[未校訂]櫻島火變の説、
ことし安永己亥九月廿九月の夜より翌十月朔日、南にあたつて雷の如くにして雷にあらず、天鳴ともいふべくして然にあらず、石火矢などつるべ放つ様に聞ゆ、肥州阿蘇山燒るかなどいへり、程へてきくに、薩摩鹿兒島より南にあたり、櫻島とてめぐり十里もある様なる島あり、晝夜八九十度も地震り、南北の端より火起り、大石を飛すこと六七里の外に及び、風起り、黒烟東南に吹覆ひ、人死傷其数いまだしられずといへり、門生冥数を間に、こたへける様、去年以來、伊豆の大島などもやくるよし沙汰せり、是は櫻島よりは火勢ゆるく、久しき様にきけり、是誠に稀代の變なり、されども天地より見れば常理なり、一體地といふ物は、水煙のふたつの氣にて、烟温造化の用をなすものなり、地の中は、菌辨蜂〓の如しと古人もいひて、菌のうちの理すぢの如く、蜂の〓のあなの如く、蟲ばみたる木の如く、始終あちこちと穴あるものなり、燥とは地の氣なり、故はにカ體はなし、水の對隅のものなり、我輩かくのごとくねつおきつ、噂〓を通ずる處も、其氣のうちなり、地中すべて此氣と水とふたつあり、水は高きに結び、卑き處に化する故、地上にうかみ、燥は地下に生じ、天中に化するもの故、よく地下に伏す、水は川谷を道路として、處によりては伏流するもあり、爆は地中の穴を往來して、欝してあつまれば火となる、其の氣穴、山岳の間に通ずれば、風となるものを風穴とし、火出るものを火穴とし、又時あつて雲霧を起す處ともなる事、皆爆氣の變なり、爆氣の火となるは、水の氷となると同じ理にて、冬の雨露をむすびて霜雪となるも、夏の温熱を欝して雷電となるも、一つ事なり、肥後の阿蘇、信濃の淺間などいふも、其氣の外にぬくるなり、其處は地賦とて、硫黄地復様の地あぶるの結ぶ處にあり、さる處は冷水の中にも火もゆるなり、其外世俗に地獄といふもひとつものにして、温湯といふは、其氣脈の上を水の通る所にて水の煖まりたる也、さる故に其處を流水過れば、本性に復してひゆるなり、海の底にも其氣通する處いくつともなくあり、此うちに右の陽氣伏し、月に壓れば、其氣わきへ行ゆゑ潮かれ、月側なれば、陽氣下よりおこり水に入て水泝る也、水本性は下るものなり、陽氣そのうちに入れば、釜の内の水のわく如くのぼりゆくなり、されどその陽氣は客氣ゆゑに、外にぬけ出ればひとの水となり、又流れて下るなり、右の燥氣、地中の空穴に貯へ、硫黄等の物を醸し、一時に欝發を致すなり、寳永の頃、富士山のやけしも同じ事なり、其内此度の如きは九大變とみえたり、地震は其欝氣發する勢なり、右の陽氣地に欝し、地面を陰に閉られ、無理に其處へ發すれば地震なり、天間の陰氣に閉らるれば雷電なり、秋の初いなづまとてひかるも、夏の地面の陽氣のこれるを、秋陰の氣に肅せらるゝ故に、發して散ずるなり、雷の微にして聲なきなり、天鳴とて天のなるも、雷の如くして聲ある也、此節櫻島の火も、雷と同一理としるべし、傳へ聞に、麑島は北極の出地三十一度位のよし也、此地は○豊後三十五度餘りなり、此處によくその音の聞えたれば、中國あたりにも定めて聞けん、雷百里をうごかすとは、唐のみちのりにして日本の十里にもとゞかぬことなり、誠に雷の音ほどたかきものはなき様なれども、十里にみたず、此節の鳴動は百里にも及ぬれば、物の音にかゝる大なるものはあるまじく覺ゆる也、水の流れ、火の起り、土地の出沒するも、世界にたへぬことにして、もろこしの碣石といふは、世に類なき大石にして、むかしは陸なりしが、今は海の中に島の様に見ゆると聞り、からの西南のはての海に、萬里といひて東西は二三百里、南北は七八里も沙石のみ茫々としてあり、そのあたりは、ことの外〓多く、阿蘭陀船など深くつゝしむ所なり、是むかしは國にてありしが、海に沈みしといゝつたへたり、歴史などにも、地陷るといふ事多し、空穴ひしぐる故と見えたり、是は遠き事なれば定かにもさしがたし、出雲の國秋鹿の郡の北なる海、黒島といふ有しが、元慶三年十二月上旬、俄に落いりて今は其跡とて大石など殘れる事、著問集にも見えたり、又天武天皇の十三年、