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項目 内容
ID J0202055
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1779/11/08
和暦 安永八年十月一日
綱文 安永八年十月一日(西暦一七七九、一一、八、)櫻島噴火ス、コレヨリ先キ九月二十九日ヨリ頻繁ニ地震ヲ發シタルガ、コノ日ニ至リ櫻島海岸ノ井水沸騰シ、海水紫色ニ變ジ、次イデ有村ノ上ナル中腹ヨリ爆發シ、續イテ高免村ノ上ナル中腹ヨリモ爆發シ、翌二日ハ活動愈〃旺トナリ、夥シキ灰砂・火石ヲ噴出シタルガ、其レニ續イテ多量ノ熔岩ヲ流下シ、死者百四十八人ヲ出セリ、噴火ノ後所謂安永諸島ヲ涌出シタリ、マタ噴火終熄ノ後、鹿兒島灣北部沿岸ノ地沈下シ、タメニ鹿兒島ニテハ高潮ノ害ヲ被リタリ、
書名 〔櫻島の燃記〕
本文
[未校訂]安永八年巳亥と云ふ年、長月の二十日あまり九日のそやばかり、ゆくりなうないふり出たり、ふるかとすれば止み、止むかとすればふる、長くもふり短くもふる、始より強からんも弱からんもはかりしらねば、ふり出ける度毎に、家もや崩れん、地もや裂けなんと、且は驚き、且は危ぶみ、肝は潰れてちひさくなり、毛はゐよ立て頭のふとりぬる心地ぞすめるむかしの人の、はねなければ空へもあがるべからず、龍なられば雲にも登らんことかたく、恐れの中にも怨れつべかりけるは、たゞ地震なりけり、といひしもむべなりけりや、よのつねのないは、うかりうかりとして浮かべる舟のたゆたふ如くなるを、己たびのはさまかはり、ぶりぶりと動きて、陽洸ひせる馬のたて髪をふるが如く、尾上〓つる山鳥のおろおろと鳴くに似たり、蔀そうののがたがたと鳴りけるは、風にきほへる村時雨の、窓を叩くに等しく、嵐にすさぶ玉霰の、板屋にたばしるに異ならず、始の程こそをよびをも折つ水、後にはうんじ果て数へ盡すべうもあらず、凡百度にも餘りぬらん、夜一夜ふりあかしける程に、いだに寝られず、明る神無月朔日の書過るまでも、猶よべに替らで止まざりければ、こは何のさとしにや、果て如何なる事の出來侍らんと、皆人ゆすりてうつし心もなかりしに、末の時過ぐる比ほひ櫻島のいただき俄に地裂けて火の迸り出けるが、其はげしき事、石火矢てふ物を、いくらともなうつるべ放したらんが如く、ごほ/\と響て、からうすの絶間なきに似たり、あはやと見やりたるに、白き煙の厚く濃き色なるが、引もきらず渦捲出ける有様、譬へばかたまれる雪を押出すかと疑ひ、束ねたる綿を繰り出すかと怪しむ、見るが内に直様に雲より上に舞あがりて、猶大空にもとゞきすらんと思ふばかりなり、(明時舘にて算注もて姻の高さを測りけるに、三里二町十六間あがりけるよし)煙の中にも焔を包みて昇りけるにや、空にも稲光ひらめきわたりて、衾を引張りたらんが如く、雷鳴りはためきて頭の上に落かかりつべう思はるゝ、今の世にすがると云ふ人もまさねば、取もとどめ難く、酉夢といへる人のあらば、身をもさかれつるべし、されば井の内にかくるへ玉ひけん大臣もさもや聖と思はれ箸をも實に取落しなん心地ぞするや、始燃出ける勢に空様に打出しけるにや、煙の内より黒く丸かれたる物の石の如く成が、こゝら落下りけるは、鳥の飛かふかとあやまたる、(こなたより島までは二里に餘りて隔たりけるに、かくばかり見えけるは、石の大きさ思ひやるべし)火に焦れたる石にもやありけん、落ちかゝりたる處は、草ともいはず、木ともいはず、家どもも一つ〓燃え上りて、煙の同じく立隠ぬるは、島はみながら〓崗やすらん、凄まじともいふばかりなし、只暴れて眺ね居ける程に、穴師の風さと吹出ぬ、煙は直に東に靡きて、頭の上に打覆ひ來りければ、いでや此方に倒れかかりなば、雷にや打れん、火の底にや焦れんと、おみな子供は、いとゞしく騒ぎどよみて迯感ひけれども、如何はせん、踵をめぐらす暇もなう、硫黄の気鼻を衝くとひとしく灰降り來り、島も海も掠め果て見