松田毅一監訳 一九八七・九・二五 同朋舎出版発行
一五九六年(九月十八日付、都発信)
十二月二十八日付、長崎発信、
ルイス・フロイスの年報補遺
(前略)
第四の不思議は、他のいかなることよりも恐怖と戦慄を覚えさせた新たな前代未聞の地震であった。それによって非常に多くの、そして大いなる損害と破壊が起こり、人々の記憶には決して見られたことも聞かれたこともないほどのものであった。この悲惨な事件の真相が、その最初の起こりから理解されるように、我らは大坂と都(ミヤコ)での、幾つかこのことについて記録したものを紹介することにする。
まず、大坂に居所を有する我らの司祭は次のように報告している。
本年(一五)九六年八月三十日夜八時に、地震が起こった。地震はしばらく続いたが何らの被害ももたらさず、ただ来るべきことを警告しただけであった。九月四日の真夜中に、突然非常に恐ろしく、震動の激しい地震が起こったが、人々にとっては屋外に飛び出す余裕もないほどであった。
私はその地震によって生じた破壊を一部分は自ら目撃したし、また一部分はそこに居住しているキリシタンたちの口から知った。最初に、先に述べた地震は、太閤が永遠の栄光の望みに駆られ莫大な費用と高慢さをもって、この(大坂の)市(まち)に建築した非常に豪壮華麗なそれぞれの建物を揺り動かし始めた。しかも(地震)は、(太閤)がシナ使節たちを迎えようと考えていて、その荘重さと多彩なことで一同の目を集中させていた千畳敷のあの広壮ですばらしい宮殿を最初に倒壊してしまった。ところで(太閤)は最近、月見櫓(ツキミノヤグラ)(Ecuquinimo Iagua, *taiquimino y#gura)、すなわち塔(turris)、または城郭(propugnaculum)を、すばらしい技巧と優美さをもって建立したが、そこからは月が眺められる。この櫓全体が、巨大で非常に高い門〔それを通って城郭(propugnaculum, *fortaleza)への通路が開いていた〕、およびそれらの(塔と門の)棟の突出した穂先(capitellus, *chapiteles)〔その或るものは非常に堅固な材木によって極度に緊密に作られ、或るものは鉄の締金によっで外観と誇示のために非常に美しく作られていた〕とともに土台から倒壊した。天守(テンシュ)(閤)と呼ばれる七層から成るすべての中でもっとも高い宮殿の城郭(propugnaculum)は倒壊しなかったが、非常に揺れたために誰もそこに住まおうとせず、また全部を取り壊さぬ限り修復はできない。同様のことは城郭の他のほとんどすべての諸建築物に及んだが、太閤はそれらの中にいて、それらの建築物の美麗さと絢爛さと輝かしい装飾を楽しんでいたのであった。城郭の近くにあったヨーロッパの貯蔵庫に似たすべての納屋も倒壊したが、それらの中には糧食類が貯蔵され、どの大いなる殿たちでさえその中で住めるほどに立派に整然と並べられていた。その納屋は非常に広く食料に満ちていた。最後に、すべての中で一番高く、私が言ったように、七層にまで積まれ、その修復のために最終的な手が加えられ、すべてを金箔でめぐらした居間〔そこから(太閤)は非常に絢爛たる装備と隊伍を組んで凱旋行列する十五万の歩兵と騎馬を、シナ使節たちに見せるために展開させるよう決めていた〕を有するあの塔(turris)は、半時してから全部倒壊した。同じ日の正午に、大坂の市(まち)では屋根瓦で覆われた家々やその他の諸建築物の大部分が、とりわけ川沿いで倒壊し、噂によると六百人以上が倒壊によって押し潰されたということである。地震は最初、非常に激しく何回もあり、そして大きな地鳴りと鳴動を起こし、あたかも雷鳴の轟きや岸辺に打ち寄せる海の波音をまねているように思われ、そして非常な恐怖をもって人々の心を揺り動かしたので、毛髪はそれらによって逆立つほどであった。多くの地方では大地の割れが起こったが亀裂はそう深くはなかった。(或る)家の近くに、巨大で優美な形をした最近建てられた寺院が建っていたが、それはすぐに崩壊した。大いなる権威をもった高位の或る身分の・高い仏憎が住んでいた僧院も倒壊して、その崩壊は仏僧を押し潰した。
太閤は千畳敷きのある、あの構築された政庁の前に巨大な諸々の石をもって城壁を構築したが、それらの幾つかは千五百人によってやっとその場所へ運搬できたものであった。この城壁は、二、三ヵ月前に城壁の土台に流れ込んだ多量の雨のために倒壊した。そしてこの地震の二ヵ月前に、(この城壁)は、以前にまさる労力をもって修復されたものであった。しかし人間のすべての労役は何の役にも立たず、すべてがこの地震によって、土塊と同然に過ぎなかった。
地震前の同日(九月四日)夕方に、私はあまり健康がすぐれなかったので空気を吸うために散歩に出たが、二つの寺院が建っていた街道の方へ通って行き、太陽が沈む頃両方の寺院に入ったところ、私はその中で民衆への説教が行なわれているのに出くわした。私はその一つの僧院の中にしばらく立ち止まり、一人の説教者が非常に多くの譬え話を用いて、人類に対する阿弥陀の慈悲に触れながら、彼らが救済を得るためには死期に際してその助けを求めるべきことを説明して、一同を感嘆させ聴衆たちの心を奪っているのを聞いた。(説教者)はまた彼らに、阿弥陀の名を唱えることをやめないように勧めていたが、皆は説教が終わると声を高くして阿弥陀の名を唱えていた。しかし同夜、その寺院は倒壊し、非常に美しく飾られた偶像と墓地は粉砕され、台無しになってしまった。仏僧の説教者は傷を負いながら、他の半死半生の人々といっしょに脱出したが、彼らの中の幾人かはその後に死亡した。
