西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。
項目 | 内容 |
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ID | J0100775 |
西暦(綱文) (グレゴリオ暦) |
1662/06/16 |
和暦 | 寛文二年五月一日 |
綱文 | 寛文二年五月一日(西暦一六六二、六、一六、)山城・大和・河内・和泉・攝津・丹津・若狹・近江・美濃・伊勢・駿河・三河・信濃等ノ諸國地大ニ震ヒ、人畜屋舍ノ被害夥シ、彦根・膳所・水口・淀・伏見・尼ケ崎・高槻・岸和田・亀山・篠山・小濱・桑名等ノ諸城破損セリ、近江比良嶽附近ハ震害特ニ甚シク、滋賀・唐崎ニテ潰家千五百七十戸ヲ生ゼリ、朽木谷附近ニハ山崩ヲ生ジ、谷ヲ埋メテ丘トナセリ、京中ノ潰家ハ約一千、死者二百、其他ノ死者六百ニ達ス、津輕モ地震強シ、 |
書名 | 〔御日記〕 |
本文 |
[未校訂]朔日より四日迄の間毎日地震二十七八度より三十度に及ぶ、七月に至つて尚己まず、依之洛中の堂塔佛閣大半ゆり崩す、大地は一尺計づゝゑみ破れ、小踏小路の家々崩土烟立てヽ冷し、京都祇園石の鳥居も笠木を搖落す、五條の石橋も崩れ、三條の橋も落ちかゝりぬ、大地は車など引くやうに鳴亘り、そのあと必ず大に震ひける程に、或はをしに撃たれ、或はきず付て片輪に成者其數を不知と云々、又三卅の内三宅隼人領地より注進して云、今度の大地震に屋屋悉頽れ田畑は土を起し新に川と成、又平地は俄に丘山となる云々の由飛脚到來す、伏見の町屋三百餘宇漬る、此外破損の家百八十軒餘、土藏十五ケ所潰る、死人四人有之、同所御香の宮は別條なし、石の鳥居、石灯籠などは不殘倒ると云々、向島の堤は三百間餘切る、内四十六七間は地へ四五尺程搖り込む、六地藏の舟入北の方の山八十間餘崩る、東の方は二十間餘、南は悉く崩る、町並の家十三野潰ゐ、大阪にては豊後橋の石臺崩かゝる、故に橋少し傾く、京橋肥後町も杭を搖込み所々さがる、江州大津野惣左衛門居屋市並に町屋大分破損す、但し公儀御米倉は殘らず頽る同國膳所の城の天守矢倉は別條なし、其外は悉く潰る、同國永原の御殿樓二ケ所搖落し、其外所々破損す、同國大溝分部伊賀守家中の家悉く頽る、漸く五軒相残、町屋は三百軒程の内二十斬殘る、領内の民屋凡て千二十軒餘潰る、死者男女二十人、馬五疋斃る、同國志賀辛崎兩所の内一萬四千八百石の所、田畑八十五町餘搖込む、在家千五百七十軒潰る、是は小野宗左衝門御代官なり、都て近江一國の内にて百姓の男女四百十二人死す、牛馬九十三又斃れ、堤二千二百間餘切る、志賀郡の内榎村には家數五十軒餘ある處にて三百餘人死す、同所町村と云ふ所にも家數五十軒餘あり、爰にて三百餘ある人の内にて、三十七人殘り、其外は死骸も見えず、家共皆々地の下になる、此處朽木谷よりは二里南なり、此所の山割れ出て谷へ崩れ落ち、谷を埋め却て高き山となる、其高さ二町計にして長さ八町餘つゞきたり、右の人家は此土の下に埋れたり、右の外色々の事有しかども無限事故略之、同日江府も大地震大雨ふる、
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出典 | 増訂大日本地震史料 第1巻 |
ページ | 831 |
備考 | 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。 |
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)
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