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項目 内容
ID J0200507
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/12/16
和暦 宝永四年十一月二十三日
綱文 宝永四年十一月二十三日(西暦一七〇七、一二、一六、)富士山爆発ス二十二日ヨリ地震ヲ頻発シタルガ、二十三日ニ至リ、東南山腹ヨリ大爆発ヲナシ、夥シキ灰砂ヲ噴出シ、相模、武藏等ハ降灰ノ害ヲ蒙ルコト甚シ、爾後時々地震及ビ降灰砂アリ、噴出ノ全ク止ミタルハ十二月八日ナリ、
書名 大久保家記日
本文
[未校訂]宝永四年丁亥十一月廿三日、富士山天災に依て頂上より燃上り、其燒砂風廿里四方へ降散す、十二月初旬に及まで降継きぬ。小田原領砂降積る見分の次第、中略北久原村砂三尺許家々軒際まで砂〓り、此より十里新田まで三里ほど、十里木より富士山燒出の所まで二里ぼどあり、佐野、瀬木川の水、御殿場、二橋、深津、西田中、六十町の用水砂に埋り水なし、仁杉村砂七尺溜百姓家軒まで隆積り、家の内一面砂押込、家二三軒潰る、水上新田砂七尺百姓家々根計り少し見る、須走村砂一丈〓高札場砂にて埋まり、札覆の家根計り少し見る、浅間御社鳥居半分過砂にて埋り見へず、拝殿は屋根計り少し見へ、御本社軒際まで埋る、○中略御厨上郷の分砂強く降溜る所は青竹の葉少しも是れなく遠方より汲用ゆ、同五年正月小田原領降夥しく、田畑荒地となるに依て、願の如く御代官所に還し替地を賜ふ、高五萬五千三百餘、○中略
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 240
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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