最後に、太閤やその他の多数の殿たちの高貴で大きな諸々の建物、仏僧たちの諸寺院、川沿いにいた市民たちの(建物)の大部分がまったく崩壊してしまった。この光景は非常な悲嘆をもって人々をとらえ、落胆した人々は、あたかも失神したようになっていた。多くの人々は広場で眠っていたが、他の人々は自分たちの家でも戸口を開け放ったまま眠っていた。なぜなら(地震)はゆっくりでひどい衝撃を伴ってはいなかったが、その振動は何日間も継続したからである。
別の司祭(フランチェスコ・ペレス)は、(一五)九六年九月十八日に次のような報告をしている。
この都(ミヤコ)地方では、大きな恐るべき諸々の不思議なことが起こった。なぜならこれらの領国では大量の灰が降り、そして或る地方では非常な量にのぼったため、家々の屋根や樹木はあたかも雪が降ったように覆われていた。別な地では赤みがかった細かい砂塵までが降り、ついには昼半ばになると老婆たちによくあるような白髪の雨が空から非常に多く降ったので、すべての道路と家々はそれらで覆われたほどである。そしてすでに伏見へはシナ使節一行(歓迎)のために非常に遠方の各領国から大多数の軍勢が参集していたし、また(使節が)通過すべき道路は非常に美しく飾られ、また通過することになっていた順序も皆に通告されていたのに、それ見よ、九月五日木曜の夜十一時頃に突然、空は静かに晴れ渡っていたのに、非常に恐ろしく戦慄的な地震が起こった。地震はその後一晩中続いて、地下界において地獄の権力の間に巨大な抗争が起こったように思われた。そして非常に大きな雷鳴や爆発音よりも大きな、これまで聞いたことのないような轟音があった。そのため(その轟音)は人間だけでなく動物たちにも信じ難いほどの恐怖を与えた。人々は仰天のあまり家々をすて、広場を通って逃げた。やっと地震を抜け出て来た人々は、妻や子供や親族たちが倒壊によって押し潰されたのを嘆いていたし、またある人々の瀕死の声が廃墟の中から漏れてくるのを聞いた。ある人々は地面が彼らに対して亀裂して生きたまま呑み込んでしまいはせぬかと恐れて、彼らが助かるように涙ながらに阿弥陀の名を唱えていた。
我らのキリシタンたちは、我ら(司祭たち)の事態がどんな様子であるのか、もしできるなら援助しようとわれらの諸司祭館へただちに駆けつけた。しかし我らの主なるデウスは、我らの司祭館には何らの災害も起こらぬよう望み給うた。しかし我らはただちにその(司祭館)から中庭へ飛び出して、地震のため跪(ひざまず)くことはほとんどできなかったとはいえ跪いて諸聖人の連祷を唱えた。その日の夜に修道士某は船で(都から)大坂下って行ったが、切迫している危険がないわけではなかった。なぜなら水嵩(みずかさ)は、四、五ブラサ高くなっている川岸の高さまで(水位を)増していたからである。
この時伏見の町全部が倒壊したという噂が流れたため、無数の人々が都(ミヤコ)から伏見へ馳せつけた。たしかに、やがて述べられるように、そこにある立派なものが倒壊した。この都の市内で三百人の人命が失われ、そのほかに六条という南部の境界地では二百人が死亡したとのことである。我らの諸司祭館付近では、たまたま屋根瓦を葺いた厨房で一人の婦人が下敷きとなって死亡し、また彼女の夫が重傷となった以外に損害はなかった。フランシスコ会修道院に隣接していた貧困者たちのために設けられた治療院の半分が倒壊して十名の患者が死亡した。寺町(Toramadie)と言われる或る場所では、十五ないし二十の寺院と諸僧房が倒壊して多数の人々が圧死した。内裏の宮殿の前にあるQuitanotonfinでは二十畳敷の巨大な寺院が倒壊したが、そこに宿泊していた八十名のうち、わずか二名だけが難を免れたが、その二名は二、三日前にそこを退去していたからであった。大坂の一仏僧の寺院も付近の多数の屋敷とともに倒壊し、またその地方の家屋の半数が倒壊した。
都の市街の入口にある最大の寺院である東寺のすべての寺院も同様に倒壊した。この寺院は、高野(コウヤ)で生きながら埋められた一人の仏僧(空海)によって七百年前に建立されたのであった。同様に周囲をぬぐらしていた(その寺院の)大きな厚い壁も倒壊したが、それは都から見ることができた、非常に立派な記念物の一つであった。本堂(ホンドウ)と呼ばれている非常に高く聳えた塔をもった、すべての中で最大の寺院一つだけが、倒壊から免れた。新しい大仏(ダイブツ)のほとんどすべての壁が、途方もなく巨大な石とともに倒壊し、四隅にある柱はその礎石といっしょに一パルモ半以上沈下した。太閤が都の近くに造営させて、最近完成した大仏(殿)の機構自体〔巨大さという点では、日本全国にそれより大きなものは見られず、その中で仏(ホトケ)のすべての彫像が黄金で輝いている〕が、身体と手の部分を粉々にして倒壊し、また非常に精巧に仕上げられた壁も大仏(殿)の主要な門といっしょに倒壊した。