西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。
項目 | 内容 |
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ID | J0202049 |
西暦(綱文) (グレゴリオ暦) |
1779/11/08 |
和暦 | 安永八年十月一日 |
綱文 | 安永八年十月一日(西暦一七七九、一一、八、)櫻島噴火ス、コレヨリ先キ九月二十九日ヨリ頻繁ニ地震ヲ發シタルガ、コノ日ニ至リ櫻島海岸ノ井水沸騰シ、海水紫色ニ變ジ、次イデ有村ノ上ナル中腹ヨリ爆發シ、續イテ高免村ノ上ナル中腹ヨリモ爆發シ、翌二日ハ活動愈〃旺トナリ、夥シキ灰砂・火石ヲ噴出シタルガ、其レニ續イテ多量ノ熔岩ヲ流下シ、死者百四十八人ヲ出セリ、噴火ノ後所謂安永諸島ヲ涌出シタリ、マタ噴火終熄ノ後、鹿兒島灣北部沿岸ノ地沈下シ、タメニ鹿兒島ニテハ高潮ノ害ヲ被リタリ、 |
書名 | 〔落栗物語〕 |
本文 |
[未校訂]○安永八年九月廿九日の夜、薩摩國かご島の辺、おびたゞしく地震て、人の家居幾度となく鳴動く、驚き騒ぎて夜の明るを待ほどに、やうやく曉に成て少静りたるに、鹿児島の城より一里餘澳なる櫻島と云島山の上より、むら/\と煙立のぼり、見るがうちに雲にたなびき、其中より電して、雨もふらぬに神なる事をびたゞし、しばらくありて、大なる右ども雲より飛下る事、いくらと云数をしらず、こはいがにと人々膽魂をけしけり、彼國は島津氏代々知ける(〓〓)所にて、領主源侍従と申は、かご島の城に住み給ふ櫻島は廻り七里余りにて、山高く聳へて、薩摩の富士といひならはせり、其麓に温泉あり、村里多くつらなれり、租税五万余とぞ聞へし、府の城に近ければ、追々人來て島の山もえ出て、村里に燒ひろがり、人多く死するよしを告るに、府の人々驚て、救ひの船数十艘もよほし漕行程に、雲よりは軽石と云物、沙灰に交りて、雨の如くふりかゝり、眼を開くべきやうなし、海の面色かはりて、底よりも煙立、蕩王の如く湧き上り、魚とも死して波の上に浮たるは、木の葉の散敷たるやうなり、其中を渡らんとするに、彼輕石の風に吹よせられて、行先にたゞよひたるにさえられて、行もかへるも心の儘ならず、とかくして島の者共四千人餘りは鹿児島へ渡し、命を救ひけるが、島の内にて死せし者数をしらず、島山の獸共多く死けるとかや、かご島のあたり沙灰ふり積ること三十余里、雷落ること八所に及べり、侍從殿も府の城を出で、西の方へ立のかれけり、十日の間晝夜のわかちなく燈火をかゝげ、松をともしてふためき騒ぎたり、瀬戸と云ふ所は島と陸との間にて、鯨よる所なるが、沙石に埋れて陸とひとつに成ける、こゝにて船を損ひ命を失ひし者数をしらず、後には地續に成て、其路を走りて遁たる者も多かりしとぞ、海より燃出し所は、土沙を吹上て、島の辺一里ばかり廣き浜のやうに成けり、近き國々へも灰ふりければ、追々に人馳せ來り、此有様を見て地頭へ告しらせ、共に力を合せて其難を救ひけるとなり、十一日は成て、やうやく火鎭りけるに、死人一万余人、傷付たる者は数をしらず、府より救ひに出し中に、一の船海の上にて輕石にさゝへられ、三日の間漂うて有しが、大風起りて石を吹のけければ、かろうじて命たすかり府に歸りけるとぞ、又彼島の内、瀬戸と云ふ所の内藏とかや云ふ者の母、齢八十九に成けるが、かひ/\しく家の内なる婦子共の驚きさまよひしを引つれて、少の糧を持ち、小船に取乘、みづから艫かひを取て、沖の方へ漕出つゝ、かなたこなた漂ひめぐり、海の上〓五日のほど在けるが、飢にも及ばず、つひに命たすかりけるとぞ、九月廿九日は、彼島の祭なりければ、神の祟りにてやけたるとぞ、國人は申ける、
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出典 | 増訂大日本地震史料 第2巻 |
ページ | 519 |
備考 | 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。 |
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)
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