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項目 内容
ID J0200480
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1707/12/16
和暦 宝永四年十一月二十三日
綱文 宝永四年十一月二十三日(西暦一七〇七、一二、一六、)富士山爆発ス二十二日ヨリ地震ヲ頻発シタルガ、二十三日ニ至リ、東南山腹ヨリ大爆発ヲナシ、夥シキ灰砂ヲ噴出シ、相模、武藏等ハ降灰ノ害ヲ蒙ルコト甚シ、爾後時々地震及ビ降灰砂アリ、噴出ノ全ク止ミタルハ十二月八日ナリ、
書名 〔富士山燒之事〕寄〓集覧
本文
[未校訂]宝永四丁亥十一月廿日頃より江府中天気曇寒気甚敷朦〓たるに同廿三日午刻時分いづく共なく震動し電鳴頻にて西より南へ墨を塗たる如き黒雲たなびき雲間より夕陽移りて物すさまじき気色成かなく黒雲一面に成り闇夜の如く晝八時より鼠色成る灰を降す、江府の請人魂を消して惑ふ所に、老人の申けるは此三十八九年○椎之実筆廿八年ニ作ル、以前加様の事有り、是ハ定めて信州浅間の燒る灰ならむと云、仍で諸山少心を取直しけるに、段々晩景に至夜に入るに隨て〓強く降志きり、後には黒き砂を夕立の如く降來て終夜震動し、戸障子抔も響き裂、恐しさたとへ方なし、惣して晝八ツ過より空暗き事夜の如く物の相色も見え分ねハ、悉く家々に燈をとぼし、往來も絶々に、適通行の人は此砂に触れて目くるめき怪我抔をせしも有とかや、諸人何の所以を不知ハ、是なん世の滅するにやと、女童ハ泣け、ふ処に、翌日富士山燒小御注進有てこそ扨は其砂を吹出して如此ならんと始て人心地そ付たりける、砂降積る事凡七八寸、所に寄一尺余も積しとそ、事畢て砂を掃除すといへとも、板屋なとは七八年過候以後迄も風立候折には、砂を屋根より吹落し、難儀いたしける由、亦翌月より春に至感冒咳嗽一般にはやり家々一人も洩す是に〓さる、其節狂歌に
是やこの行も歸るも風ひきて知るも志らぬも大方は咳
前代未聞の事共也、右の刻駿州富士郡より注進之趣昨廿二日晝八ツ時より今廿三日迄之間地震間もなく三十度程ゆり、民家夥敷潰れ申候、扨廿三日晝四時より富士山夥敷なり出、富士郡一面に響渡、男女絶入仕者多候へとも、死人は無御座候、然処に山上より煙夥敷巻き出し山大地共に鳴渡、富士郡中一面に烟渦巻候故いか様之譯共不相知、人々十万を失ひ罷在候、晝之内ハ煙計相見候処、夜に入候ハ一遍に火炎に相成候其以後如何様に成候哉不奉存、尤右燒出し候節、不取敢爲御注進罷越候故委細之儀ハ跡より追々可申上候由、
右注進の後〓火気熾に成、土砂石礫を吹飛し、近国廿里四方へ砂石を降せ申候、伊豆相模駿河へ所に寄て貮丈余も降積り堂社民家も埋れ、勿論田畑の荒れ夥敷、日を経て梢々燒鎭火ぬ、其上砂を吹出せし所穴と成、其空の口に大なる山を生す、世俗呼て宝永山ンと号す、本ン海道の方より眺れハ、右流の半腹に彼塊出來て瘤の如し、左計三国無双の名山に此時少き瑕の出來しこそ恨なれ、○惟之実筆同シ
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 225
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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