鍍金彫像の千二百体の偶像を納めた三十三間(堂)と言われる巨大な寺院では六百体が倒壊し、互いにぶつかり合って頭部や腕や脚部が非常な破砕音を発して壊れたので、あたかも地獄の魔鬼自身が寺院の中で互いに掴み合いをしているようであった。この事件は都の市民たちに非常な悲しみを与えた。なぜならその場所は、その偉観と都の高貴さの誇示のゆえに、(市民たち)の憩いのために特に向けられていたからである。市(まち)の他の種々の場所でも、幾つかの大寺院が倒壊した。(織田)信長の甥パウロ(秀則)にとっては厨房一戸だけが倒壊し、三、四人が死亡した。一般の家屋は無数が倒壊した。或る露路では、そこのすべてが倒壊した。多くの(家々)がひどく震動したため(いっしょに)地上に倒壊せざるをえなかった。同様に地震は、日本国でもっとも参詣される富裕な悪魔(サタン)であり、非常に高いところにある愛宕・太郎坊(*Atango taronbo)の七寺院を倒壊させた。
以上のことから推測が許される限りでは、デウスによるこの天罰は、太閤が己が最大の巨大な資力を投入して高慢で華美な諸建築物を造営し、またなお引き続き造営している伏見に対して主として向けられたことが判る。なぜならこの市(まち)では、この地震の猛威は他所よりも激しく、また破壊はずっと全般的であったからである。この(市)には非常に高い塔(turris)や宮殿、寝所、殿舎、柱廊があり、それぞれが黄金や種々の絵画、彫刻で輝いていたが、太閤自身の非常に広大な居間までが倒壊し、噂によれば、(地震は)そこの七十名の侍女や高貴さで有名な幾人かの婦人たちを押し潰したということである。城閣の中では、太閤が奥方と息子とともに住まっていた、大坂のそれに似た千畳敷の宮殿しか残らなかった。(太閤)はそこから急いで逃げ出してどの方面からも安全な厨房へ逃げてから、飲水を少し欲しがり、逃げおおせたことを非常に喜んだ。やがて同じ場所へは浅野弾正(長政)の後に(前田)玄以法印が駆けつけたので、彼らの到着は(太閤の)心を静めた。彼らに続いて(徳川)家康と(前田)筑前(利家)殿が来たので、(太閤)は彼らといっしょに夜を明かした。何らかの造作を観賞するために造られた或る城郭(arx)は災禍を免れていたが、(太閤)はその後それが傾斜しているのを見ると、自分が命からがら逃げてきたある千畳敷の宮殿といっしょに地面にただちに引き倒すよう命じた。なぜならその(城郭)は地震によって一方に傾いたからである。太閤は翌日の早朝に、先の国主たちといっしょに城郭とは反対側の非常に枝を広げた松が立っていた山の方へ行き、今までのすべての工事を中止して、そこに別な城郭を造営するために、その場所を地ならしをするよう命じた。人々の言うところでは、太閤はこう言ったということである。「天道(テントウ)、すなわち神様(デウス)は、このように華麗豪奢な諸建築物を、当然のことだが嫌悪なされた。それゆえ今度は当然、より質素なのを建てることを予は心に決めた」と。太閤は今回の不幸な事件によってことのほかに狼狽し、驚嘆し、悲観し、戦慄した。都(ミヤコ)の所司代(前田)玄以法印と、他の二名(徳川家康、前田筑前利家殿)を除いては誰もあえて彼に話しかけることはなかった。(太閤)は邸では眠らず、非常に軽い板で覆われた茅葺きの家の中で眠った。彼は自分のすべての建築物が倒壊してしまい、また彼が見せようと考えていた楽しい遊興や見世物が、かくも多くの町々や場所のこれはどの悲惨な荒廃と、かくも多くの人々の死へと変わったのを目撃した時、外部には示さなかったとしても心の奥底の感情においては非常な悲しみに苦しめられ、また心を引き裂かれたことは疑いあるまい。我らの主なるデウスが、(彼の)死去以前についにその御意向を彼に分かち与え給うよう願う。
(徳川)家康の邸宅の大部分がその間に倒壊し、多くの人々が死んだが、なかでも彼が非常な愛顧を示していた政庁の或る重立った殿がその妻とともに死亡したため、彼は彼らの死をいたく悲しんだ。(以前)関白殿(秀次)のものであったが、彼の殺害後に太閤から(前田)筑前(利家)殿に贈られ、伏見の市(まち)でもっとも高貴で美しい建物の中に数えられていた邸宅は、ひどい震動を受けたため取り壊して新たに基礎から建て直さねばならなかった。伊達(政宗)の邸宅は、百名の人々と厩舎にいた非常に立派な二十頭の馬とともにすべてが倒壊した。(前田)玄以法印の諸屋敷も倒壊した。しかしそれらにはデウスの特別な摂理が表われた。なぜなら(数々の)寝所がある中でただ二つの寝所だけが完全なままで建っていたが、その一方には奥方といっしょの(前田)玄以法印その他がいたし、またもう一方には彼のキリシタンの息子たちが同様にキリシタンの幾人かの甥たちといっしょにいて、彼らの中の誰も死ななかったからである。それなのに他の(建物の)中では、十ないし十二名の異教徒たち、すなわち半数以上が死亡した。
すべての道路が、政庁に自分の座をもっていた他の重立った人々や高貴な殿たちの邸とともに転倒して、大勢が同様に死亡した。最近伏見に建築された仏僧たちの伽藍も倒壊したし、また屋根瓦で覆ったすべての家々も同様であった。非常に多数の死亡者がでたため、彼らの習慣に従って屍体を火葬することができず、水葬にしてしまうか、または市に近い谷間へ投棄せざるをえなかったが、その谷間は屍体で一杯になり、山のような様相を呈したほどである。最後に、人の言うところによれば、伏見では二千人が行方不明になった。