えわかず、暫しが程に又眞砂にふり替りて盆をこぼすが如し、笠をも取あへず、あはたゞしう前うしろ額るに只墨のすりたらん様に、忽地に眞の闇になりぬ、いざや神の代の常闇にやなりぬらん、佛の説きけるよみ地にや迷ひけん、鬼一口はいふも更なり、地の震ふこと甚しければ、雷はいややはげしく、電劇しければ地は益〓震ふ、或は相戦ひ相撃つに似たり、或は相呼び相慮ふるに似たり、すべて世の中のおどろ/\しう鳴りどよむ音に、物いふ聲も聞えず、とみに山も崩れ海も傾き、あめの下は皆さかさまにくつがへりやすらん、さるに晝とも夜とも夢とも現とも思ひわきまふべきにあらず、家々皆燈火をかゝげて、頭さしつとへつゝ神佛を念じ奉ゐるより外はあらじかし、偶用ありて、しるべの方をとぶらひ、友どちのがり尋ねける族も、革もて借れる半首て小もの、あるは竹の皮もて縫ける笠やうの物をいたゞき、箱のふたのたぐひ、小袖など引かつぎて、たいまつをとぼしけれども、只足もとばかりの明りにて、西も東も、縦をも横をも、見わひがたく、大路に踏迷ひて我屋の門さへたどりわび、あらぬ處のとぼそ叩きたるも多かりしとなん、(雨の夜とても松明の光は其のわたり透りぬれど、砂の降りける闇さは晝も夜もかはらず、保〓引立たらん内をしぼすが如くて、光は透らざりけり、尋常の五月間には空の色あひ少しくは見ゆるなるを、けふは空の色さへ些も見えず、石と砂といたう降りけるゆゑ、傘にてはこらへがたくて、さまざまのものをかつぎけるなり)されば公の勤にかかづらひける限りは、司所をまからず、たゞうと共は、ひた厘こもりに籠り居たり、(莫折ふし鹿児島の醫師小田医三といへる人、用ありて肥前の國長崎にありけるが、彼處にも朔日の晩景、灰のふりけるゆゑ、人皆あやしと思へるに、櫻島の燃えけるよし三日の朝はや聞えわたりぬ、百里に近き境なるに、いとも早く聞えけるは、置動して命を傳ふるよりも健なりしは、いともあやしからずや、と後に被人の語りき、江戸のわたりには七日の日灰降りけるよし聞えぬ、されば日の本の内普く降りわたりけること押して知られたり、庄内の高城といへる處は、十里にも餘りたる處なるが、けふ晴たる空に煙棚引來れるのみにして、雨さへふらず、雷夥しく鳴りて、しかも幾處ともなう落けるとなん、煙の内にも焔を包みて、雷と成りけるにやありけん、遠き境に至りては、寒氣強き地なれば、寒熱戦ひて鳴もきびしく落けるにや、と後に高城の人語りき)
海潟村は櫻島とさし向ひなれば、いたう立騒ぎける、中にも小濱は猶も近くて隣ともいふべからん程にしあれば、是もとより今も火の燃え出來ぬらんかと、取物もとより敢ず、海潟・中之俣の者共そころいざかしつゝ家こぞりて、申の時過ぐる頃よりこなたに迯來りけるは、道もさりあへず、爰かしこしるべ求めて舍り居たり、(申の時ばかり一しきりいたう地ふるひ、いかづちのはげしく黒神の上向面のあたり幾處もなう燃え出けるよし、又白濱の上あたり處々地裂けて大水湧上り、人の家をも倒し、島地も多くあらひ崩しけるとなん、是や山汐とかいへるもののたぐひなるべし)二日といへる日は少しく鎮りぬべき心地しけれど、晝の明り大かた朔日比の夕月夜の如くて、くらぶの山も越えつべき程になん、稲光は隙なくひらめきけれども、煙の深く立覆ひ日の光も見えぬ程なれば、きはどくも見えず、(日数降雨雪もすさめる時は、もとの如くかはらきて、空さりげなく月も澄みぬれど、かうやう砂のふりけるは、いつを果とも知るべからず、まづ喰ひ物の心しらひこそとて、民草の賢めきたるは松明をとぼし、栗を苅つくね、芋を堀り、又は大ねを引き、菜かぶらやうの物取入けるもありしとなん、いかばかり降つもるべきもはかりしらねば、さるべき事ぞかし)三日には煙もやゝヽ簿らぎて、砂もまたすさみがほなり、四日も猶昨日にひとし、五日に至りては、少しくおこたりがちなりしかど、閉ぢたる空のみだれに頭さし出すべくもあらず、其内にも時々起り出で、音も亦様々なり、或は風の吹出る如く、或は牛の吼ゆるが