人之分爲立退可申
候。但南目筋
一、 一町づゝ辻番晝夜居町限廻候事
一、 蝋燭仕込方申付員數改預置可申候
一、 淨林寺本光寺の間中程位迄燒寄候はゞ本光寺
立退可有之事但北目筋寺方へ公儀御手前御位牌
長持御馬廻二人徒士二人持人右途中計
一、 鐵砲町近く燒寄候はゞ切府の面々御城内へ入
可申事此節御城内の面々親族方へ引移明屋敷へ
切府申入可申候尤引移之節門札不殘置引越候先
々へ名札出し可申候
一、 鐵砲町家屋迄燒寄候はゞ火筋の家々取崩可申
事人夫村方へ手當申付置勿論作事方役人諸職人
引受可申候御普請奉行(一人)騎馬にて差圖可
致事
右之人數手明候はゞ村方へ不歸普請方向小屋長
屋へ入置可申候米穀取集相渡町方より大釜取寄
相渡可申事右長屋へ餘り候はゞ御家中門長屋へ
入置可申候食事右小屋へ來り給可申事此圖人夫
御城内へ入候節白木綿四角切着物之背中に縫付
可申候
一、御曲輪へ燒掛り候節殿様御出馬可被遊事勿論水
火共に御船に御立退被遊候事三の丸より大手御
門迄御出馬被遊御見合候事此節御手回之外御供
立は追手御門外廣小路へ前居可申候夫より御乘
船被遊御城下之海上にて御船備可被遊事御白燒
落候はゞ直に御船にて山田村御本陣へ御移の事
御供左之通り(略之)
右之人數御乗船跡は御供船御召船之内乘込候積
船組可致置事
一、 追手御門御出拂之節貝吹可申候
一、 御立退跡之面々何れも三の丸に詰切可申候尤
御門固並廻の面々最初之通彌無油断廻り可申候
一、御跡殘之面々御本丸燒崩候はゞ追手外町家へ
引取可申候此節〓〓人夫へ度々御用の品爲持
可申候諸役人へ一人づゝ相渡難手放御用の品狭
箱に入爲持可申候
一、 御城内屋敷殘候内は町家より見廻可申候尤御
城内へ被居候内は可罷在候町家迄燒拂怪我危候
節に至候はゞ船に移可申候尤鐵鉋町へ燒掛候節
江戸長崎飛脚可出御城内に火入候節飛脚可遣御
立退に相成候節江戸長崎唐津へ飛脚違可申候
一、 不意の急變有之水の相圖相聞候はゞ殿様上々
様御本丸へ御移可被遊候此節御船倉より早速小
船持込御堀へ浮へ可申候燒岩飛散候相圖聞へ候
はゞ大手御門迄御立退被遊其上之様子次第御船
へ御移被遊候事
一、 御家中家内水火共に急變承候はゞ三の丸割塲
に集り其上にて方角を定め爲立退可申事
一 切符家内急變承候はゞ水夫共に最寄之次第在
かたへ立退可申候水勢強南北難立退候はゞ御城内
へ入可申候右體に急變に候はゞ御家中家内着物
裏返しに着用可申候切符家内は襷を掛可申候右
之支度を目當に御門出入可致事
右之趣内々相心得席々持前にて入用之儀調置可
申事右により三月令を發し各村の郷頭を召す千
餘艘の舟々は其村々の船印を翻し島原港に繋ぎし
かばさしも廣き港内も船にて埋る計なり。
地震に付て之災害地變
三月朔日以来地震にて島原城内外石垣石屏等の
破損少からず軒庇も多くは落ち壊れ城内鐘樓も石
垣崩れ一時報時を中止せり。
安德村の内及島原村今村各地裂け家傾く、初め
一二寸なりしも漸く廣く終に尺餘に至る。城外鐵
鉋町も亦同じ、物を〓すれば其音暫く聞ゆと云ふ
又城内東堀端より市街三會町に裂け清水湧出ず。
初めは大に困難せしも日を經て水勢稍減じ却て洗
濯の便を得又鐵鉋町中の丁の清水湧口は出水止り
中の丁新建邊は用水に困難せしに杉谷村杉山權現
の湧水は之に反して勢ひ強く廿年來見ざる所と云
ふ。
杉谷村折橋(をりはし)より六つ木へ亘り幅七
八寸長十町許地裂、折橋權嚴出水涸る。
三月八日夜半前山東南面島原村今村名の上字楠くす
平ひら長、百八十間、横二百間の地すれ落ち、其跡長
凡八九十間赤色を呈せり(一書日此日天氣和融突
然此變ありと或は云ふ激震ありしときなりしと後
説信なるか如し)
三月十四日深江村諸所崩る。
三月八日各村より報告したる破壊家屋死人は左
の如し。
潰家廿三軒、半潰家三十四軒、潰土藏三棟、半
潰土蔵一棟、馬屋小屋等半潰とも二百八十八棟壓
死二人、斃牛一頭。
諸家使者の來往
當庚の地震は九州各地に渉ると雖も其中心は島原
なり且つ京坂に於て流説種々既に山岳破裂して島原
市街は人類なきに至れりと迄に流言せり。是を以て
遠近の知音訪問頻繁なり。就中九州の諸侯は書札を
以て訪問し或は使者を派遣する等間日あるなし佐賀
侯は隣地なるを以て特に意を用ひ神代に數十艘の船
舶を繋ぎ番頭物頭等を派遣し以て非常に備ふ。
諸侯の使者來る時は町年寄の家に宿せしめ饗應接
待定例あり初の間は皆本例に依りしも瓦屋は震動殊
に強きを以て後には杉谷村庄屋又は島原村晴雲寺等
に宿せしめ僅に湯漬を以て之を饗したり。
或は諸侯の足輕訪問の書札を持して來り僅に其口
演を〓るや否激震鳴動ありしかは返書をも請はずし
て馳せ出たりと以て其激動を察すべし。
市民の歸家
三月朔日の激震にて市民四方に散亂せしも噴火は
依然として格別の異變もなく地震は全く止まざるも
已に數十日間地震中に生活したるなれば慣れて以て
翼とせず三月十七日諸公子も皆守山村より歸りけれ
ば市民も稍ゞ歸り來り三月下旬に至りては市街各戸
人影を見ざるなきに至る然れども未だ商業を営むに
至らざれば食料を得るの道なく飢餓に迫らんとする
者あり藩廰は米穀を給與して之を賑せり市民如此歸
來し地震も亦稍寛なるを以て藩廰は三月晦日より常
に復し諸士家に歸り各村の船舶も皆歸村を命せられ
一時平常に復したり。
前山の破裂並洪波
三月朔日激震の後毎日地震ありと雖も文前日の如