伏見の田舎で、市の近辺に作られた、貴人たちが慰安のために一年のうちに何回か訪れていた庭園や別荘のようなものも崩壊して、無残な形になった。
都に近い丹波の国において、とりわけその辺境の諸地方においてはもっともひどい崩壊が起こった。これに対して内陸地では非常に少なかった。そこには太閤から(前田)玄以法印の長子(前田)左近(秀則)殿に十分な扶持をつけて与えられた全領国の中で重立った亀山の城郭があった。しかし全(城郭)は地震によって非常な被害を受けて山のようになった。そこでもデウスの御摂理が現れた。なぜなら(前田パウロ)左近(秀則)殿は地震の二日前に、己が妻に家族全部といっしょに大坂の義父の阿波守(蜂須賀家政)のもとへ行くよう命じたからである。そして彼自身は、己が兄弟や一族のミゲルとともに伏見に赴いた。こうして、人の噂によれば、この(亀山の)城郭の崩壊では、わずか二名の婦人が死亡したに過ぎなかった。千軒の家々が建っていた付近のすべての田畑は非常に荒廃し、わずか八軒の家が残り多数の死者がでた。
山崎(ヤマザキ)は都(ミヤコ)から堺の方へ三里(レーグア)隔たった、百軒の戸数がある大きな村落である。そのすべての中でわずかに九ないし十軒が残り、百名以上の住民が死亡した。村から遠く隔たった高台にあった仏僧や隠遁者たちの諸寺院は、すべてが倒壊し、また仏像も空しく倒壊した。この村の別の物体はもっと巨大なもので、日本人たちの軍神で、武家たちのもとで非常な栄誉を受けている八幡(ハチマン)の礼拝にすべてが献げられていた。そこはかつては、すべての犯罪者たちの避難所であった。この村には小山があって、そこにはすべての領国からの巡礼者たちの頻繁な訪問を受け入れるための多数の寺院や僧房があった。しかしそれらすべてが倒壊し、そして家々の惨事によって二百五十人以上が下敷きになった。
(摂)津の国には祭壇に十字架を据えた教会が建てられ、それに因んで「聖十字架教会」と名付けられた。この教会も倒壊したが、十字架は以前のように不動のまま祭壇に残っていた。同じ領国では、山から転げ落ちた巨大な岩塊が、人間たちの大きな力を台無しにして公共の道路を塞いでしまったため、多くの廻り道と方向転換をしなくては道を進むことができぬほどであった。
堺とは反対の海を隔てて五里(レーグア)離れた所にある尼崎(アマガサキ)の市(マチ)は無視できない。そこには壮大で美麗な仏僧たちの僧房があったが、人々の噂によればまったく倒壊したとのことである。この(摂)津の国には、日本国全土でもっとも有名な諸々の温泉があり、健康に非常によいので多数の湯治客がある。恐るべき地震は不意にこれらをも襲い、またそれらの周辺の家々は高楼に作られていたので、それらには湯治客が滞在していたが、その倒壊によって、人の噂によれば、六百人以上が押し潰されたとのことである。
下(シモ)から都へ海路で行く途中に、左手に都から十八里(レーグア)離れたところに兵庫(ヒヨウゴ)という市がある。私も三十三年前に都へ行く途中にこの市の屋根を眺めたことがある。この市は三つの地域に分かれており、その中の二つは仏僧たちの寺院や僧房で占められ、第三番目は商人やその他仏僧たちの使用人たちが居住しているところである。(織田)信長の時代に市の大部分を破壊されて、寺院は以前の状態に戻ることはなかったが、大商人その他の一般民衆によって市はふたたび人で満ちた。ところが今回の地震は非常に激しかったためその大部分が崩壊し、人々の言うところでは間もなくその大部分が火災に遭ったとのことである。すなわち崩れ落ちてゆく竃(かまど)から火の手が上がり、乾燥した木材に火が燃え移って火は風の勢いで完全な(姿で)立ち並ぶ家々をも獰猛に焼き尽くしたのであった。
淡路(Auangani, *Auangi)の国の第一の城郭は近隣の地とともにまったく崩壊して荒廃した。大和の国の郡山の城もまったく崩壊した。(摂)津の国にあって、大坂から都へ行く途中にある枚方(ヒラカタ)の小さな城は、押し迫っている山の地滑りによって多数の惨死者を出した。
山口から一日半工程の長門(ナガト)の国に下関という日本国で非常に有名な海峡があるが、それは下の諸領国を中国という他の諸領国から分離させている。この(長門の)領国に広い地方があり、我らの(イエズス)会は迫害が起こる以前に一司祭館をもっていた。この海峡は深いだけでなく波が荒いので、船舶は満潮になると飛び廻っているように見える。この海峡は、かの地震の最初の地鳴りの時〔事態は下関では何も見られず、また想像もつかなかった〕、潮が引いてしまい、そして大地がすっかり間に割り込んできたようであった。このことは人々に非常な驚嘆を与えずにはおかなかった。
これらのすべての崩壊と荒廃は九月七日に起こったのである。当日の夜、地震の最初の振動が起こってから今日まで十二日を経過している。今なお大地は震動し、夜にはもっと大きな諸震動があるので、先の震動によって継ぎ目の緩んだ多くの家々を、それらの震動はついには崩壊へとひきずって行った。そういうわけで誰も、家屋の中、とりわけその二階には留まることなく、公の広場に残っていた。もし或る大地震がふたたび起こったなら、この都の市(まち)では夜の何時であろうとも地下に巨大な鳴動と震動が生じ、船は恐るべき嵐によって動揺するであろう。地震がやんでも一同は恐怖の中にあり、新たな災難の到来がありはせぬかと戦慄している。