如く、法螺を吹くが如く、太鼓を打つが如し、灰の降もあり、砂の降るもあり、又炭の色したる黒き土様の物の降りけるものあり、あらがねの土の底より吹出しけるものから、劫灰とかやいへる類にやあらん、それも仰けば高き聖ならでは誰かは知らん、日にそひて稍おだしくなりしかば、始小濱あたりより迯來れる者共、巳が住家の心もとなくてや、年若き族は立歸り見けるに、眞砂軒端に等しく、軽石の一五寸廻りなるが堆く積り居ければ、軒の妻そと揆い分けて内に入り、調度めく物共とうでつゝ背負ひて又元の含りに來り居れり、〓七日より内は異々茫々として空もいと暗かりしかど、夫より後は稍鎮まりて変る事も無かりければ、元の住家に歸ぬ)彼小濱の北に建れる尾上を甲崎といふ、夫より又北さまに落さがりたるを咲花平し名づく、(昔肝付御誅伐の時此甲崎に砦を構へ、肝付勢籠り居けるが、後の方より取詰められ、咲花平るる落しがけの高處より押卸されすずれ落けるものゝふ共、花の散るが如くなりしかば、散花平と名付しといふ俗説あり、其時肝付省釣が一族、川南安藝守といふ者、から笠を雙の手にさして咲花平より瀬戸村に飛び渡りけるよし云傳ふ、誠なりやあらずや)こゝより瀬戸村までは言通ふばかり、け近き舟渡しなりければ、古里、有村、脇、黒神の者共、咲花平の地に浸りて海潟に遁れんとにや、朔日二日の頃打すがひてつどひ集りぬ、されども幾處ともなう燃出ける穴より、輕石といひて水に死まざる石を夥しう吹出しけるが、海の表は皆畳敷たらんが如く浮びて、然も此狭ばやかなる迫門をひしくと閉塞ぎ、涌が上流れかゝりて柵かけたらんに等しく、舟どもの通ふべき様なかりければ、かき着かん方なく皆濱辺にいはみ居て、小袖めく物共引かつぎ立たり居たり、池より外の事なし、(古里、有村、脇、黒神の里々は、燃石の落ちかゝりて、家一つも無く燒け失ければ、皆瀬戸村に迯來れり、此村は東にさし出たる處にて燃穴より些ばかり遠かりければにや、石の落けるも少くして、家一つ二つは殘りたり、其中に藏之丞といへる者は、些豊かなる者にて、土藏をも持てり、彼の家に走入りて、衣など様々の物を取出てつつ頭に載て砂石をも怺へ居けりとなん)そが中に心〓々しき若君にやありけん、かう聳み上げたる輕石なれば、浮橋てふもの渡したるに異ならず、いでかちよりして渉り見ん、蔦城や久米路の橋、中は絶ゆとも、よそにのみ見て止みなんもうしろめたしとて、三たり相伴ひて渡りけるに、二人は難無く渡り付きぬ、跡なるひとりは石の薄き方にやありけん、つぷりと落ち入りて失せしとかや、其後よりは渡る人もなかりしが、初渡りける者共、辛うじて海潟までたどり付、瀬戸村の有様をかくと語りけるよし聞えければ、さりや疾く救はずんば轍の跡の〓ならめとて、伊集院兼東(御家老なり、善之丞といふ、今の八兵衛祖父)かねて村里の事共あつかり知れる人々(郡見廻浦役抔)引其し、急ぎ海潟までゐゆきて舟共餘多物し、救ひ來らしめんと下知す、されども彼輕石に隔てられて、舟の路なかりしかば、遙に遠くもとをり、海の幅廣くして輕石の薄き處を押分け〓き分け、ひた漕ぎにこぎまいて島に渡り着き数百人の者共、皆殘りなく救ひ來る事を得たり、(朔日より今日迄五日の間飯をも水をしたうべざりければ飢え労れたるべしとて、海潟より此方まで一里あまりの間に粥を三處に調へ置き、一處にして一人に一椀宛興へしめたり、飢えたる人に多く興ふれば立處に死する物のよしなれば、かくはからひて爰迄送り來らしめたり)彼者共の有様を見るに、頭より裾に至る迄灰に塗れ、かはべは皆白くして化裝塗りたらんが如し、此處彼處石に打れて血の流れたるが、かつえこうじて痩おとろへ、まみの落入りたるは、そはぐし々て人の姿とも見えず、只手を合せて佛を拜むが如く、頭を土に突あてゝ神を禮するが如く、幾度となういや/\しくぬかづき/\して、泪も惜みあへず死せる者の再蘇りたらんが如き、おぼんいつくしみの忝さ、何時の世にかは報ひ奉らんとすゞろにゆゝしきまで泣いさぢたり、とばかりありて、四そじにもやあるらん、目もいたう泣はれたるおみなの云けるを聞くに、始め燃え出ける折ふし、やけたる石の雨の降るが如く落かゝりて、家も殘らず燒失ひしかば、走ひたるも若きも皆あはたゞしう迯惑ひ、我舟人の舟のわいだめなう、おのがじじ打乘さし出しけるに、跡より取縋りて禰が上に乘り充ちたれば、程なく乘沈めて底の屑と成けるも多く、たまさかに遠くさし出しける舟も、浮石にせかれて動しもえやらず、(此舟共は唯流れに流れて、海も廣く輕石の簿き處に至り、辛うじて谷山、喜入、山川あたりに行着ぬとかや、こゝの本城村に住ける二之宮傳右衛門といふ人、姉脊伴ひ、有村の温泉にありけるが、是等の船にや乘りたりけん、天の船は山川に着、妻の乘りける船は、谷山に着けるとかや、又肥前國牛凍とかや云ふ處の船、渚に繋ぎ居けるに、走り乘りけるも多かりしに、直様己が國に漕ぎ歸りて瀬戸の藏之烝が娘を難波の浮れ女に賈しが後には太夫とかやいへる者になりて、名をも櫻島と呼びしとぞ、鹿児島の商人鶴丸新左衛門と云ふ者、彼處くにて圖らずも巡りあひけるは、一目見しより物をもいはず、ひしと取すがり、しばらくが程泣入たり、鶴丸打驚き、こは物に狂ひける人にや、としばしためらひ居けるに、やゝありて、そこ〓は見知り玉ふまじ、いときなき折そこの瀬戸村に來ませる事のありしかば、見覚え侍るなり、わらはしかゝる者にし侍るが、往にし頃情なくも爰に賣られつる淺ましさ、をしはかり玉ひねかし、前の世の過世か、此世の犯しかなど数々打歎きて物語りければ、鶴丸も泪にむせびながら、それ/\にさしいらへつゝ猶立去りがたう思ひしかども、急がしき事のありしかば、よきにいひしろひて別れぬるよし、後に鶴丸が語りけると聞きけり、今一人は有村銀右衛門とかいへる郷土の娘を、安藝の國御手濯に賈りしと聞しが、後いかになりしやらん)妾は七つになりし子の手を引、四つになれるを懐に抱て走りければ、足もはかゆかず、其船共にも乘り後れ、闇さは聞し、行方も知らず心ばかりは闇ならねど、子を思ふ道に迷ひて、夜もすがら爰彼處さまよひ渡りぬ、折しも鞠の程したる石の落來りて、懐なる子のうなじに當りければ、一聲わつとさけびけるばかり、其儘なよなよとして身むじろぎもせずなりぬ、やゝと驚かし侍りけれども、えもいらへず、息の緒は疾く切れにき、余りの事に懷きしめ、耳に口して、あが子よ、いき出よや/\と聲の限り呼びしかど、千世もと祈りし甲斐もなう、唯冷えに冷え行き侍りぬ、情なしあぢきなしと、しめつゆるめつ、いかにせん/\と身をあせりしかど、せん方なきまゝに、其顔に手拭一つ打覆ひたるまでにて、其儘其處にと許りよゝと打泣つゝ、頭をだにもたげえず、若紫の摺衣、手摺り足摺知られず、いと忍びがたけなり、傍に又はふれ果たる翁のよろぼひ出て、鼻聲に打わなゝき語り出けるは、かうやう騒しき折にし侍れば、皆人足を空に迯出は出けれども、今も女の申つる如く、頭を石に挫かれて死るもあり、手足を害ねて立上り得ざるもあり、うごめく間に眞砂降り積りて、埋れ死しけるはいくそばくぞや、忽ち間になりて、我身一つだに遁れがたき程なりければ、見すく救ひ得ずして、捨て果てにけるこそ念なう悔しかりけれ、されば何處を指して迯も走りもすべきや、目しひたる人の杖失ひし如く、西も東も辨へなくて、右に轉び左に倒れ、古里の者は有村へ、有村の者は古里へや、又脇にやと、處せう上を下へ惑ひぬるは、網の中の魚に等し、かゝりし折に有村と古里の上にあたりて大きに燃出て、黒き石のとろけたるがふいごもてわかしたる黒金の如く、とろ/\と湧出て横幅一町ばかりにひろごり、海べたまで流れ入りぬ、(此處新燃といひて黒き石組の處となれり)是が鳥のに焦れ死しけるは幾何といふ数をしらず、鳥部野の烟泪を爭ふ命の程、實に焦熱の地獄もさもやと思ひ知らる、偶爰を遁れたる者共、今はいやし騒ぎて、あふさきるさに迷へるは鼎のわくに異ならず、脇村の上に昔より大きやかなる岩屋の待るぞがし、いざや彼の内に這ひ入りて、