き激動あるにあらず度數も亦大に減じ已に數十日を
經るも格別の異變もあらざりければ此儘鎭靜して不
日平常に復するならんと人皆想像したりしに何ぞ量
らん前山俄然破裂せんとは此日暮後強烈なる地震二
度累ね至り百千の大雷一度に落つるか如く天地も崩
るゝ計の響ありければ諸人大に驚き家中は直に登城
したれども其何の變たるを知らす暫くして市街に號
哭叫喚の聲を聞く又門候は市街に朝光あり洪波の景
況なるを報ず已にして血に染み泥に塗れたる市民逃
げ來り洪波を報ず是に至て藩廰初めて洪波の災なる
事を知る家中の驚愕藩廰の混雑常ならず然れども末
だ前山の破裂は想像するものだになかりし。天漸く
曉に及て始めて其破裂の状を見諸人の驚愕豈に譬る
に物あらんや想ふに茫然自失したるなるべし。
前日迄海邊に屹立したる天狗山は東方半面破裂飛
散し其跡風屏を立てるが如く白赤の燒岩は絶望の状
を呈したり其の山麓の部落は數拾尺の地下となり島
原港は埋りて權現山に連續したる沙漠となり數十の
丘陵池沼は沙漠中に參差碁布し數十の島嶼は新に海
中に散布し、昨日の景況は夢と變し實に桑滄の變た
り。爾後地震ある毎に前山崩壊して其響大河の流る
ゝが如し。
洪波は三度來り第二の波再興し其方向は前山以北
は南より來り以南は北より來たりしと云ふ其高低は
〓書一ならず藩廰の報告書には平潮より高き事三拾
間乃至十九間とすれども大手門前の並木の枝に塵芥
掛たりと云へば大凡三十尺内外なるべし。又村尾祐
助は大手の石垣を攀ぢ城に登りしと云へば三十尺に
及ばざるが如く又田町門衛の燈火に等しかりしと云
へば二十尺内外ならん。又三會村景花園の樹木より
高かりしと云へば三十尺内外なるべし。三會村にて
は此時海中烈火の如く光りしを以て浪の華とも云ふ
べきものにやと云へりとぞ新になりたる丘陵中には
樹木の儘飛たるものありしと云ふ。
此夜安德村倒れ家より出火す人皆恐れて救ふ者な
し家に壓せられ土に埋りて未だ死に至らず他人の救
助を持つものにして燒死するもの多かりしなるべし
其の數を呼ぶの聲は之を耳にするも島原城よりは道
絶え、之を救ふに至らざりしと云ふ。
朔日の夕は愛津村も非常に高潮なりしと云ふ。
長崎は島原より廿日の路程を隔つ三月朔日爾来地
〓々震ひ其強き時は衆人皆出て庭園に避けたる事あ
り且海潮干滿度なく四月朔日の夕は非常に干退せり。
當時開人の説に前山の前海は必らず海底にも噴出
したるなるべしと洪浪の景況より察するも又然るが
如し又當時の著書に洪波の然氣を帯びたりし事を記
せり。
去年十月八日初て地震ありしより前山破裂迄貳百
一日、普賢噴火より百二日、穴迫噴火より八十七日
とす。
前山及島原市街の景況
前山の南峯天狗山は其東面破裂して高五百尺を減
じ破裂の跡は屏風を立たるか如くにして三ヶの坑口
を生じ砂礫崩れ來るも其當時は依然として減ぜざり
しと云ふ。破裂の面は六流の窪域を成し爾後地震風
雨海に山嶺山腹の砂礫雨水を共に此窪所を洗ひ
きに至れば左右の岸崩れて窪域を爲し變化常なし山
麓なる安德村北名島原村今村名は人畜共に埋められ
深く丘陵の下となれり。島原港は埋て沙漠となり。
安德村島原村の境は海面數十町を埋め海中新に數十
の嶋嶼を爲し地形大に變し、市街の家屋は概ね流亡
して腹の姿は影だにも止めざりき。大手以南は土砂
積て數尺以上丈餘に至り無數の丘陵高低相望み數十
の地名水光相映す。
市街當時の現況は新町掛古町掛は家屋悉く流亡し、
土砂梅りて道路宅地の区別なきに至れり。新町掛一
に有馬町と呼ぶ其町名は萬町、有馬町、網打場、新
町風呂屋町、石垣町、魚の棚、三軒屋、元船津、浦
田船津、有馬船津にして埋堆尤も深く船津、三軒屋
邊は十尺餘に及ぶと云ふ。古町掛は堀町、櫻町、上かみ
町、古町、白土町、白土船津、水頭。丹宮たんくもん小路、善
法寺小路、内堀、安養寺馬場等なり。三會 町掛は
宮の町庚申より東並に片町全部中町恵比須辻より南
上の町は有馬町境より南流亡し田町も中港より東流
亡す猛島社五社並淨源寺、安養寺、善法寺、崇台寺、
快光院櫻井寺、和光院光傳寺、護國寺、江東寺、金
藏院成就院叶寺、福壽院等皆流亡又は崩壊せり、善
法寺前より江東寺邊迄長十町幅三四町許水漲りて湖
水の状を爲す。
天狗山の麓より海面に至る埋沒の地丘陵の間は總
して池沼にして其池沼は該時海底より噴出したる跡
にや𦾔記中池沼の底時として湯の煮るび如き聲あり
て水面に泡沫を生ずる事あるを記せり。島原前海の
島嶼は多く此變に成るも當時其數を調査したものな
し之を九十九島と稱するは只其多きを以て名づけた
るなり。寛政年間幕府測量方伊能勘解由が測量〓に
載するものは其數五十九にして現今満潮の時露出す
る島嶼は僅に三十一とす此變に成りたる島嶼は皆砂
及び燒岩を以て組織せられたるものなるを以て潮汐
の爲に其脚を洗はれ漸次崩れて瀬となりしもの少な
からず現に島原安中兩村の海上に子の類の暗礁多し。
池沼の數亦記すものなし、今存するもの八所なり
此他池の稱を存するもの及び地形上曽て池沼たりし
を認め得べきもの亦多し。
海面の埋沒したる間數は今確と之を知る由なきも
測量圖に依て想像するに大凡四百八十間なり(白土
船津𦾔海岸より現今港町の海岸迄)亦新に成たり島
嶼の遠きものは甲嶋にして𦾔海岸よりは大凡千二百
間、港町海岸より七百廿五間計沖に在り(此嶋今は
なし)。
堀町の或る家にて井戸を穿ちしに四尺許にして一