願わくはデウスがその御慈悲によってこの諸々の最悪の事態を終らせ給い、またその恩恵の光によって、これらの異教徒たちの眼を開かせ給い、かくて彼らが(デウス)の恩恵を認めてカトリック教会の懐に入れられるように。
一五九六年九月十八日、都において。
堺の(地震)について
有馬(晴信)殿の叔父は(千々石)ジョアン(直員)という名で古くからのキリシタンであり、また(イエズス)会に対して大いに功績があり、彼は地震の時には堺の市に住んでいたが、我らの司祭たちに宛てて次のような言葉を書き寄こした。
九月四日に、この(堺の)市で非常に大きな恐ろしい地震があり、三時間にわたって震動した。この時には驚くべき震動と地鳴り、それに家々や壁や屋根や異教徒たちの諸寺院の悲しむべき崩壊以外には何も聞かれなかった。そして屋根が他の家屋や樹木に倒れかかっていた時は、あの夜の時間に世界の全構造が揺らいだように思われた。翌朝光が差した時、人々はすべてのまったく狭い露路が〔交差している主要な道路を除いて〕、家屋や樹木や石や壁があらゆる方向に崩壊していたため、通行できる余地がないほど閉ざされてしまっているのを見た。昼夜を分かたず、男たちの叫び声や女たちの悲嘆の声や子供たちの叫喚を、大地の底や埋没した廃墟の凹みから助けを叫び求めているのを聞くのは哀れを催すにもっとも値した。しかし異教徒たちは、己が隣人に対して憐れむべき同情も内的な感情ももたなかったので、ただ富裕な人々や権力ある者たちだけが友人その他の人々の援助によって危険を逃れた。しかし他の人々はあらゆる援助を奪われて、空しく嘆息し涕涙し耐え難い叫び声を発して打ちのめられてしまっていた。人人は感覚を失い、かくも恐るべき光景を目にして悲しみに打ちひしがれ、あたかも放心したかのようにあちこちの道路を歩いていた。こうして彼らは何をしたらよいのか判らず、助けを願っている自分の妻や子供たちに対しても手を差しのべることができぬほどであった。すでに危険を逃れたある人々は、自然的な愛情によって子供たちといっしょに妻を連れて行くために家に戻って来た。しかし彼ら自身が(妻子)といっしょに家の残った倒壊によって押し潰され、こうしてついに誰一人として逃げおおせなかった。
その時、堺に滞在していた有馬ドン・プロタジオ(晴信)殿は、早朝にシナ使節を訪問しようと望んだが、通過すべき路が巨大な壁の倒壊や、材木や屋根瓦の無数に抛り出された堆積によって阻まれているのを見ると、道を進み続けることができぬほどであった。我らは遊撃(沈惟敬)のシナ人の使臣たちの中で(この地震で)二十名以上が死亡したことを知った。また数日前に届けられた書簡によって、我らは、堺では六百人以上が死亡したほどで、三時間にわたってのこの地震の震動で沈んだ諸建築物を五年間でも復元させることはできまい、ということを知った。
日比屋ディオゴ了珪はこの(堺の)市の最古参の非常に立派なキリシタンの一人で、賢明で信仰心篤く、(イエズス)会に対して立派な功績があり、堺の奉行ドン・ジョウチン(小西立佐)の義父にあたるが、彼は最近屋根瓦で葺いた三階建の家を新築した。ところで彼の邸は三十年このかた我らの司祭たちの集会の場所にあてられ、またミサ聖祭が行なわれ、キリシタンたちに秘跡が授けられる教会でもあった。しかしこの破滅的で混乱をもたらした地震が起こって一同が家々から逃げ出していた時、彼(日比屋了珪)はデウスヘの認識とデウスの諸々のことの感覚に頼った老人として、妻や子供たちや己が家で養っていた幾人かの孤児たちや己が孫たちを手で制し、その場を動かずに跪坐して家の祭壇の前で両手を天にあげて自分たちの身をデウスに委ねるように命じた。デウスはその父性的な御摂理によって、デウスを愛しかつ畏怖しているキリシタンたちを導き給い、両隣の家々はすべて倒壊したのに、祈りのうちに家族とともに留まった彼の家だけを無事にし給うた。このことは堺の異教徒たちに非常な驚嘆と恐怖を与えた。
以上が、我らがこれまでそれらの地方から聞いたことである。
長崎では、一度強い地震があったが、その後はずっと弱いか、または他所のと比較すれば、むしろほとんどないに等しいものであった。
加津佐から千々石への道中では、道は海からあまり遠くなく、また大部分が山道で凹凸の多い岩からなっている。そこで今度の非常に激しい地震では、そこでは多数の巨岩が裂けて破砕し、一部は海中へ落下し一部は道路を塞いで通れなくしてしまった。
有家(アリエ)の神学校(セミナリオ)は激しく震動したが、デウスの御加護によってすべての危険を免れ、我らの建築物で倒壊したものは一つもなかった。地震は夜間であったので、神学校の同宿たちはすでに寝室へ退いていたが、彼らは寝室の中央にともしてあった灯火が誰も手を触れていないのに揺れているのを見ると、その不思議さに驚いて非常に急いで空地へ飛び出したのであった。
