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項目 内容
ID J0200018
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1694/06/19
和暦 元禄七年五月二十七日
綱文 元禄七年五月二十七日(西暦一六九四、六、一九、)羽後國能代及ビ其ノ附近、地大ニ震ヒ、四十二ケ村ニテ二千七百六十戸潰レ 死者三百九十四人ヲ出セリ、津輕モ地震強ク、岩木山硫黄坑火ヲ発セリ、
書名 〔元禄地震の記〕代邑御見録
本文
[未校訂]元禄七年甲戌さつき末の七日、明行空は薄墨をたゝへ、出る日は朱の盆を浮べるが如く、時ならず東凡蕭颯と面を打、何となく物すさまじくあやしみながら、唐土人の五月秋と詠じけんも是〓の気色にやと思ひ捨し、辰の刻頃大地俄に震ひ出、皆足を空に逃出けり間もなく鎭まり家に入ぬ、朝寢の人々も是に驚き起出、聞も傳へぬ強き地震、梁など外れざるやなといふ内、ゆり返しぬ、あはやと又逃出して、予は、妹の逃兼けるが手を引て四五歩台所土間へ下りしに、家をもてあげ、落すやうに壁の崩るゝを見兩手を頭上へ組ければ、拍手や能りけん、壁わかれて難なく屋根へ出見渡せば皆潰て平地に成り、朝炊の時なれば、火の手方々に見え、人は一人も見えざりければ、我のみ生きて何かせんと、十方に暮しに、妹が呼声に気附、我が出し所より是も難なく取出しぬ、然る所に実兄其外下人共遁れ出、屋根へ来り、かしこ爰取のけ、家公並に慈母の梁に押れ給ひしを取出し奉り、下女も堀おこしぬ、彼音信に隣よ来りし退、穿に髮をはさまれしも起して返しぬ、只五才になり、妹の背負れ梁に打れ果けるのみぞ長き思ひ草なりけり、〓れ〓家公を始、下々まで無慈、悦ひあまり有けり、火は遠なれば家へ入りて〓庶の樣の物取出すは安かりけれども、度々震て止まざりければ、たまたま生きたるからき命失ひては、手を空うするに似たりと、上下堅く禁じて、手近に最安き計を取かた付ぬ、後に聞けば、難なく出けるも、調度に目くれ、再應出入して梁に打れ、或は出所をふさがれ燒死けるも多かりしとかや、其の外さまざま、一時の内の盛衰まことに夢幻泡影の金言初めて思ひしられける、中にも哀なりしは、丸尾何某がむすこ十四五才ばかり成しに父は國許へ上り、母と二人居しに、跡先に逃出けるが、母は梁に打れ出兼しにより、何とぞ取出さんとしけれども手に叶はず、身もたへけるを見て近所の者も力を添へしに、間もなく火懸り、是非なく立去れと母も共に言けれども、独り生て何かせんと、母が居りける所へすり入、共に燒死けり、亦相沢氏の妹十五六才成りしに梁に押れ出もやらず有ける。大勢集り手をくだき、兎や角しける内火懸りぬ、此乳母なりし五十有餘の老女歎き悲み、其側へすべり入、共にやけ果ぬ、孝なる哉忠なる哉、たつらべに共に上に立ん事難くなん、後に手元正久公聞給ひて、感情のあまり、彼兩靈が祭奠を給はりしぞいと尊かりし、其外親を忘れ子を捨逃まどひ、梁に圧れ石に打れ怪我せしも多かりし、偖難なき所へ家公慈母を置奉らんと出けるに、臼子焉師に逢ぬ、地獄に佛とやらん心地して、いかにやと計也、さればゆり出され思ひ出て
つくづくと世は人間の浮巣かな
と発句せしと宜ふにぞ、うきも忘れたりける、
日頃すける道とて、斯くおそろしき中に思ひ寄り給へるも有難き、御休所より御在府屋敷の辺少々靜なりければ、御在所屋敷南の万柵をかたとり露よけして土手の上に二三日休め奉りぬ、実兄と予は下人共と屋敷を守て居ぬ、晝夜隙なくゆりけるにより、彼小屋へよりより立奬りしに、地かたまらず、浮橋を渡る様にて、強く踏は奈落へ落ぬべき心地す、所により水湧出、地下りしも有、川も沈て浅くなり、十日餘りは向へ歩行越にもしけり、角浅ましき人の心落着かざるに、馬を引かけ、燒倉の米は貭物など盗取りしも有けり、廿九日とやらん、津浪より来ると騷たりけり、海面靜に入船も有ければ、何でさあらんといへば、川上より押来ると口々に〓、諸人騷たち、屋敷打捨逃るもあり、彼盗人等も曳来る馬、盗し物も打捨逃行けるぞおかしかりき、日数経て銘々屋敷に立帰、草の庵より猶軽き住居ながら、手廻一所に集り、少し人心地ぞありけり、地震以後は照続き五三年覚なき暑にて晝夜蝿蚊に責られ、所々鳴呼の声絶ず、又折々震ければ稱名の声も絶ざりけり、家公慈母の傷めるも則療養も成かたかりしに自然と癒ぬ、都て此度の打疵は一生発せざるも不思議なり、産屋より震出され、震内に産しけるも有けれども一人も怪我なかりけり、常は少の地震にも血を上死るもありしに、誠に氏神の御恵成べしと諸人尊ぶも宜なり、又かうやうの事前から告も有べき事なるにと恨むやからも多かり、其彌生の頃、大森下浜菅交りの沙中より大きなる埋木一夜に湧出せり、長さは五丈許大さは三囲程あり珍事なれば見物引もきらざりし、亦さつき初頃には、山王権現拜殿の前にありし石燈篭一基、風なきに倒れて遊び居けるわらんべ一人打殺しぬ、海も折々鳴けるとかや、是等は前表なるべけれど凡慮の及ぶことにあらざれば、只何となく打過ぬるぞ悲しき、午未兩年の火難、此大変に逢ぬれば、大半野代住居思ひ切て他所へ心懸しに、上より御惠厚かりければ、忽心飜りて、家屋も大方其年中に揃ふて安堵しけるぞ有難き覚、
一、家数千百三十二軒、内七百二十軒燒失、四百十二軒半潰
右は荒町上町より清助町まで大町は無残燒失、
一、土藏百六十二内百三十六燒失、二十六潰、
一、米一万四千九百石餘燒失
一、大豆五百九十四石餘燒失
一、小豆三百八十八石程燒失
一、粟二十石程燒失
一、死人三百人、内百二十七人男、百七十三人女、
一、死馬二疋
一、寺院の内清助町明行寺、稲荷町三明院は燒失、其他は半潰、
一、御米蔵御米迄燒失
一、御休所、御在府屋、沖口御番所、給人町、寺町通リ御材木場迄は潰候も有之候得共燒失は無之、
右之通去月廿七日地震出火跡凡の調に御座候
元禄七年戌閏五月
野代
出典 増訂大日本地震史料 第2巻
ページ 5
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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