面に石灰を以て塗りし所あり蓋し大變前宅地の地盤
なりしなるべし白土池は水深六尺既に元宅地の地盤
なりと云ふ。
災民の救護
港波の報あるや藩廰は士卒の別なく悉く十七歳以
上の男子を發して之が救護に從事せしむ。急激の際
にして器械等を準備するの隙もあらざれば銘々作事
方役所に至り鋸熊手等を持し大手門を出たるに市街
の家屋はありやなしや大手廣場には破壊の木材高く
積重なりて陵の如く並木の枝には家根葺茅等の掛る
を見る篝火を焚き煙火を持ちたれども、あやめも分
らぬ闇夜なれば市街の景況も見るを得ず只號泣の聲
を聞き上に居たるものを救ひたるのみ、夜明けて始め
て市街の景況を詳にするを得たれば人々奮つて破屋
木材の間を縦横し、土中の號聲を聞て之を救ひたり
一日の夜死傷の多さを聞くや藩廰は下臺所を以て醫
員の會所とし、大鍋大釜大藥罐の類を集めて藥を煎
じ花瓶植木鉢等にて膏薬を煉らして、大手門内、田
町門内其他の廣地に於て負傷物を治療せしめたり。
藩醫をのみにては不足なるを以て各邨の醫師三十餘
人を召集し公事方役所を以て其會所に充つ。又三之
澤村にも假屋を造り負傷者を救護せり(四月廿五日
現員負傷者四十人看護者二十人老幼五十人無難物四
十人)此時に當ては人各公事に奔走し家に歸るの暇
なければ藩廰此等の人及び罹災人に焚出を給した
り。
此時に際しては吏員は専ら負傷者の救護に勉めた
れば距離の者には或は周到ならざりしが如し故に村
落の親族に依らんとて行たるもの途中飢餓に迫り路
傍に倒れたるものありしと云ふ。
四月四日南有馬村在番井上段右衛門急に村船十艘
を以て來り上宮に指揮を乞ふ藩廰其注意を褒し斸時
金三百匹を賜ひ水夫毎人錢五百方を賞す。
市街災民の景況
四月朔日の變たるや實に一發破裂彈の偶中に異な
らず彼時遅く此時早く地震洪波一時に来りしなれば
我身すら之を〓くるの暇なし豈に其他を顧るの暇あ
らんや人々只夢のこことなりしと云ふ。
家屋に壓され木材に壓され或は半身土中に埋りな
がら不測の命を助るものあれども多くは負傷し中に
は手を折り足を挫きたる等目も當られざる者あり此
等多くは後に死したりしと云ふ。
生殘りし者も子を尋ね子は親を尋ねて東西に馳廻
り死屍を物色する景況は言語筆墨の能く盡すべきに
あらず且其死屍を得たるは不幸中の幸にして之をも
得ざる者さへ多く日を經たるの後は容貌變し容易に
認め得べきに非ざれば目前之を見ながら他人の手に
觸れしめたるもの多かりしなるべし親子兄弟離散の
状は得も言はざる景況なりし。
善法寺邊に倒れ居たる廿四五歳の男子は石にや打
付けん一服は飛出て眼球下り肩は薪にて表裏に貫き
目も當られざる景況なり之をも大手に連行しに請て
煙草を〓し醫者に謂て曰く迚も永ふべき今にもあら
ず願くは肩の薪を拔て暫しなりとも苦痛を除きてよ
と請ひたり其薪は折れ挫け居たれば容易の事ならざ
るも百方苦心して之を拔きしに〓痛色もなく暫くあ
りて死せしとぞ。
或人地震あるや否家を馳せ出たる途端に波の爲め
に壓され前後を覺えず鶏鳴を耳にし始めて我に歸り
たるに身は木材茅藁等の間に在りて如何ともするを
得ず聲を限りに呼び叫べとも來り助けるものもなく
氣力漸く衰へ聲も次第に弱りたれば悲しみ歎きて既
に死を期せしに幸に人の聞く所となり救ひ出された
り其跡を見るに一丈五六尺許埋り居たりとぞ。又一
人は洪波と聞くや直に馳出たるに大手橋上にて波に
壓せられ前後不覺なりしに我に歸て眼を開けば身に
已に安德村枯木崎の海岸に在りしと大手より一里餘
の所なり又種子を抱きて海岸に漂着したる人あり諸
人集て之を助けしに様子は已に死し居れり其身も足
指一本を打切居りしを知らざりしとぞ。
猛島社を宮入江河内家族十人の内僅に三人助命せ
り初め山海鳴動して一旦止み續て一層甚だしく天地
も崩るゝ許りなりしかは刀を取り〓所に走り行きし
に既に海水覆ひ至り家は見る間に押潰され身は波に
壓せられ前後不覚となり足の冷るを覚え眼を開けば
身を砂中に埋り届たりしも自ら出て城にはい登りし
と其弟新治は屋敷より十五町計陸地に押上けられて
助命せり又女某は母と共に門前に逃出る途端波に引
かれうつゝの中藪の内に止りたれども如何なしけん
足立たず漸く人に助けられたり。
八百吉藏小兒を携て歩行中波に引かれ一旦田町門
外に打揚げられ再び波に引かれ安德村枯木崎に止り
助命せり。
或る婦人小兒を携て猛島社へ詣し此難に遭ひ小兒
を負ひて走りしに洪波に打倒され大石來りて小兒を
打去りたるも其身を幸にして十四五町許の地へ打上
げられ助命せり。
家中村尾祐助は大手並木の本にして波に打倒され
起上らんとすれども盤石にて壓せらるゝが如くなり
しに再び波來りて浮上り大手の石垣を攀て門内に逃
入たり潮は僅に深さ三尺許の如く覺えしに衣装帶よ
り下は寸裂したり總て此災に逢たる者は衣装皆裂て
或は裸體に至りしもありと云ふ。
善法寺は本堂庫裏共に地震の爲めに倒れ柱持は大
材の間に挟まれて未だ息絶えず行人に助を乞へり五
六人にて手を出すべき様なし三日に至り多勢行き
たれども既に死し居れり此時布袋屋幸右衛又災に罹
り妻子を尋ねて善法寺前を置く住持之にも助乞へり
己れも最愛の妻子を尋る時にして殊に一人なれけれ
ば亦之に應ぜざりし後其死を聞き又巳れが妻子も尋
ね得ざりければ悲歎の餘り筑後善導寺に入り總とな
りしとぞ。
家中山内源兵衛は白土町にて地震に逢ひ走出した
るに跡より山の如きもの飛が如くに追來りければ息
を限りに走りしに二十間許跡なる乙名の家壊るゝ音
を聞けり而して斷にして潮先より二三間も逃延得た
りと。
上の原に菜種番小屋あり此夕地震烈しく屋内に倒
れ動き得ざりしに泣さけぶ聲四方に聞へ生たる心地
もなかりし夜四つ半時頃に至り少しく靜りたる様子
故暗き中に見渡したれば山の様子大に變り畑の物は
依然たれども地位は變したる様に見え又間近に波の
音さへ聞へたり翌日に至れば家屋とも十五六町許海
邊に押出され居れり。
城外田町は松平板倉兩家の陪臣住居せり一家皆流
れて婦人一人殘れるあり其言に此時非常之者に驚き
家人皆屋外に走せ出たり巳れは愛猫を携へんとて再
び家に入る途端激浪覆來りて家と共に押流され海邊
の水田に止り幸に萬死を免れたるも他の家人は皆死
失せり此女長壽にて近年迄世に在り常に人に語るや
う當時は身一つの外親類の頼るべきなく家財蕩盡し
て途方に暮れ死もたるこそ贈りけんと思ひたりしと。
清水郷松本藤藏田町北野定大洪波に漂され第三の
波にて諫早門外の田地に止り助命せり二人云ふ潮水
熱して湯の如く覺えたりと。
古町茂兵衛は老人にて作業を爲すを得ず毎夕出
て麥畑の番を爲せり是を以て獨り命を全くしたり
此地鐵鉋町に行き居りて恙なき者あり或は城内島
原村鐵鉋町より市街に來り居て此災に罹りたる者
共少からずと。
安養寺の新發意龍珠は此時市内祟臺寺に在り地
震に驚き庭上に走り出れば水滴面を打て小石を投
ずるが如し已に波底に沈みしが一旦岩礁の間に止
り再び濫觴して麥圃に止り水膝に及ばず火先を認
て來り民家に至り盡三郎山に避く俄に全身の痛を
覚え熱を發す。夜半の後南方より火雨來ると呼ぶ
者あり悲泣の聲大に起る是れ安德村潰家の出火な
り後弟獅弦と草庵を𦾔地に結ぶ安冷に至るも覆ふ
べき衾なし檀家其衾絹一具を贈る兄弟同衾して僅
に其冬を過せりと云ふ。
片町の行商庄平は酒を被りて醉臥し洪波の其身
を漂すと知らず夜半眠覺れば獨り田圃に臥す時に
城上急鐘頻に鳴り灯燈屋の如く號泣の聲大に聞ゆ
初めは其身已に死して閻魔の廰に至りしかと疑ひ
しと其地は諫早門外なりしと云ふ。
此日第一の洪波迄は島原城大手門未だ銷ざす此
時城に入りしものは皆悉なかりしも第二の波には
城門既に鎖したれば城を差して逃げ來りし者は皆
大手門前に死せりと云ふ。
慈善者
島原村久左衛門妻同村清水郷六左衛門妻及び三會
町澁江源太夫寡婦は父母に離れ依るべなき幼児を救
ひ乳を與へて撫育し島原村泥川の石工清六も亦能く
負傷者の看護を爲し三會町孫八は新町吉野屋九兵衛
の寡婦が高年にして獨り殘り撫育すべきものなきを
憫み之を自家に救護し島原村柏野名富右衛門は古町
茂兵衛が老人にして一人殘り身の頼るべなきを憫み
之を自家に養ひ有田邨蒲河名伊三郎は裸體なる幼兒
を見て己の衣を脱して之を與へ且能く注意救護した
り藩廰は此者等に米銭を與へ之を褒賞せり。
天草郡大矢野島上村漁人其の子七八歳なる者其海
岸に死體の漂着多さを見て測隠の情を起し頻に之を
埋葬せんことを請へり村民之に感奮し先を爭って死
體の埋葬に從事し資産あるものは埋葬の諸具を出し
或は人を雇て助力す近村亦其義に感じ終に天草郡各
村爭て之に從事するに至る。
幕府への申報
藩廰は四月二日別便を以て地震の景況を左の如く
幕府に報告せり。
私在所肥前國島原先達て御届申上候通三月朔日よ
りの地震鳴動追々相鎭候處昨朔日酉の刻過至つて強
き地震仕城郭に近い前山と申高山頂上より根方迄一
時に割海中に崩入山水押出し城下海より高波打上一
つに相成町家悉く並近在共に暫時に押流し怪我人數
相知れ不申候城下住居の者過半即死仕候様に御座候
山崩海中へ押出し小山所々に數々出來仕候只今は城
内別條無御座候。
四月十四日江戸邸留守居より老中越中守へ出たる景況
書は左の如し。
去る朔日酉の刻過強き地震兩度仕城郭近き前山と
申高山頂上より根方迄一時に割崩山水押出し城下海
より高波打上け山水一つに相成城下町家悉く暫時に
押流し、泥砂海中に押出し、所々に小山數々出來、
城中より南凡十町程の處高十間程土手の様に相成長
く海中に押出し、凡一里程と相見申候南北にて十ヶ
村程漬付人家の分悉く流失仕候、右汐先に當候立木
一文餘も回り候程の大木中程よりねぢ切れ或は根拔
に相成申候町在流失の家へ住居仕候男女二萬七千餘
の内五分通も在命仕候や右在命の者も多く怪我人に
て養生可相届哉難計御座候且又海邊へ有之候小島三
ヶ所押流し候此内へ東照宮御宮並鎮守社其外御宮刑
當和光院且町家九ヶ寺程流失仕出家僅に五六人程も
存命仕候様子に御座候猶又城下濱手に有之候番所十
ヶ所番人共に流失仕候且船屋押流し、船不殘相見不
申候舟手の者妻子共に三百餘人居宅共流失行衛〓
分不申候右の内六人程も助命仕候其外小役人妻子
共凡五十人程流失仕候右大變後も前山不絶鳴動強
く泥砂利崩落候町家其外押流候跡地面相分不申候
洗崩し潮入に相成候場所又は小山様に相成地低の
所は沼の様に相成或は湖水に相成申候右に付追手
門通路相成不申候委細の儀は相分不申候に付追て
御届等の説は増減も可有御座奉存候以上。
四月下旬江戸留守居は本國の報知を得て老中及親戚
諸侯へ左の口上書を出したり。
肥前島原異變之儀今以て相鎭り不申候前山日々
崩落尤強弱は御座候と雖も割末の所不絶吹出し山
々の間深田の樣に相成煎音の樣強相聞申候右割口