肥後の国の矢部(ヤベ)の城市では、都(ミヤコ)の地方出身の或る古くからのキリシタンが頭目になっていて、彼が我らの(イエズス)会のことについていつもうまく面倒を見てくれた。そこでもまた大きな地震があったが、さらに地震に続いてやがて聞いたこともないほどの嵐が起こり、その最中に雲の中から六本の恐ろしい閃光が十ないし十二回ほどの彼の邸の周囲で起こり、わずか八ないし十ブラサ隔たったところに落雷し、また他の閃光は同じ回数ほど城下の各地に落ちたが、デウスの御加護によって誰も負傷したり死亡した者はなく、ただ非常に巨大な幾本かの樹木が裂けただけであった。
私がここまで書いてきた時、都(ミヤコ)から一人の非常に実直な男が来たが、地震が起こった夜には伏見にいた者で多くの驚くべきことを話したが、すべてを記述するのは冗長になるのでもっとも注目すべきことを少しだけ記すことにしよう。
彼はこう言った。九月七日夜十一時から十二時の間頃に、何らの被害も与えなかった中程度の或る地震の後に、非常に恐ろしく激しい別な地震が起こり、世界全体の構造が崩壊するように思われた。(地震)は使徒信経を二度唱えることができるだけの時間位しか続かなかったが、その時に既述したようなすべての破壊と災害が起こったのである。またすべてが突然に起こったので、人々は何ごとも記憶しなかった。その時この男は客人として、或る人の家の二階にたまたま遊びに来て眠っていたが、騒音で眼を覚まして逃げ出したものの、階段の第一段目に足を降ろした際に、階段は家屋全体とともに崩れ落ちてしまい、どうしてこのように突然倒壊したのか判らなかった。その後、家の召使いたちといっしょに屋敷へ帰り、倒壊した家の下敷きになっている主人を無事に救出したのである。
太閤は伏見の川のほとりに非常に巨大で固い石でできた、造作がすばらしくて非の打ちどころのないいとも観賞に値する高く聳えた碑を建てた。(地震の時)この(碑)は、川の貪欲さによって呑み込まれてしまい、その後には、同所には何もなかったかのように、いっさい跡形も残らなかった。川自体が非常な恐怖を与えたので、それを見るだけでぞっとさせるほどであった。川の波は天にまで届くかのようで、また無限の火がそこに潜んでいるかのように激しい轟音を立てながら噴出していた。(地震の時)人々は両脚で踏み留まることができず、地面に倒れてしまい、またあちらこちらへと棒のようによろめき歩いていた。人々は自分の目の前で地面が裂けるのを見て、生きたまま呑み込まれはせぬかと恐怖と戦慄を募らせていた。そしてこの種類の亀裂は都(ミヤコ)と伏見の間で非常に多く見られた。
しかし人類の敵は、魂の救済を妨げるべきあらゆる機会を少しも軽んぜず、今や太閤の心をいっそうひどく立腹させるべき絶好の機会、非常な好都合が与えられたと知ったからである。(太閤)はこの(地震での)事態でほとんど自制心を失い、また一部は脅迫と恐怖によって、また一部は憤怒と狂暴によって、すべての方向へ揺り動かされていたため、(敵)はいつも国王(太閤)の側近にいた幾人かの異教徒たちを我らの忌まわしい敵側にして、彼らは太閤を大いに喜ばせようとの希望を抱いて、彼にこう訴えた。(地震による)すべての荒廃と天下〔彼は日本国の君主である〕のもとでの人々の死亡は、デウスなる神仏の掟にまったく背きまた反している(キリシタン)宗門が、日本国に容認されたことに由来しているのである、と。彼らは短くではあるが、これらの言葉によって、(キリシタンの)デウスの真の掟(の容認)が、このように大きな災禍の起こりと原因であるので、このようなすべての福音の宣教と、その宣教者たちを日本国全土から追放するようにと示したのである。しかし殿たちの心はデウスの掌中にあり、また太閤は本性が賢明で判断力において鋭敏な人間であり、あらゆる風説によって各種の人々の勧めによって己れを欺瞞に導くことを少しも許さず、たとえ我らに対しての愛情または同情によって決して動かされることはなかったとはいえ、彼は次のように答えた。「汝らは何を言っているのか、判っていない。なぜならもしこれらのこと(地震の災禍)が我らの先祖の時代に決して起こったことのない、日本国前代未聞のことならば、汝らが主張していることは全き真実であると予は思うであろう。しかし歴史上の諸々の古記録によれば、当諸国においては大きな恐るべき地震と震動は何度も何度も生じたことが明白であり、その時にはかの連中(宣教師たち)はまだ日本へは来ていなかったし、かの(デウスの)律法については何も考えられていなかったのであるから、汝らはこうした理由で今回の事件(地震)の原因をかれら(キリシタンたち)に帰することができると思うのか」と。このように理屈にかなった回答に対して、かの地獄から来たような輩(やから)は、小声で呟くことさえあえてしなかった。このようであったとしても、我らはこの(太閤の)回答にはほとんど信頼を置いていなかった。なぜなら一つには、我らの同僚は教会のすべての存続と宣教とは、一人デウスの御摂理に依存していることを知っているからであり、また一つには、我らの同僚は人間の変わり易さがどのようであり、人間のもとではいかにたびたび有為転変が起こり、今日天上の高みまで上げられた人々を明日はこの上ない侮辱をもって地獄へ圧し沈めていることを知らぬわけではないからである。