砂と石との苦みを遁れ、しばしだに息を休めて後に兎もかうもせばやとて、奥より入口までひた/\と屈み入りぬ、運の果にや有けん、後の山々にふり積りたる眞砂の、一なだれになだれ落ちて、岩屋の口をつと打塞ぎ、實にも岩屋の中とても遁れまじき世のことはりにや、皆出る事を得ずして夥多埋れ死しぬ、されば親は燒石の下に焦れやしけん、子は岩屋の内に埋れやしつらん、いもとせはらからも散り/\なれば漂ふ雲のつく方なき心地して何處を當てに尋ぬべきや、飯にも飢えつゝ水には渇えつ、歩むとも無く匍ともなく、石に跪き砂に辷りて蚯蚓の灰にまみれし如く、のだれもこよひて心たましゐもなくなり果てぬ、中にもちいさ子どもの飢渇えていたうなやみ侍り、えも沼くまじう見えければ、父母も償をねぶるの慈みに堪へ兼ね、せん方なきまヽに、うたてとは思ひながらゆばりをさへらにだめて、飲ましめたるもありとかや、(櫻島は水なき處なれば、兼て小濱の内なる水の灰といふ處が咲花平かの水を日毎に汲歸りて用を調る處なれば、此時は猶一雫も無かりし事思ひしられてあはれなり)又有村の湯岩しける人の多かる中に、鹿児島にてもよしばめる人の母君のゐまそかりけるが、里人共に打まじりて迯げたまひけれども、老の旱多いたはしくも労れ悩みて、得立ち玉はざりしを、供せしをの子のいかばかりまめまめしく、じちもうの者にや有けん、己が背に負ふ参らせ、我身にいたつきの入るも知らずて、ひるよ無くかきありき、やう/\二日の書々頃瀬戸村までたどり着き、先づは心安かりけりとて、外の供人に渡しつゝ己は餘りに疲れ困し侍れば、些の間休みて後に見え奉りなんとて、藏之烝が倉の内に這入り、きぬ引かつぎていねたりしが、永き夜の夢さめやらずして、終に其儘失果ぬるも無償迅速の理りとは云ながら、になう哀れなることにこそ、などよどみ勝なる泪川、せきも止め敢へず、くづし出て打しはぶきたり、(老母は川田氏の人なりしが、彼救ひ來れる人の内なりしかば、爰の町なる商人の家のけざやかなるに舍し参らせ、醫の事とも板まかなひ置玉ひしがゝ湯衣一つ着たるのみにて、外に身に纏ふ物もなかりけるゆへ、神中村屋敷といへる御館に年比住給へる、後に清淨君と申奉る女君より、小袖様の物猶手くさのたくひまで、数々取したゝめ送り給ひしなり、彼供せし人の志厚かりし感ずるに餘りのあり、されども其名を聞もらし、侍るはねんなう悔しけれ、きびしく痩たる人を俄に休ましむれば、氣だるみて死するもの、よし聞ゆ、其後五日むゆ日過て、鹿児島に送り返し給ひける、其此死しける人の数を後におうやけより改め給ひしに百五十七人又は百四十四人なりしと聞ゆ、いづれかまめなりや、そも此國の掟に札といふ物を一人に一枚づゝ疲置、其札改の帳あり、戸籍などいへらんが如し、帳の面にて生死幾人と詳に分るゝ事なり、されどしも様の者どもは物むかしとて生れ子十歳ばかりより内は彼帳にも記さず、大かたなるものなれば、稚き者は数の外なゐべし、去は死しける人の数は凡そ三百人にも及びぬべし、是を見るにも彼をきくにも汀まさりて(ねんじあへず、袖の外にぼろ/\こぼれけるも、げに哀さの限りなりけり、やがて此濱べに茅ぶき小屋余多作らせ入置て養ひはぐくみ給ひぬ、後に鹿児島にかくと聞へければ、十五六日過てまた彼方に呼取給ひぬ、程經て後土地多く民少き所々にわかち移して住しめ給ひぬるよし、都の城には今に櫻は〓とかいひて、一つの里とはなれり、櫻を多く移し植て、むかしを忘れざるしるしとするよしなり、其比牛根よりも人余多こなたに逃來りしかば、下町の濱べに住しめ、一通り町の如く住付て牛根町と唱へしが、十とせ半過て後いつとなく又歸りゆき、今は一家で殘りける今の永井半平祖父のときなりし、むゆ日七日比までは、をぐらう打けぶりて大かた晝のあかり月のある夜半の如くなりしかど、其後は空も清らになりゆき、はじめて夜の明たる様なり、されども煙は猶空に立のぼりて、日毎に二たび三度づゝ鳴り出けるが、灰のふるもあり降らぬもありて、名殘なくをこたれる事はなかりき、日数へて霜降月十二日夜に入てまた地ふるひいづ、櫻島より少しく東にあたりて、雷の音すさまじく絶間もなう鳴り響て、煙打覆ひ月の光もみへず、目路の限りは皆棚引きあひたり、されど夜晝はかぬ程にはなかりき、此度は砂にはあらで、泥様の物の降けるもまたあやし、されば早崎のいたゞき燃崩しともいひ、牛根の地にもへ出しとも様々にいひふらしぬ、こはいづくまでももへ來りてこなたの地つゞきすべて火の内になりぬべし杯、皆人現心もなかりしに、三日三よを過ぬれば音もなく煙も空に消栗ける、其跡に向面の東十七八町許沖に、九つの小島あらはれたり、一つの島は白き色して砂なるべし、廻り一里もやあらん、其西に今一つ是も砂島なるべも、廻り二三町もあるべし、外七つは色黒し、石島なるべし、皆小き嶋にして、瀬の些高き様なり、彼二柱のさぐり給へし鉾の雫にはかはりて、祝触とかいへる神の百尋に餘れる海の底よりかつげ出給ひし力の程恐れても猶恐るべし、むかし孝靈の御代五年といふとし、孝安の御代ともいふ、いづれかまめならん、冨士山のもへ出、和銅元年、廃帝の宝字八年どもいふ、此櫻島海の底より湧出ぬと聞ては、あやしと思ひしか、かうやうあやしき事にあひて怪しき事ども見つるも、またあやしからずや、かく島々のもへ出ける程の事なりければ、此あたりの海皆湯とやはきかへりけん、様々の鱗ども、いくらともなう煮へたゞれて浮び出、爰かしこ寄來りけるを、浦人ども拾ひとりて、たうべたれども些も味はなかりしとぞ、富士の烟は絶る事なきよし歌にもよめり、されども今は消てなし、寳永の比燃崩し跡寳永山と名付て、三國一の名山に少しの疵となれり、櫻島もなべといひて、文明三年もへ崩し跡あり、同七年向面と東黒神との間に大燃崎とて其跡あり、同八年西嶽のいたゞき燃崩れ、同年湯の村の西にもへ崎とて跡あり、肥前國温泉か嶽のもへけるも、今はた年許跡の事なり、七島の内諏訪の瀬島のもへしも七八年跡の事なりしかど、遠き境なればいかばかりなりけんしるべからず、さればこゝかしこ時々いくらも燃出と珍しき事にはあらざるべし、されどもまのあたり見しはまたあやしく恐しき事にあらずや、此櫻島の頂にむかしより池のありけるが、水無月の此ほひ、つちさへさけて、いみしく照れる日にもいと冷かなりければ、夏の水とかいひて海の汐の満干の折ふしは、彼池水にも満干ありけるよし聞えしかど、今は登る事叶はねばいかになりけるやらんしるべからず、柳此櫻島か程にものて砂ども夥しく吹出しけるからは、山の形もかはり、ひきくもなるべかりしかど、少しもむかしにかはらざるも、またあしき事に社、夫より後はさせるふしもなく、烟のみ立のぼりて鳴り出ける事は稀に成りしかば、人の心もいつしか長閑に成りもてゆき、たのもしくめてたき春をむかへて、安永九年のとし庚子にも成ぬ、砂島の一里廻なるにはいざら清水流出て、人もすむべき様なりなれば、おほやけよりのはからひにて、家一つ二つ作り人を移し給ひぬ、よき島地ども多かりしかば、向面あたりより移り來りて、今は家数十七八もあるべし祝島とか名付をよし、祝融のもじを取りけるにや、又は猪の子嶋とも唱ふるとかや、亥年に生れ出し嶋なればにや、誰人の名付しやらん、二三年過て後は石嶋四つはいつとなう海に沈み入て、今島数凡五つぞ殘りける、よ所の里迄からなべてならぬ炎にあひて、なやみける程にもあれば、島の内はいふもさらなり、向面、黒神、瀬戸、脇、有村、古里皆あばれ果て人も住すなりぬ、古里と有村とのあはひなる新もへの西涯に出湯あらたに出來り、よ所に移り住ける者どもはたとせばかり過て後にいつとなう歸り來りて住付しゆへ、湯あみの人もこゝら來り集れる程に今は豊かになりたり、有村にはむかしより出湯ありて、國の守の湯あみ給ひける時のみ館もありしかど、今はなくなり、出湯も涸て埋もれしが、三そしばかり過て人もまた歸り來り、出湯をも堀出しけれども、古里の湯さかへけるにより、爰はあるかなきかになれり、黒神の湯はむかし聖徳公の御代より