の中通泥土吹出候勢相増申候一體地中之様子一通
ならず相見へ此上の大變何分無心元奉存候前山割
末に上の原と申所にて七ヶ所の井戸の水わき出し
餘程強き水勢に有之其邊沼の樣に相成申候且又普
賢山穴迫谷峰の窪等の燒場所段々相鎭申候方に御
座候處又候烈敷相成一日に二三十間程づゝ燒下り
次第に城下に近く相成申候右之様子にては中々燒
留り可申とも相見不申候右體にては城郭に燒掛り
候歟又は城の北を燒拔候歟海へ出候儀難計御座候
左様に相成候へば城内南北陸地の通路絶可申奉存
候右之通には御座候へとも此彼胃變之儀も無御座
鎭り可申儀も難計奉存候。
領主之避難官衙之移轉
四月朔日の變後激震尚ほ頻りに至り噴火亦未だ
減ぜず人々再變を恐る領主松平主殿頭は二日巳刻
頃城を出て守山村に避け庄屋の家に居る此日や大
變の翌日にして人々危懼薄氷を踏むの思を爲すの
時なれば人夫を近村に召せども山林に逃避して應
するものなし村吏百方盡力し僅に事を了せりと云
ふ。
四月五日領主は守山より書を以て諸役所を移轉
し並に家中の避去を命じ北方各村に令し其の假居
食料等の準備を爲さしむ然るに家中は本城を離る
ゝは武門の恥る所且幕府の譴責を慮り死を決して
城に留ん事を請ひしに六日再諭あり終四月八日を
以て諸役所を三會村別〓景花園に移し家中は皆北
方各村に避去す島原城は留守の城代番頭等式服騎
馬にて兵器を執り畫内外を巡警す其狀戰備に異ら
ず家中の二三男或は浪人等請て之に加はるものあ
り後皆仕籍に列す。此時に當てや晝夜股引を穿ち
草鞋を脱せざりしかば虱と蚊との爲めに困りしと
云ふ。
四月八日馬回川井治太夫自殺す初め領主の城を
出るに當てや治太夫之を諫めて用ひられぬ加ふる
に宮崎を移轉し家中又城を去るを以て感慨之餘此
日櫻門の當直所に屠腹す當時の記錄に領主仁慈の
意に出たるに恥ぢたりとす恙し其守城を棄て他に
移るは武門の深く恥とする所なるを以て憤〓の極
終此に至りしなるべし。
川井の屠腹せしや家中宿に幕府の譴責を怖るも
のあり是を以て藩廰は曽て幕府へ出したる家中退
避の上申書を一般に示し以て人心を安んぜり。
家中の避去
四月八日諸官衙を三會村に移すや家中は適宜各
村に避去す、初め領主の移轉するや家族は適宜北
方の各村に移轉す、其人馬は島原〓谷三會の各邨
より雇入することゝなりしも此時に當て心大變の
後人夫牛馬の雇入に應ずるもの少なく適々應する
ものあるも賃錢非實に騰貴す(湯江邨まで二里半
の所駕籠一挺錢二貫文馬一匹一貫二百文に當る)
又他の各邨より雇入せんとするも島原に出るは死
地に入るの恩を爲すの時にして領主の移轉にさへ
應せず況んや其他の私事に於てをや是を以て早く
移らんとすれば老幼疾病者の移轉尤困難なり駕籠
はあれども舁夫なく老幼を見へば物品も携るを得
ず人夫の出るを得んか領主を始め諸役所迄も移轉
したることなれば今にも再び變動あるが如き思を
爲し各先を爭て移轉せんとす。其混雜名状すべか
らず。病人の如きは簾又は戸板を以て贈るに至れ
りと云ふ。如ふるに戸主は朔日に登城したる儘未
だ歸らざるに家族は已に移りし故戸主と家族とは
互に其所在を尋ね得ざるものありしとぞ。
假居僅に定る※味噌は藩廰より口數を量て給與
するを以て用を缺かずと雖ども其他日常の物品は
皆神代に仰がざるを得ず、佐賀侯特別の注意あり
と雖ども神代は元来人家少なく島原の家中市民等
の需要を辨すべきにあらず、人情の常として地震
の災も遠く住居も定りたれば日常の不自由に堪ゆ
る能はず各人夫を雇て島原の居宅より衣類家具物
品等を運搬するに至れり。
四月廿三日藩廰は家中家族等の飯米として米二
千二百俵を北方各村に送りたり。
災場の掃除
四月二日藩廰は急に令を下し領内各村の人夫を
發し市街の清潔に着手し死屍を埋め土石を除き道
路を通す翌三日に至り輕囚をも使役せり四月も中
旬となりぬ温暖の候なれば未だ葬ざるの死屍は腐
敗して悪臭を發し人夫之に從事するを厭ひければ
賃銭を増して酒をも給せり。淨源寺安養寺の境内
其他數所に大穴を穿ちて死屍を埋む之を百人塚と
稱す。其實毎坑十人許を埋むと云ふ。當時市街〓
狗多くして死屍を喰ふ夜に入て歩行するもの或は
犬に噛まる。人夫等の困難は犬と悪臭なりしと。
死屍を埋葬する衣服棺槨等の給すべきにあらざ
れば只大坑中に集めて之を埋るのみ後に至れば嵩
して手觸るべからず皆鳶口等を以て之を引きて坑
に容れしと云ふ。
宅地の跡を穿ち金銀器材を得るものあり又流れ
殘りの空屋に入りて衣類を盗む者あり或は死屍の
附滞せる金銀を得る者等ありて昔日赤貧なりし者
俄に富者となりたるあり各村の人夫も赤金銀を得
たるもの多しと云へり。
四月十九日領主は城内外を巡視し即日守山に歸
る。善奉寺前より江東寺趾に至り一回の湖水とな
り水漫々として流るべき所なし明年春藩廰は各村
の人夫一萬人を發し之を決したれども上原各地の
出水強くして一の池を爲せり。是白土池にして其
決したる川流を音無川とす此時人夫は各村の旗章
を〓し一樣の手拭などを冠りたれば見物人も多く
大變後始めての賑ひなりしと云ふ。
領内の警備
城下流れ殘りの家には家財衣類も其儘に捨置た
れば盗賊横行し村落は種々の流説を爲し人民を恐
嚇し利益を謀る者あり藩廰は吏員を各所に分派し
之を逮捕せしめたり。
近國諸侯の音信
近國諸侯は特に使者を發し各其土宜を贈れり佐