地震あり、伊豫の温泉つき埋め、土佐の田苑五十餘萬程、沒して海となり、天おびたゞしく鳴り、伊豆の島の西北三百餘丈の高山出來たる事、日本紀にも見えたり、さつまあたりに此度の様の變にて山出來たる事、同じ紀かにある様にも覺へたれども、諳記せず、ちかく慶長元年の七月大地震、速見高碕山なども石崩れ落ち、火出たるよし、府内の記事に見えたり、この時、かのあたり人七百餘も損じたりとあり、寛永の頃、八丈が島のあたり一島を湧出し、年號をとりて寛永島ともいひ、寛永の頃、富士に火起りて一丘を生じ、寳永山ともいふ、水火は時としてかはる物なれば、むかしは富士の烟と〓みしも、今はたゝずなり、下野むろのやしまの烟なども、今はたへぬ、越後蒲原郡如法寺といへるには、正保二年三月より、あつくなき火燃出で、百有餘年をへて今にたえず、足等の事を思ひ合せ、水火の用の工夫あるべきなり、霜月望、重記火變
其後、薩藩の知學事山本正誼の櫻島炎上の記を得てよむに、安永八年巳亥九月廿九日夜より十月朔日にいたり、薩城及東南北数十里の間、地震ふ事しきりなり、其日未の刻を過て、城下東方對岸櫻島の上火起る、もゆれば地震ひ、地ふるへば火もえ、聲雷よりもとゞろき、光電よりもかゞやく、火騰る事数大、石を激して空中に相撃つ、五日を經てその勢漸く衰ふ、されども或は三四時をわたり、あるひは一二日を隔て、伏發常ならず、又東北五六里の海底より炎上る、其響隠〓として日夜やまず、既にして海上一崩〓出す、世〓既〓〓而無〓収餘安〓介〓〓〓〓〓〓一月を經て變動機〓〓〓や有〓〓〓に復〓〓〓〓〓於て櫻島の形勢高低参差、舊觀にあらず、石つむもの五丈大に及ぶ有、灰埋めし二三十〓にいたるあり、地の下風にあるものは、沙石ひるが如し、藩は上總にあるを以て甚しきにいたらず、飛鳥走〓〓沙石にあたり、魚〓は海底の炎に傷〓る。人この炎〓〓〓、、、、、、、るもの百四十有四人、、、、、、、、、、島に村すべて十八あり、火の起る事、古里村、有根村、瀬戸村、黒神村、高免村の上にあたる、是を以てこれらの村民死するもの多し、〓鹿或は海をしのぎて、吉野といふにいたるものありといへり、さきに炎記する者、續日本紀曰、廢常天平寳宇八年十二月、西方有聲、似雷〓雷、時當大隅薩摩西國之堺、烟雲〓粟、〓雷去來、七日之後乃天晴、於麑島信爾村之海、沙石目聚、化成三島、炎氣露見、有如活鋳之爲、形勢相違、望似田阿之屋、爲島被埋者、民屋六十二區、口八十餘人、とあり、薩州にても其地今は定かならざるにや、正誼もこの島なるべしといへり、その後文明八年に焼たるよし、福昌寺の舊記に見えたりとあり、その遺跡、炎崎とてあるとなん、我右火變の〓を得て後に出す、正誼の記に、公命して晝のみる所、夜のみる所の二〓を〓しむとあり、予が得るところは、いかなる人の〓〓る〓近にやしらず、また傳へきゝけるやうは、大變の〓、猪鹿狸狐やうのもの、盡く山林を出て村落に〓り、田〓をあらしたりと、火氣下にうごきて起〓安からざりしゆゑなるべし、櫻島火變記
安永八年巳亥十月朔日午時火發、至十一月初、火猶不成、然亦不甚、入夜〓鹿兒島之地、猶見其光、十一月、南種子島海上五十里、灰積者二寸所、白向境亦然、
島新湧出者ハ、記左、
一此島・潮満レバ不可見、
二此島石多、行歩不自由、巳ノ方高サ七八間バカリ、長九十五間、横五十八間、回リ四所四十七間、
三此島土、間々有リ、回リ八町、高サ七八間許、長三町、横一町、
四此島石多シテ行歩不自由、坪大小四ツ、潮満レバ湯潮相交ル、硫黄多、高免タカメ邑ヨリ卯ノ方、囘七町三十間、高サ四五間許リ、
五此島岩少シ、高免村ヨリ卯ノ方、回リ五十間ニテ一里半四町五十四間・高サ二十間・全長十七町、横三町
六此島土、マヽ石アリ、高免村ヨリ丑寅ノ方、回リ二十六町五十六間、高サ十七八間、長五町、横町餘、
七此島總平ナリ、酒少々アリ、小石多シ、高免村ヨリ子ノ方、曰リ七町五十間・高サ二間余、長一町四十間・横三町、
八此島土石ナシ、高免村ヨリ子ノ方、高二間、回リ八十間、
右笈日見分ニ遣ハサレ、於卸組所々〓、
○〓ハ今略セリ