[未校訂]余在武江日、告客日、夫布有哉、士峯去絶頂三千丈林木陰鬱處、忽燒頽、飛石砂於国郡旬餘、田宅寺宇深埋丈餘、人民失居悉餓死、而爲荒村、余同業所感之、其人也語畢涙沽巾、客爲謝云、信希有哉、士峯事、我生來好事、有異必記、末有如此異聞、請師爲我記焉、余不暇辞、漫筆記云、
夫雲居山棄光輝寺、在〓富士之東数里之地、余居之于時宝永四年冬十有一月二十三日之曉、大地震動、動搖響勢倒門戸、譬過海之舟、如逢波涛之激揚、至辰時西南鳴動、而如百千萬雷声、頃刻而黒雲覆一天日中猶暗夜、空中雨物、大如蹴鞠、落地破裂、忽出火焔、點燈燭見焉、形如蛇骨、黄色而有臭気尚軽、或火焔燒茅屋、飛石殺人、民信謂、三哭壞空時到、男女走少、坐佛前高声唱佛名、慇懃誦聖経、唯要臨終速、至哺時雷声自東西至于中在已屋上、彈指頃而亦東西去、頻雨冰石、大如桃李、甘之有塩味、重如金鐵、至二十四日之曉、雨砂尚微、而雷声亦微也、仰天雲間初見星光、識天末落地、雖然石砂埋屋棟、縱使有天地人民、何以存生命、猶欲速死至、日中有微明猶月夜朦〓、男女患飢渇、要井辺難得、臨大河要濁水潤口唇、至二十五日、雨砂尚微少、而捨燭視親子面、前日行他方者、来告家人云、士峰火災、及困危、鄰郡尚在平安土地、生民聞之蘇息、捨家財、不顧重器、佝僂提攜、而走他邦、欲存生命、鳴呼哀哉、禽獸也、被打雨石無可飛走、飢渇斃、至二十六日、雲間現日光、雨砂如微塵、冏有如李実、斯日始看士峰燒灰積爲一山、至十二月初八日、雷声盡、雨砂尚止、天氣如故、因降釣命弔兆民、钁頭刷地、以量深浅、近村遠郷、平地山沢、自有浅深、富麓之一村者、平地一丈二尺、其山岸深沢、以人力難量、余寺者云、富麓村繞三里、亦去士峰燒穴九里、石砂深厚、平地三尺五寸、山岸深沢、及一丈二丈、五・丈、七丈、鳴呼士峰燒頽希有哉、人民辛苦又大哉余雜話而談人、草書而示公、九牛之一毛也、到曲暢旁通、縱使孟軻氏之好辯、斑固氏之採筆、何盡記焉哉鳴呼士峰火災夫大哉維時正徳二年仲春、龍雲比丘関吏、明山重記焉、又按に其蜩翁草曰、宝永四丁亥十一月廿日頃より、江府中天気曇寒、甚しく朦朧たり、廿三日午後、いづく共なく震動し、雷動頻にて、西より南へ墨をぬりたる如き黒雲靉びき、雲間より夕陽移りて、物すさまじき気色なるが、程なく黒雲一面に成り闇夜の如く八時より鼠色なる灰を降す、江府の諸人魂を消して惑ふ所に、老人の曰、三十九年以前かやうのことあり、是は定めて、信州浅間の燒る灰ならんと云ふによりて、少し心を取直してけるに、段々晩景に至り夜に入るに隨ひ〓強く降しきり、後には黒き砂大夕立の如く降来て終夜震動し、戸障子なとも響き裂け、暗き事晝夜を分かす、物の相色アイロも見ね分ねは、悉家々に燈をともし、往來も絶々に適通行の人は、此砂に触れて目くるめき怪我せしも有とかや、諸人何の故とも知らされは、是なん世の滅するにやと女童は啼さけふ、翌日に及び富士山燒のよし、注進有てこそ人心地はつきにけれ、砂降積るを凡七八寸、所により一尺餘も積りしとて、畢て砂を掃除すといへとも、板屋抔は七八年の後まて風の折には砂を吹落し難儀なりしよし、
右の時駿州富士郡より注進の趣、
昨廿三日晝八ッ時より今廿四日迄の間、地震絶間もなく三十度程ゆり、民家夥敷潰れ申候、偖廿三日晝四ツ時より、富士山夥敷鳴出、富士郡一面に響渡、男女絶入候者多く候へ共、死人は無御座候、然處山上より煙夥敷巻出し、山大地共に鳴渡り、富士郡中一面に煙渦巻候処、如何様の訳とも不相知、人々十方を失ひ罷在候、晝の内は煙計相見へ候処、夜に入候へは一遍に火焔に相成候、其以後はいか様に成候哉不奉存候、先右燒出の節不取敢御注進の爲罷越候処、委細の儀は後より追々可申上候、
右注進の後、〓火気熾に成り、土砂石礫を吹飛し、近国廿里四方へ砂石を降らせ、中にも伊豆相模駿河は所により二丈餘も降積り、堂社民屋も埋れ、田畑の荒あげてかぞへがたし、日を経て漸く燒鎮りぬ、其土砂を吹出せし所穴となり、其穴の口に大なる塊山と生す、世俗呼て宝永山と〓す、本街道より眺れば、右流の半腹に彼塊出耒て瘤の如し、三国無双の名山に此時少き瑕の出來しこそ根なれ