賀侯は雜貨米穀鹽味噌酒醤等を贈り又島原人民の
避て其領内神代に來る者に食料を給與したり。大
村侯は雜貨油醤筑前侯は米千俵を贈り五島侯唐津
侯等皆各贈る所あり其他使者の來住甚だ多し。
大村侯は特に大村町役人に命じ、拾七八駄の日
用諸品を送らしむ領主の命を以て悉く之を買上げ
守山村にて低價を以て之を賣らしむ。
水早の變
中太場村は三月の地震以後水源枯渇して押秧す
るを得ず苗代亦枯死し日常の用水も谷を越えて沒
むに至れり。
前山の東方四月朔日埋設したる新山の地に清水
湧出し又上の原の井戸は變俄に水溢れ其近方は
數所より清水涌出し白土池となる島原市中にも萬
町堀町櫻町新町等各地涌水あり上の原並萬町の水
は四時深々として絶えず何れも數萬人の用水に供
するに足れり。
明年大雨洪水あり中木場村安德村其害を蒙り安
德村南名山崩れて人家を埋沒す。
後廿九年文政三年辰年深江村大崩、山々崩れ洪
水深江の田圃を害す此時小地獄の地亦洪水ありて
二戸を流し浴場を埋む此邊の土地は皆燒岩より成
る。
四月朔日以後の地變
四月六日、海鳴る安德村海面能宮瀬より焰硝車
下邊波高し。
十六日、北串山村報ず朔日地震後一時出水増し
たるに漸次減水し即今押挟ヒ水の否定を惑ずと各
村亦然り。
廿參日、北方海鳴る南より北三通過ごす。
廿五日、侯吏報ず朔日以後穴迫の噴火稍靜りし
に本日再び勢を増し十二間(七十二尺)去噴下り
且燒岩突起せりと。
九月九日正午地震中騎馬村地裂け逐日廣し安德
村亦同じ。
十四日島原村萩原名宅地井戸方四間(二十四尺)
地深く陥る。
廿九日中騎馬村地裂く。
六月朔日正午過普賢噴火勢を増し千本木邊灰降
る吏員報ず大小の石を飛ばし勢甚だ盛なりと四日
再び検するに四十間(二百四十尺)内に近づくを
得ず而して鳴動強く四十間外尚人語を辨せす。
十三日中木場村所々地裂く一所幅八寸長十五町庄
屋宅地内幅五六寸乃至六七尺東西に裂けて長し。
七月二日午刻少震前山破裂跡中部より崩る。
三日未刻穴迫谷少崩、申割大崩。
五日午半刻地震あり前山及燒岩大崩。
六日曉燒岩大崩四度未刻地震前山大崩二度。
八日巳刻地震前山大崩。
廿八日普賢山鳴動強く噴火坑南に廣まり蜂の窪
穴迫噴煙勢強し前山は昨日午時より崩れて止ま
ず。後三四年を經て普賢再び噴火す。
領主之卒去
四月廿七日領主松平主殿頭忠恕守山村に卒す行
年五十一五月十四日喪を發し六月十七日島原村本
光寺に火葬し廿六日白骨を參河深溝に送り本光寺
に納む忠恕守山村に卒す行年五十一五月十四日喪
を發し六月十七日島原村本光寺に火葬し廿錄日白
骨を參河深溝に送り本光寺に納む忠恕は安永四年
下野宇都宮より轉し七萬石を領、本年四月地震再
家心を勞すること少からず守山に避るに及び家中
は竊に幕府の其居城を去りしを責ん事を恐れ種々
議する所あり川井某は爲めに屠原するに至れり。
殊に災害の餘末に修理を加へず地震尚ほ未だ止ま
ず四月十九日城内を巡視するや大牛門前に至り市
街の災場を見て渓下り左右能く仰ぎ視るものなし
翌日俄に病を發して危篤なり或は云ふ幕府の譴責
を恐れて自殺せりと。佐賀侯其病急なるを聞き特
に醫員を遣りて之を訪はしむ危篤なりとて診せし
めず幕府二千兩を貸與するの報も己に及ばず家中
其死の早きを惜む其危篤の報あるや世子主計頭ば
幕府侍醫村井良策を請ひ五月廿一日江戸を發した
るも廿四日三島驛にて訃音に接し直に江戸に歸り
喪を執る。
守山村庄屋日記に云ふ廿日少恙醫員交々伺候又
廿二日病重く公子等別家に移る廿五日危篤三會在
勉の家中急馬急駕にて伺候す廿六日島原三會より
重役伺候し終夜退かず且家中へ危篤を報ず廿七日
臨終に卒す。
施餓鬼の執行
昨日の繁華は夢と消え目に見る者は前山の崩れ
し跡と茫漠たる洪波の跡のみにして暫しが程は風
の聲波の音にも驚きけるが日を經るに随ひ亡き人
に哀を催し朝夕に涙の乾く暇もなし〓の此身もい
ぬ人こそなかりける。清雲寺の住寺覺昭は此機に
乘じ溺死萬靈供養の爲め施餓鬼の事を思立ち有縁
無縁を説き勸めければ今は何をか猶豫すべき生殘
りし人々は喜び勇みて棄財せり。藩廰亦其意を美
とし萬町の宅地跡に假屋を設け五六月の交に於て
初めて流死の靈を吊ひけり。
七月十五日の盆祭に當り藩廰は其菩提寺なる本
光寺に命じ片町にて施餓鬼を爲さしめ而して城下
に二ヶ所安德村に二ヶ所其他死屍漂着の多かりし
三會村多比良村布津村隈田村南有馬村等九ヶ所へ
流死菩提供養の石塔を建其村々の寺院へ白銀を寄
し永く其醫を弔はしむ又城下船倉の地に回向堂を
造り明年四月朔日本光寺に命じ六地蔵鬼を爲さし
む今は去年に引替て市街も漸く住民あるに至りけ
れば衆人群集参詣していと賑はしかりしとぞ。
家中之歸城
四月朔日の事變により一時領主を始め家中家族
共北方各村に退避せしに地震は日に減じ山々も格
別の變動なく時は五月の雨振に際し打漲りたる村
家の〓領主は卒去せらるゝ等にて何となくあじき
なき恩を爲しそゞろに故郷戀しくこそはなりにげ
る。諸吏員種々場議の後終に城下に歸るべきに決
し、五月十九日先づ景花園の諸役所を島原城内に
領したり諸吏は各村より通勤するも便宜に任ずる
との事なれども城郭部門の戒嚴も解けたれば數人
も争て各故家に歸りける家中は歸着したれども城
は未だ家屋なく野菜豆腐に至る迄之を商ふ家もな
し諸人の不自由さこそと思ひやられたり。藩廰
依ることなれば家中のみの需用にも足らばこそ三
