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項目 内容
ID J0202190
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1783/08/05
和暦 天明三年七月八日
綱文 天明三年七月八日(西暦一七八三、八、五、)浅間山大噴火ヲナス、是シヨリ先キ四月九日ヨリ活動ヲ開始シ、屡〓鳴動・爆發ヲ繰返シタルガ、六月二十九日ヨリ八其ノ活動一段ト勢力ヲ加ヘ、七月五日ヨリ愈、大噴火トナリ、七日ニハ降灰・降砂甚シク、武藏深谷邊ニテモ一時暗夜ノ如クナレリ、七日ニ至リ一大鳴響ト共ニ大泥流ノ奪下アリ、北上州方面ニ流下シテ吾妻川ヲ閉塞シ、續イテ決潰シテ吾妻川ヨリ利根川ニ奔注シ、沿岸ノ諸村落ヲ蘯盡シテ、死者千五十一人、流失家屋千〇六十一戸ノ多キニ達シタルガ、就中吾妻郡鎌原村ノ如キハ全村埋没シ、人口五百九十七人ノ中四百六十六人惨死セリ、泥流ノ溢出ニ續イテ夥シキ溶岩ヲ噴出シ、コレマタ北方ニ向ツテ流下セリ、鬼押出ト稱スルモノ即チコレナリ、
書名 〔後見草〕
本文
[未校訂]文月に成ぬれど、空定かに晴やらず、漸四日五日頃秋のあつさ身にこたへ、五穀の實のりよかりぬへしと、人々勇み申濁る、然るに六日の夜半頃、西北の方鳴動し、雷鳴かと聞ければ左にあらず、一聲/\鳴渡れり、夜はすでに明けれども、空の色ほの闇し、庭の面を打見れば、吹來る風に誘はれて、細き灰降りたり、漸午の刻よ至り風も止み、灰もふり止み、初而夜明とこゝち〓り、又其日の夕暮方より、同じ様に鳴動し、終宵止みもせず、翌七日は就中烈敷降り、灰も大海にて粟〓なんどを見る如し、手にとりて難く見れば、灰にあらで燒砂なり、是に交りて爲め原のことく〓もの降り來る、いろは白きも黒きもあり、〓其の〓め積けし〓は、所々口て遊ひはあれども、嘆き所に見りては、驚き〓さあいしまる、時八日は其震動の〓き事、きのふ〓りと冷敷、人々の申せしは、〓と〓涯〓の國變島の燒けぬ日、空曇り成降りぬ、是は〓〓〓り多はれば〓國にてはあらむ、近きあたり〓克山か筑淺山かにて有へしと口々に〓〓れけり、同しく十日下總國全町村をいふ所の勘〓といへる〓長〓〓代〓〓〓〓の〓断〓へ許へしは、昨九日未の刻江戸川の水色變し、私の如くに候ゆへ、茶審詠候付、恨ばかり抜し穴水を始め入家の材木〓度の類皆細かに〓碎き、又火に交じりて人の〓尾切れた〓人馬の死骸数も限りて知れさる程川一面に流れ浮み、引き切らず〓ぬ、〓より夜半に至るに次第/\はまばらになり、川下へ流れ行〓し六〓申上たるゝし、續て幸手宿ゝり斯へ出たるは、同日同刻稚〓堂中川利根川此〓つの川筋へ家藏の破れし材木類あやまと覚しき〓七八尺の梁棟其外戸障子桁椽〓きあらゆる〓度の数々又は生本の大來とも四五尺計々に打析て枝葉碎は皮〓むけ本末の分ちし知れず流れ下り候、内傅俗男女の屍とも手足も切れ首もなく、子を抱蚊帳に巻れ機物腰にまとひ付、誠に手と手を取かねし、からだ半分切はなれ、生々敷死骸とも水の色も〓〓さる程浮み來〓内に、上州群馬郡川島村と書村たるに〓〓を見付しゆへ、拾ひ取立歸り委敷人に尋ね問ひ候へれ、伊香保といへる湯治場より二十里計我方なる村の名にて候よし憑り申なり、又如何なる水筋へ如何なる毒の流れ入るらん彼雜物の流れ過し其跡へあるとあらゆる魚とも水に醉たる状にて活るとなく死ぬともなく浮み流れ候ぬ、是八定て川上に極て大變候へし、餘り程しく候ゆへ御注進申候と宿の役人大左衛門仁右衛門といへる者同じく申上たる由、御府内の人々傳へ聞、扱〓此比灰の降しい此故の事成へしと益々水審し侍りたり、無程信州佐久郡輕井澤上州碓井郡の板鼻宿其外東山の宿々より追々訴へ出ばる中にも輕井澤の者申せしハ、今年ハ春より同國の淺間嶽折々に燒出し烟いつより甚しく、別を主月下旬に至り次第/\に繁くなり、邊に今月七日の亥刻頃と覚しき時、俄に震動雷電して其山とつと焔に成り、屋鳴強く、所の男女驚さ騒さ、皆親族の見分もなく、思ひ/\に逃出しぬ、かゝる折しも處空より大石小岩砂交りに焔々ともえながら、雨より繁く降下り、宿の貫役又七が屋の棟へ燒石多く〓かゝり、其火四方へ〓よと見〓しにち忽々付て宿中俄に大火と成り、火の粉燒石雪吹の如く、實大小焦熱地獄遁れがたく候間、老若男女此時に十方にくれて候也、此中にも宿役人六右衛門と申者父子手ひとく相働き、水帳計は将退候、然とも其者の孫や子共如何相成候や、行衛相知不申候と是も訴へ出し也、日を経て微慥に見聞し人に逢尋問侍びしに、其人の申せしハ、今年水無月廿八日九日の頃淺間嶽鳴動厳しく晝夜止時なく、七月六日七日に至り、空暗く雷し電り眼を射、日中も暗夜の如く、砂石の降音は雪霰より甚しく、人々恐れ戸をさし固め、往來する人も絶え邂逅去難き所用にて出行事の有ときは松明桃灯にて路を照し侍りき、同八日未の刻鳴動殊に甚しく、何やらん降來る音したり、如何なるものと見れハ泥雨なり、其熱き事湯よりも熱し、又天に交りて燒石烈敷落かゝれり、是ハ淺間嶽東の方其鳴動の時に當り、一度にさつと裂開き隣國上州吾妻郡吾妻渓へ熱湯を吹出せしにて侍りし也、抑此吾妻渓と申ハ左右ハ峨々たる山にて其真中を流れ行谷川の名成よし、此故に此川を吾妻川とも名附となり、扨此大變にかゝりしは此渓川に從ひし左右に續きし二十二ケ村惣て此間に立並ぶ大家小家はいふに及はし草本人畜に至るまてすこしも形あるものは有情非情の無差別皆熱湯と飛出す、百間五十間の燒石にはねられ微塵に碎け押流さる其勢ひをたとへな八百千の石火矢を一度に放つに奴たるよし、又其熱湯の深き事ハ何程か計難く、此災にかゝりし村の其内に坪井と名附し所あり、其村に住居する助右衛門と云る男あり。此男元來家富眷屬多く、慈悲深き聞く有、扨助右衛門住居といふハ前ハ則吾妻川の路に臨み、後ハ萬山といふ大山に續き道よりハ高き事一丈計、山に傍て地を開き、其所に長さ二十間余の酒藏ニ棟立並へ又夫より石階を付一丈計上の方に居宅を構へ、其庭の正面に年経たる松を植置たり、此松の高き事平地より五六丈も有之由、扨此度の山抜と聞と等しく助右衛門が家族とも皆一統に遁れ出、後の山に這上り、顧て見渡せハ川より續く熱湯のさはかり高き松の木の一の枝まて浸せしよし、其深き事冗是にてはかり知へし、又助右衛門が隠徳ハ天も感應まし/\けるにやかゝる災難に逢ひなから一家合せて九十余人不殘後の山に進れ壹人も横死する者なかりしよし、其内に只壹人の半下女麓の畠に何やら摘て居たりしが、件の變事と見るより一さんに遁れ出んとせし内にはや熱湯押來り何んとも詮方なく、あきれ立たる其内に不思議に搗臼流れ來り、其前を過る故天の與へと飛乗て三拾里計川下へ流れ着しとなん、偏に助右衛門が余幸とそ時の人々申せし也、又變の魚急カなるハ山の裂たる所より一里計下つかた松の関所と云るあり、此関ハ同國高崎の領主右京亮輝知朝臣の預り給ふ處なり、其家子何某と云る男関の守をして居たりしに此折しも其関の前に掛置たる松橋とうふ橋を修理し給へる時成しに、其工とも聲々に山か抜て候へとあハたゝしく呼はりしにより、其男是を聞武具ハ捨置へきものならぬハ持退んと提ハ提たれとも天さへも不叶して漸々に道れ出後の山に上りし由、又此時諸共に右り左りの峰へ遁れし者皆吾妻川の岸にのそみ立續きたる里人なり手足達者のものとも八辛ふして遁れしか跡に殘りし妻や子ハ家の外にも出る間もなく浮つ沈つ押流され或ハ窓より顔を出し又ハ棟木に取付て助けて給へと泣叫ふ彼者とも是を見てあれよ/\と呼はれと何とも詮すへなく見殺しにころせし事いと哀れけに語るも有昔より七難とて七つの中にも是ハ如何なる難にて侍る、聞さへも猶おそろし、總て此度の變災にかゝりし所淺間嶽の麓より利根川の汀に至り凡四十里計の内皆泥海のことくなり、人家草木一つもなく、砂に埋れ泥に埋れ死亡せし牛馬限り幾程といふ数知れす、老若男女僧俗合せ二萬余人となり、されハこそ元利根川新利根川其川下の流々人馬の死骸充満せり、寛永四年亥マゝの富士の山の燒けるハ古今の變事と聞えしか、夫〓増りし由、實に希代の天災也、凡此度燒砂家りし處拾余ケ國に及ふとハいへとも、就中西ハ信州追分輕井澤を限り、東ハ上州吾妻郡はいふに及はす、高崎鹿橋に至るまてを第一とす、深き處に脱カ一坪一石三四斗に及ふよし、
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 721
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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