太閤からの命令によって、都の市(まち)の中にある仏僧たちの全寺院と僧房が壊され、そして仏僧たちは市の周囲の濠の近くに別のを建てるようにされたことについては昨年報告した。(太閤)はこのことに関して、自分は二つの理由に動かされてのことであると言った。
一つは、仏僧たちが男とであれ女とであれ檀家の人々と厚い友情と親睦に結ばれ、そのため彼ら(仏僧たち)が心においてひどく怠慢で疎遠であることが、予の気に入らぬ。
もう一つは、仏僧たちは戦争の時は何らの働きもせず、武士たちの面倒も見てやらず、それどころか快楽と遊楽に耽っており、都(ミヤコ)で戦争があった時に、敵たちの怒りが第一に向けられるのは、彼らと彼らの寺院であるからである、と。
(太閤)は三百以上ある仏僧たちの寺院や僧房に対する総括的な監視と責任を(前田)玄以法印に委ね、彼をあたかも彼らの目付役に任じた。仏僧たちの管長たちは太閤の命令に従って、毎月行政長官に対するように仏僧たちによって犯された過失や罪科を(前田)玄以法印に報告し、必要であれば譴責や懲罰を加えられることができるようにした。彼らの寺院の多くは屋根瓦で覆ってあったが、今度の地震で多数の仏僧たちの死者を伴って倒壊した。すなわちデウスの正義はあの悪魔(サタン)のような諸仏堂内で行われた数限りない悪行や忌まわしい行為に対して懲罰を加えることを望み給うたのである。
不思議な兆候はここで終わってはいなかった。これまで我らによって詳しく述べられた六つ以上に第五番目の津波の不思議な兆候が加わっているが、それらの中で次のように非常にひどい崩壊を伴ったものがある。
都から一万二千歩隔たった、近江の国の比叡山(ヒエノヤマ)の麓に水の美しい湖(琵琶湖)があるが、その長さは六万六千歩、幅はある所では三千歩、ある所では六千歩ある。両岸は多くの町村(terra)で取り囲まれている。(湖)は多くの船や小舟で渡れるが、激しい強風が起こると船は波に呑まれてしまう。この湖の下手は多くの場所で水の大きな力が迸り出ていて、或る場所では非常に狭隘になっているので、(織田)信長は瀬田橋(セタノハシ)という非常に優美な橋を架けた。また川はそこで非常に深い淵となっており、淀(ヨド)(川)という別な川と合流して大坂の海に注ぎ込んでいる。地震があってから十五日後に、土砂降りの雨の後にこの湖水は非常に増水して、これまでたびたび長雨があって起こったとはいえ、人々の記憶にはかつてなかったほど、その自然の流れに抗する堰をはるかに凌いで#れた。(湖水)は非常な速さで膨れ上り、また激しい急流となって流れ始めたので、あっという間に田畑に浸入し家屋を倒壊し、稲の耕作地を守るために掘られた非常に深い潅漑溝をも満水させた。そして水は伏見にまで拡がり、この市(まち)では水によって無数の人々が#死する新たな災害をひき起こした。(洪水は)非常に広範囲に及んだため、都の広場や所有地を通行するのは、あたかも海の中を航行するようであった。このような日に、陸路で五十四マイル隔たった堺や、またそこから大坂へと出発する者はいなかった。
都から下(シモ)の諸地方へ行く時、谷間に下がった或る小道が通じており、明石(アカシ)という(かつて)(高山)ジュスト右近殿の所領であった所がある。小さな停泊港をもち、もし風が順風でない時は航行する船はそこに寄港していた。しかしあの(地震の)折りには海上に大きな嵐があったので、先の港へは、#によると、日本国にあるような、あるいは大きくあるいは小さい五十隻の船が停泊したが、それらの大部分は海水のこの怒り狂い制圧されぬ高潮によって、また荒れ狂う波のぶつかり合いによって盲滅法に衝突して粉砕してしまった。危険を脱しようと港を離れた船は、その途中に多くの渦巻があったので、同様に海の深淵に呑み込まれてしまい、一隻も逃避しきれなかったことは明らかである。この津波は海岸地域、すなわち海の他の岸辺に非常に近い所をも襲撃して、目撃者たちの言うところによると、多くの死者を出し、明石では三百名以上だったとのことである。
いかに頑固な心さえ圧し潰し、また打ち砕くために、デウスのこれほど明白で相次ぐ懲罰は十分であるに相違ないにもかかわらず、大いなる者も小さき者も、一同はすでに非常な苦しみを受けながら、人間たち、すなわち子供や両親や友人たちの、それに財産のどのような損失も受けなかったかのようであった。のみならず太閤はただちに壮大な諸宮殿の新たな建設に適当な場所を造成するために伏見で非常に高い山と谷の地ならしを始めた。(太閣)はこのために十万人以上の人夫を集めたが、彼らは耐え難い労働と悲惨この上ない奴役によって昼夜を分かたず諸建設工事に力を使い果たしている。
本年(一五)九六年十一月十六日付で、大坂の市に駐在しているが都の地から司祭某が太閤のシナ使節一行謁見の儀の模様を報告している。
太閤がシナ使節一行を謁見した次第