四日前より約束するにあらざれば之をだも得るこ
と能はず、海邊なれども大變以後は渓者なく加ふ
るに鯛の腹中に人の指頭耳朶などありしと或は海
邊に漂着したる死屍に付着し居れる〓をとりて賣
りし等の風貌ありければ諸人生魚を食するを嫌ひ
一層食料に不足を來せりといふ。
松平忠馮の家督相續
七月十五日忌も了りければ世子主計頭忠馮は故
忠馮の𦾔價の賜ひたり初め忠恕の卒するや家中は
憂慮指く能はず親族連署家督相續の願書を幕府に
呈す。老中之を受納せしかば稍心を安す是に至り
て家督相續の命あり。家中始めて愁眉を開くと云
ふ。やがて主殿頭を改め翌年五月初めて島原城に
入りたり今は地震も止み噴火も鎭り城下も稍人家
ありて假𦾔の緒を爲したりき。
幕府の貸與
四月朔日の變幕府に達するや廿三日特志を以て
金二千兩を貸與したり。
領分島原城郭近所山崩並高波等にて町在とも
人家も流失怪我人も不少趣きに相聞候夫々手當
可被申付候へども損所も夥敷様子に付金二千兩
當分爲手當拜借被仰付候御金請取方並上納の義
は御勘定奉行より可相達候間可被談候。
被害調査書を出るや九月四日更に金一萬兩を貸與
したり其達書は左の如し。
其方領分當四月山崩並高波にて數ヶ所及荒廢
船付其外も亡所に相成殊に人民の死亡多分の事
と相聞へ實に稀なる災害の様子に候手當諸普請
萬端之儀家督始めの儀にも候へば格別可爲難儀
被思召候依之金一萬兩拜借被仰付候全體領分損
亡等に付いては都て拜借被仰付候筋無之候併格
別の變災に相聞候間先達て亡乳へ當分の御手當
も被成下候事に候へども城下再興同様大造にも
相聞家柄の儀にも有之に付旁々格別の思召を以
尚又拜借被仰付候に候間可得其意候此度の拜借
金返納の儀は來る丑年より十ヶ年賦に上納可被
致候。
災後藩廰の注意
當時藩廰が注意盡力したることは諸書に散見す
るも其經費の一事に至りては明記するものなし今
より推想するに驚くべき多額の金額を費したるべ
し。災民を救療し食料を給したること、家中家族
等に數日間食料を給したること、市街の死屍を埋
葬し道路を開通したること、土地を決したること、
及び城下に家屋を新築するものに坪數に感じて金
員に付與し、各村農民漁夫之其業具も失したる者
に金員を付與し、各村農民漁夫之其業具を失した
る者に金員を付與したること等は記籍中散見する
ものなり。此他道路堤防の修築、城郭の修繕、船
船の製造等尤多費を要したるべし。現今新山の公
道兩側に生茂する並木は大なるもの徑二三尺許、
想ふに當時直に道路並木の事に迄着手したるや疑
なし。權現山の如き在來の松樹は皆折傷したるを
以て種子を他所に取り之を植たりと云ふ。七萬石
にして如此の大變に遭遇し能く之を調査したるも
のは經済の道其方法を得たりと云ふべし、或は云
ふ大阪の豪商より金十八萬兩を借りたりと。
領主〓て各村に令し非常準備の爲め貯蔵を爲さ
しめ藩廰亦其半額を加へたり今度の變災に保る救
助多くは之を以てせりと。
損害の概數
損害を蒙る村々左の如し。
西郷村 海邊人家城下より北方被害此村に止る 土黒村 海邊人家
多比良村 海邊 湯江村 海邊
大野村 海邊人家 東空閑村 海邊人家
三之澤村 海邊人家 三會村 海邊人家
杉谷村 海邊 島原村 今村各不殘山に埋る其他海邊
安德村 此名不殘山に埋る其他海邊 中木場村 山手人家山に埋る
深江村 海邊人家 布津村 海邊人家
堂崎村 海邊人家 有田村 海邊人家
町村 海邊人家 隈田村 海邊人家
北有馬村 海邊人家 南有馬村 海邊人家南方被害此村大江崎に止る
外に神代領西村東村あり亦多少損害を蒙るも
其景況詳ならず
損害の數は八月十二日付を以て藩廰より幕府へ報
告したる書面に詳なり之を左に掲ぐ。
先達て御届申上候私在所肥前國島原去る正月
十八日普賢山泥土吹出二月上旬右山續同様吹出
其後火氣に相成り次第に燒下り鳴動強く三月朔
日より地震日夜震續四月朔日酉の刻過城近き前
山割崩れ山水押出し城下海より高波打上右地震
山水高波にて破損所流失流死覺。
本丸角平路瓦一ヶ所 同平瓦落但長百廿間
二ノ丸二階櫓瓦落一ヶ所 同石火矢櫓瓦落一ヶ所
同二階門矢狭間腰瓦落一ヶ所 同塀潰一ヶ所但長一間
塀瓦落長二十間半、所々 二ノ丸石垣崩高四間幅五間半一ヶ所
本丸二ノ丸塀前石垣崩二ヶ所内 一所 高四間横八間半一所 高四間横九間半
二ノ丸脇塀潰二ヶ所一所 八間一所 一間半米蔵破損二棟
時鐘撞所石垣崩一ヶ所但高二間半横四間外曲輪平櫓破損九ヶ所
同塀潰四ヶ所内一所一間半 一所二間一所四間 一所四間半同塀瓦落所々但長
三十間より九間迄
同内側土手留石垣一ヶ所 但高一間横二間 城内侍屋敷堀潰
六十八ヶ所
城外小役人屋圍石垣崩廿二ヶ所
御高札場流失九ヶ所、但三ヶ所御高札共に流失、
内七ヶ所在二ヶ所町
村番所流失九ヶ所 遠見番所流失三ヶ所
船家流失十一棟 船具土蔵流失二棟
城下小役人家流失七軒 同小役人長家流失
三軒
船手之者居所流失四十二軒 船方會所船手之者
長屋流失十一棟
町在本家流失三千二百八十四軒内千六百十九軒 在千六百六十五軒 町 郷藏流失
三十一棟
在方厩灰小屋流失、千四百八十九軒 町土蔵流失二百七
十五棟
町方厩灰小屋流失百八十軒 町番所流失十二ヶ所
堂流失六ヶ所内四ヶ所 在二ヶ所 町 社流失十五ヶ所 内十ヶ所 在五ヶ所 町
拜殿流失八ヶ所 内四ヶ所 在四ヶ所 町 鳥居流失十二基 内