始り、公にも入らせ給ひてめでたき湯なりしが、いつとなく涸て出るとしもなかりしに、此度のもへより又よく出來りて今はむかしにかへりぬ人もまた多く歸り來りてゆたかになれり、北面に句ひし白濵より西又南に向ひし湯の村より西の里々、つかれいためるながら能も怺へ居けるに、爰にまた横様なるみだれこそ出來にけれ、赤水の上にひよくといへる岡あり、其麓から堀ほり廻したらんやうにくろりと皆深き谷なり、雨の降ける時は、かの谷より流れ出る水赤水の前なる海に入ける故、常は一通りの廣き水なし河原なり、今年五月雨の比彼ひよく谷堤もてふたきをらんやうに、砂にせかれて水多くたへたるが、或時いといたう降り来りて、砂の堤一度に破れ流れて、逆巻水の勢ひ夥しく、しかも河原の頭に大きなる石のころび出て動きもやらず、水にさからひける程に、西と東にはかれ流れて、野尻・赤水の家居も皆押流され、畑地も殘らず洗ひくづし、或は砂石をゆり入しかば、里人どもたまりかねて、皆よ所の里に移りゆき、終に二村ともに潰れたり、ひよく谷の内大きなる杉の数多ありてよく栄へたる所なりしが、此もへより皆枯果たり、土中の火の氣むしあげたるにやありけんかし、野尻・赤水ともに潰れ居たりしが、五十年許此頃にいたり、又人も歸り來り家ども爰かしこに見ゆ、いつこもかりの宿ならぬかはと云しは、さる事ながら、住馴し故郷はいかにも思ひ捨がたきぞ人の心なるべき、海潟の前なる江の島は飛岡の天神山よりわづか一町にもたらはぬ程の舟わたしなりしが、今年三月の頃より歩渉たりの所となれり、こぞの降砂海に沈みたるが潮のさし引により來れるを波のゆりあげたるにやありけん、流れ洲の如くにて汐のとゝひにも妨なく、里人の交如に偵よく成れり、此所はいと深き迫門なりしかど、歩わたりになりける、後又三と廿許過てゆりさがり歩よりしては渡りがたけれど、今はいと淺くなりて、汐かれの時乳のあたり迄はまりぬれば、歩よりも渡るやうになれり、近江の湖、桑田となりけるを七度見玉ひける白髭の明婢もあり、又東海の桑田となりけるを三たび見たりし仙人もありしと聞つるが、彼是思ひあはすれば、いか様にもさるべきことぞかし、此岩そゝぐ垂水の里はいづこも砂のふらぬはなかりしかば、雪をあざけりて皆白砂に埋みつゝ、越の白山も思ひやられ、または白き草もやをひ出なん、物いふ鳥もや侍らんとおもふばかりなり、此はたりは大かた積る事二寸に餘り、ここより北のかたにいたりては、いやおおにふかく中の俣あたりは三寸もしくは四寸なるべし、海がたは五大寸又は一尺に餘りたる所もあり、小濱は殊に深く三四尺或は五大尺にして、軒端にひとしければ、せんかたなく皆手をむなしうしける由聞へぬ、本より我君のおほんいつくしみ深くおまし/\ければ、(後に景徳公と申奉るは此君なり)こよなうおもほしなやみ給ひ、ここのはたりはいとも深からねばみづから取あばく事も叶ひつべし、海がた小濱の者どもはさらぬだに家も貧しく、かう深く積りたる砂なれば得たうまじ、遠つ親よりつた(/\て馴にし里をも終に住果まじきにいたりなば、いかばかり哀れならずや、誰も彼もがゝる災に逢ぬれば、なやみついへたるべけれども、彼らが身の上思ひはかりて上なかしもの分なく、郷びと皆さそひ/\して砂ども半らの程なりとも掘ひらきたすけ得させまじきやと仰事侍りしかば、いともかしこきみ心の程もだすべきにあらざれば、草の風にしたがへるがごとく皆心よくうけひきて、五丁の力をもからず、のよゝしりいどみて貰又はいしみ様の物もて荷ひ、川近き所どもは掘流しなど、日あらずして其いさをし成れり、すみやかにする事なかれとの給ふとも、諸人子の如く來り集れるからは、さて止むべきにはあらざるべし、里人も大に悦び、猶みづからもかきあばきける程に、とみに種つ物植ける地まで殘らずひらけぬ、(深く埋もれける所は畑つ物とも取得ざるも多かり、中にも早崎の上を陣の尾といひて、つくねいも多く植ける地なりしかども、彼所は猶深くして皆砂の底になりしかば、里人どもいとゞ苦しめり、今に陣の尾は潰地となれり、肝付勢陣せし跡なればかくいふ成べし)また櫻島の者ども数しらず亡びける由を聞給ひ、かゝるひぜうの事にあひ、いかばかりかは困じつらん、情なき死をいたせしよ、痛はしくもまた歎かしき事なめり、いかにもしてたすくべき様はなかりしにやとあひなう御袖もたゞならずなん、かかりければ心翁寺の道國泰憲褌師なき人の苦しみを救ひ侍らん社、十日の勤めになんとて、しかるべき僧ども余多いざかし、海かたの濱べに出て櫻島に向ひ追善供養の讀經ども物しもんさうに富て鶴鳴と號しける市川匡字子人をして(ことさへぐ)唐國ぶりのぶん作らせ、石ぶみにゑり付て櫻島燒亡塔としるし、松岳寺の塔頭に立て今にあり、げにも涙を堕しける碑ともいふべからんかし、其文に曰、
櫻嶼、高三里周七里、在薩之海中、其面與慶洲相對、其左足展垂水、安永八年己亥十月朔、火自其背出、雷電晦冥、七日七夜、延燒村落、在其足下者、垂水公子使吏以舟済民、而焚死者百五十七人、垂水心翁寺道和尚、悲夫焚死之鬼彷徨乎、幽冥不得其所也、設宝樓閣於水濱、爲施餓鬼會、以済之余遊垂水、望櫻嶼、見其左肩、火穴〓然而存爲、按佛書云却火燒三千世界、愚者聞之而笑、然櫻嶼之火無乃却火類乎、
垂水公子使民之罹災者、免死於其釆邑、仁矣、道國和尚之鳥施餓鬼會也、不唯自從其弘誓之志而巳、即謂輔邑主之仁、而使延及幽冥、亦可、於是立燒亡塔、乞余銘、銘曰、
山焦海湧火燒天満地初開火襄蓮
早使衆生逃世界從他却火壞三千
また小濱のかたほとりに野羊といへるけだものゝむまきあり、おほん父君にてわたらせ給ふ某公(後に景泰公と申奉る)いときなくおまし/\ける時、國の守浄國公より(浄國公は景泰公乃御實父君なり)四つ五つ賜りければ、君生を賜ふ時は是を舊といへる意にやありけん、爰にむまきをしつらひ、畜置給ひけるに、年經て数も夥多にふえて五六十頭にもなりぬ、這度砂いたう積りて、草も木も埋れ果ぬれば、野羊の食ふべきもの一つもなきまゝ、飢ゑ疲れて多く死しけるよし聞えければ、哀れげにもさかし、急ぎ引来りぬかし、生とし生けるものとして死を惡めらん心は、人にも變らざるべし、殊に飢にせまりて死し侍らんは穀〓として赴くよりも猶哀れなり、今民の疲ける折なればとて、たからども多くたうばり、ある司處の庭に(郡座なり)虎落作らせ、木葉共多く取らせて畜置玉ひければ、程なくすぐすぐしくなれり、彼の牧内の程経ても猶木くさの栄えざりしかば、返しゆるしがたく、又民の力を久しく潰し侍らんもほいなしをおぼして、江の島にゆるし入玉ひぬ、(二三十年は江の島にありて又数も多くなりしが、此の島は他の國の舟共多く汐がゝりする處なりしかば、野羊を珍しとや思ひけん、盗みとりて歸りがるよし聞えしが、いつとなう又すくなくなりて、今日一つもなくなれり)今に始めぬおほんうつしみの程皆人の知れる事ながら、恩枯骨に及び徳禽獸に及ぶといへるは、此の君の事をやまをしまつるべきになん、年も改りぬれど猶今年も煙の絶ゆる間は無く、折々は灰も降り石も些づゝは降りけれども、人皆常の事に思ひなし侍りける程に、後々は悔しとも心つかで過しぬ、此三四年前つかたにもありけん、わざ歌に、
嶋の御嶽がどろ/\鳴るが村中早う逃山汐が
と謠ひ、
嶋は段々七嶋八嶋全の止るは中のしま
など謠ひし事のはやりける社をあやしけれ、かゝる災の出来べきさとしの誠にやありけんと、今こそ思ひしられけれ、禍とさいわいとはあざなへる繩の如しといへば、やがて近き程にたとしへなうよき幸の出来侍らんは疑ひなかるべしと、こゝに筆をとゞむ、
天保九年戊戌仲春改寫
伊地知李虔拜
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 523
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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