(司祭某)はこう言っている。この地震によって伏見の市(まち)、とりわけ城郭(propugnaculum)は非常に震動して荒廃したので、使節一行のための住居と謁見に適当な場所が残らなかったほどである。太閤は彼らを大坂で謁見することに決めたが、そこでは非常な震動があった唯一の(天守)閣(turris)と、山里と言われた或る屋敷と極楽橋(ゴクラクハシ)〔または楽園の橋とも言ってよい〕と言われ一万五千黄金スクードに値する非常な黄金で輝くいとも高貴な橋を除いては、地震のため城郭(propugnaculum)内には何も残らなかった。そこにはまた幾つかの小さな建物があったがたいして重要ではなかった。なぜなら他の諸建造物は千畳敷の政庁とともに倒壊したり、または何らかの害になるので国王(太閤)の命令によって倒壊させられ、その場所に他のより小さな簡略なものが建築され始めた。(太閤)は使節一行を謁見するために、倒壊した家々の廃墟の上に急ぎの工事で幾つか(の建造物)を普請するよう命じたが、すばらしく高価な敷物その他の必要な装飾で周囲を覆わせた。太閤は九月二十九日に政庁の重立った殿たちとともに大坂に赴いたが、使節一行に対しては「予は(陰暦)第八(九)月朔日(十月二十一日)に大坂で彼らを謁見に訪れよう」と伝えるよう命じた。
使節一行は八(九)月二十日に大坂から九千(小)歩隔たった堺から平坦な立派な道を通って出発したが、その道には堺の貴婦人たちが、道行く使節一行を見物することができるように幾層かの桟敷を道の両側に幾つか構えさせた。日本人は新奇なものを見るのに非常に好奇心が強いからである。
最初の隊伍にはかのシナの老人遊撃(沈惟敬)がいたが、彼は先に述べたように、正使の穴埋めに副使として使節の任を受け継いだのであった。彼の前方には三十八の大函と二十包みの贈物が運ばれ、後方には桧(ヒノキ)と言われる非常に輝いてすばらしく精巧な細工を施した木製の脚部のある百二十#が運ばれていた。そのすぐ後方には、渋い顔をして、他の人々の従臣と思われるような、平凡な外衣を着たシナの騎馬隊が続いた。
次の隊伍では二列の騎馬隊が四十本の旗幟を捧持していたが、その或るものは鮮黄色地に漢字で大書してあり、或るものは鮮黄色の文字で書かれ、或るものは深紅色地のままで何も文字は書かれていなかった。別の騎兵隊がこれに続いていたが、彼らの各々が非常に大書された額を掲げており、それらは示威の様相を呈していた。これらの後方に丸い棒を持って肩にゆったり担いでいる歩兵隊が続いたが、その或る者は剣を、或る者は槍を持ち、それに十ないし十二人の武装兵が続いていた。それから三本の巨大な日傘、その後方に鴬のような音色を出していた管絃の吹奏楽隊、それに戦闘的な小太鼓隊、また兜の形に似ているがそれより少し大きくて、太鼓のように棒をもって叩かれていた真鍮製の鐘の隊が続いた。楽隊に続いて二十四名の貴人たちが美しく着飾り、胸と肩をフリジア風の袍衣ですばらしくしていたが、幾人かは深紅色のダマスコ緞子を着用していた。そのすぐ側に遊撃(沈惟敬)の八ないし十人の官人(Quanni)たちが進んだが、彼らは大いなる権威ある人々で、シナ人たちのもとで顧問官のような役人の#章をつけ、一同はダマスコ緞子の衣裳を着ていた。彼らのすぐ後方に尊敬すべき老人遊撃(沈惟敬)が続いていた。彼は白くて長い髭を伸ばしており、毅然とした様子で、深紅の衣をまとい、天蓋の開いた轎に乗り、彼の両側面と後方をシナ人と日本人の多数の騎乗者たちの群が随伴していたが、(日本人騎乗者)たちは表敬のため使節一行に随行するために、大坂から堺に来ていたのであった。それから少しく間をおいてヨーロッパ風のような或る小さな輿が見られたが、その中にはダマスコ錦織の緋衣を着て鍍金で輝く唐の冠をかぶった四名の尊厳なシナ人に護られたシナ国王の冊書だけが納めてあった。このほかに六名の者が美しい袍衣をまとい、シナ人たちに用いられていた鍔(つば)広の帽子をかぶって随行していた。
〔加賀藩史稿 八〕
、永山近彰編纂、M32・4・5 前田直行発行、
(巻之一高穂公)、石川県立歴史博物館蔵 2−18 99、
閏月十二日。関西地大ニ震ス。伏見城尤モ甚シ。#壊レ。人畜死スル者算亡シ。、梵舜日記、慶長、日記、伊達日記、、十三日。是ヨリ先ニ熊本ノ城主加藤清正。、主計、頭、譴ヲ前関白秀吉ニ獲。公数/\其征明ノ功ヲ称シ。之ヲ赦サンコトヲ請フ。是ニ至リテ釈サル。、陳善録、国、祖遺言、、後チ清正ノ再ヒ朝鮮ニ赴クヤ。公馬二匹ヲ贐ス。清正感泣シテ別ル。、国祖、遺言、、十五日。能登ニ令シテ縄索竹釘ヲ伏見ニ輸サシメ震後ノ修繕ニ充ツ。、高徳公、判物、、二十二日。浅野幸長釈サル。、高徳公判物、、陳善録、、是月。前関白秀吉京師大仏殿ニ詣ル。公病ヲ以テ従ハス。、秀吉譜、、陳善録、、会/\人有リ。秀吉ニ白シテ曰ク加賀大納言反スト秀吉其誣罔ヲ知リ。縛シテ之ヲ送ル。公乃登営シテ謝ス。、陳善、録、、八月三日。書ヲ下シ。七尾市民ノ伏見ニ至リ震後ノ安ヲ候スルヲ嘉ス。、高徳公、判物、、是月。明使楊方亭、沈惟敬至ル。和既ニ成ルヲ以テナリ。惟敬ヲ我伏見ノ第ニ館ス。、国祖遺言、重頼、覚書、慶長日記、、公台旨ヲ受ケテ兵ヲ閲シ惟敬ヲシテ之ヲ観セシム。、国祖、遺言、、九月朔明使楊方亨、沈惟敬前関白豊臣秀吉ニ大阪城ニ謁シ。封冊及ヒ金印、衣冠ヲ献ス。公及ヒ内大臣家康以下。衣冠ヲ受ク。、石田三成等連署判物、○慶長日記、秀吉、譜、並ニ大阪ヲ伏見ニ作ル、是ニ非ス、、二日。前関白秀吉明使ヲ享ス。公及ヒ内大臣家康諸侯伯陪ス。、細川家譜、家忠日記、、既ニシテ冊文秀吉ノ旨ニ#ヒ。怒リテ再征ノ令ヲ下ス。、秀吉、譜、、十一日明使楊方享、沈惟敬帰国ス。、太閤記、、是月。侯伯ト同シク台旨ヲ受ケテ。伏見城ヲ更築ス。、貞山治家記、録、長家譜、、