石鳥居十基木鳥居二基但七基 在五基 町
橋流失五十六ヶ所 内石橋三十四ヶ所土橋二十二ヶ所但五十二ヶ所 在四ヶ所 町
在方潰家焼失二十軒 同潰灰小屋焼失廿
五軒
四拾艘
在町船流失 但七反帆より二反帆迄五百四十二艘内三百二十二艘 在二百二十艘 町島崩四ヶ所
往還道筋損所 但牛馬通路成兼五千二百七十間
波除石垣損所 但一丈五尺より三尺迄千二百間
田畑圍川潮除石垣損所一萬千五百十八間但一丈一尺より二尺迄
水車流失六ヶ所 並木土手崩三千二百十
五間
本田二百三十二町三反廿一歩内百七十八町一反五畝廿一歩 當荒五十四町一反五畝歩 永荒
新田廿七町二反五畝三歩内十七町四反六畝十五歩 當荒九町七反八畝歩 永荒
本畑九十五町二反四畝廿一歩内廿一町一反七畝九歩 當荒六十四町七畝十二歩 永荒
新畑廿四町八反三畝六歩内九反三畝六歩 當荒廿三町九反歩 永荒
濱鹽廿二町三反二畝十二歩内七町四反六畝廿一歩 當荒十四町八反五畝廿一歩 永荒
鹽濱石垣土手崩五千八百十四間但高一間半より三尺迄
扶持人流死五百七十六人但小役人船手妻子並 足軽小者共内 男二百九十一人女二百八十五人
町在流死人八千八百三十五人 内男四千十六人女四千八百十七人但三千五百八十四人 在五千二百五十一人 町
出家流死三十九人 山口流死十人
社人流死三人 盲僧流死四人
怪我人七百七人 内男三百六十人女三百四十七人此内百六人養生不相叶相果但男五十三人女五十三人
穢多流死六十七人 内男廿六人女四十一人 斃牛馬四百九
十六匹内馬四百六十九匹牛廿七匹
在方浦方掛旅船流失五十艘餘 但町方へ繋旅船有
之候得共員數相知不申候
在方旅人船乘共流死凡二百八十人程 但町方
掛り旅人船乘とも流死有之候へども人數相知不申

在町高波打上候里數凡十三里四十八町三十九間
但五十丁一里但幅七百廿間より五十三間迄汐高平汐より三十間より十九間迄
右之通に御座候此談御届申上候且損亡高之儀は収
納之上追て御届申上候以上。
天草郡の被害
肥前國天草郡は島原領對岸の地なり。四月一日
前山破裂の時激波十八村の海岸を洗ひ人畜死傷少
からず該部は當時島原藩の預り地なりければ災民
に一時の救助を爲したり。四月二十三日幕府金四
百兩を貸與し又施餓鬼料として別に銀十町を附與
し流死の最多き大矢野島遍照院に於て執行せしむ
島原領主も亦別に銀五枚を大浦村九品寺に寄附し
施餓鬼を爲さしめたり。
大矢野島は死屍の漂着殊に多く村民小兒の慈善
心に感動し各奮て之を埋葬せり。
初め樽或は桶等に入れ裸體なる者には古衣を覆
ひたりしも日を逐て漂着多く終に樽衣共に給せ
ざるに至りければ後には莚に包み損害の該數は
左の如し。
被害十八ヶ村海邊 流家三百七十三軒
損家三百五十二軒 流廐小屋四百三十九軒
溺死人三百四十三人内男百四十八人女四百九十五人
流死牛馬百九疋内牛四十四疋馬六十五疋
田畑六十五町八反一畝歩程
苗代四十九町五反歩程 地船六十七艘
高札場三ヶ所 唐羊畑四十町六反五畝歩

見取田畑十五町五反歩程 郷藏二ヶ所
鹽六千六百十石程
鹽漬十六ヶ所反別二十町七反四畝歩
刈干置候大麥五百六十九石程
土橋十一ヶ所
平潮に二丈五尺程より十五丈位迄増
熊本領之被害
両肥沿岸被害地之圖〓
肥前國宇部飽田郡玉名郡は島原對岸の地にして
激浪の害沼海數十里に亘り田園の荒廢島原領に過
ぎたり當時島原大變肥後難題の諺あり。
正月十八日地震ありてより晝夜斷へず五六度よ
り數十度に至る。三郡の人民は對岸島原の地に山
火災あらば之を救はんとて船の準備を爲したれど
も誰ありて洪波のことを慮るものはなかりける。
三月下旬に至れば地震も止み温泉岳も済み渡りて
見えければ稍心を安しけるに、四月朔日の夜黄昏
に及ぶ頃西の方雷霆の如く鳴り暫くにして洪波至
る速く走りたる者は皆命を全ふしたれども、稍富
たる者は家財器物の爲め躊躇し命を失ひたる者多
しと云ふ。
飽田郡二町村川口に繋げる千六百石積三十二及
帆の船は大なる堤塘を打越し海岸より數百間なる
方大村に押し上げたり、船に在るものも翌朝に至
り其陸地にあるを知りしと云ふ。
玉名郡清源寺村の西川又五郎は三郡内第一の富
家にして土藏も多く家屋は尤堅固の建築なりしか
ば安心して家族一同二階に避けたりしに、波の爲
めに家屋土蔵皆流され一家悉く死亡セリ。飽田郡
船津村蓮光寺も亦西川と同じ、總て家屋の堅固な
るを頼みたる者は皆此の如しと云ふ。
藩廰は速に災民を救助し農具食料を付與し大に
道路堤塘を修理し賞を擧げ民を復す是人民愁眉
を開き皆領主の仁惑を仰げりとぞ。
損害の概數は左の如し。
流死四千六百五十三人宇土郡千二百六十六人、飽田郡千六百六十六人玉名郡二千二百廿一人
負傷八百十一人 死牛馬百五十一疋
流潰住家二千二百五十二軒 流潰番所六軒
流失寺一ヶ所 飽田郡 流失社一ヶ所 玉名郡
破損潮塘六千三百五十間許 破損波戸五ヶ所
破損石井正規四十ヶ所 流失破損船大小千
餘艘
汐入荒地田畑千百三十町九反五畝九歩
宇土郡二百七十六町歩、飽田郡千六百六十五町八反九歩玉名郡六百八十九町一反五畝歩
荒地鹽濱二十町八反歩許。
出典 増訂大日本地震史料 第3巻
ページ 72
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長崎
市区町村 島原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.005秒