(続撰清正記)三 続 大地震の時の事
本書にある大地震の夜、清正は夜咄常の如く致され、亥の刻過に閨へ入給ふに、いつも次の座敷に近習の小性共寝けるが、縁の雨戸を一枚たてずして皆ねけるが、ある者之を見て、誰か用所に行て跡の戸をしめずしてねたるぞ、開たる仁、起て立られよと云に、我は先に出たり、誰が跡に出たると、互に云合間に、皆寝入ける時、大地震俄にゆり出、中々夥布事にて戸障子の開らるゝ事にてなかりけるに、件の立ずして置たる雨戸の口より、清正も小性共も一度に大庭へ走り出ると、則其家ひしとつぶれたり、常の如く宵より立しめてをくならば、中々開る事なるまじき故、不残打詰らるゝにて有べきに、兎の角のと云て戸を立ざるは、清正常に鬼神を敬ひ、社祗の神を祭給ふに依て、天神地祗の擁護の眸を廻し御守給故なるべしと、冥感肝に銘じ給ふ事也、偖伏見の御城へ馳行、清正は城内へ入給ふ、供の侍共は皆城外の堀端になみゐけるに、何者の中ともなく、秀吉公も押にうたれさせ給ひて、御他界有たるとひそめきあへるとき、七ツの大鼓をいかにも押しづめて、常々の如く打けるを聞て、扠は秀吉公は何事も御座なきとて、諸人瞳と悦ける事也、此時歳廿二三程にみえたる若党一人、清正者共のゐたる所へ来り、我等は増田右衛尉者にて候が、用之義申付られ、使に城中より罷出候ひけるが、返事申べきため、色々ことはり申候へ共、ふつと御門を入不申候、大事の用にて候により、返事申さでは不叶事にて候間、あの崩たる石垣の上にのぼり呼り、城内より人を呼出し可申通候が、石垣の上に登りたる者をば、内より礫にて打とみえ申候へ共、申さで不叶用にて御座候まゝのぼり申候、礫にてうたれ申候とも越度にはなるまじきかと存候、各々へ断の為にと云けるを聞て、扠々若き御方の一段と能念也、たとひ礫あたり申候共、少も恥辱になるまじき儀也、後々におゐて、とかく申者ありとも、清正内、誰かれと云者共くるしからざる証拠に立可申と云て、彼仁石垣の上へのぼり呼りて、内より人出合て返事云通じたる事也、是は他家の者の事なれども、心得にもなるべき事なりとおもひ誌す也、此地震の時、日本へ帰られたるを、清正家にては中帰朝と云也、此節は、惣人数は朝鮮国に残し置て、近習の侍小性計、供に来る事也、はや太閤も、御居間を御出座有て、大庭へ出御被レ成、御敷物を敷、幕、屏風にてかこひ、大提灯をとほさせ被成、御座所へ主計頭つと被参候へば、太閤は女の御装束にて政所様、松の丸殿、高蔵主其外、上臘衆の中に交り御座被成候、然ども御声をきゝしり、はや御出被成たると悦、高蔵主々々々と、主計被申候、誰ぞと答候時、加藤主計頭是迄参たり、大地震夥敷候条、上様を初、おし、にうたれ御座可被成と奉存、はねはづさんため、二百人の足軽に、手子を持せ参候通、太閤様、政所様へ、被仰上候へと被申、其声を太閤様、政所様被聞召、扠々はやくも参たる物かな、気のきいたる者かなと太閤被仰、(、家伝、細川越中守、忠興より外には、、、一人も未だ、登城せず、、)政所様は、主計頭を御念比に被成により、様々の御挨拶なり、其時主計被申上は、高蔵主能聞召て上様へ可被仰上、主計事、此五六年朝鮮国へ被遣、数ケ度之合戦に大利を得、都への一番入仕、王王御兄弟官人等悉生捕、おらんかい迄押詰、猛威を振ひ、吉州表にて手を砕、かせんほにて、かくなみ十万の大将麻貴を、主計自身打捕、惣勢河へ追はめ悉打取、伝奏館にて手を砕、晋州の城一番乗をし、安康へ働、骨を砕し忠義は、少も不思召分、小西摂津守、数年の陣におくれを取、表裏を申上、和平仕段は不被聞召、治部めと中悪敷に付、種々讒言仕候を、誠と被思召、今又切腹すべきと、高麗国より被召寄候といへども、私誤り無之候へば、天道の加護可有之と帰朝仕、治部少輔め、ささへ申に付、腹を切せられんとの儀、只今共に三度なり、依無誤申開き、于今ながらへ申、今度の次第も、能被聞召候はゞ、越度なき段は、やがてしれ可申と、いかにも高声に被申しを、太閤も具に聞召候、主計事、此五六年以来、朝鮮国にて、炎天寒天とも厭はず、昼夜辛労仕故、日に焼、色黒くやせ衰たる姿を、太閤御覧被成、むざんと思召けん、御涙を流され候、其時主計、高蔵主に被申しは、夜中そばつら成体に候条、中門には我等者を付置可申と被申、高蔵主御前へ被申上といへども、未物も不被仰、御うなづき被成により、主計内加藤伝蔵、同与左衛門、和田備中、大木土佐、小代下総、出田宮内を付置き、主計不申断内には、誰をも通し申間敷と申付、其後治部少輔、其外奉行衆登城、中門にて留申時、治少なり、苦敷もなし通し候へと被申、主計者共申やうに、何、治部少輔などゝ云者が、今迄遅く参たる者かな、通すまじと云、治部被申は、誰か天下におゐて、この治部少輔を不知、門番は何者ぞと云、加藤主計と云、其時治部被申しは、主計は御前を御免か、主計者返答に、御前を御免被成間敷子細はいかゞと申を、太閤聞召、治部少輔通し候へと被仰により、主計申やうには、彼せいのちいさきわんさん者か、通し候へと被申に付、門を開、治部少輔も内へ被通候なり、其後何も諸大名小名登城に付、広庭もせばく成に付、太閤様、政所様、松丸殿をはじめ、各石垣之後築地犬はしりへ、挑灯を御上げ被成、其時太閤御諚には、いまだ御前をも御許なきものか、御前を取持候間、石垣より上には無用と、被仰といへども、主計はそれにもかまはず、かんきの下に立被居候、其時迄も何とも御詞もかけ給はず、然共何と思召けん、ちやうちんをとぼしあげ、主計を細々御覧被成御落涙、政所様松丸殿よりも、御上臘衆を被遣御前は大形事済しぞかし、細々御落涙被成候間、少も気遣仕間敷と被仰下、又内々治部少を何共思はず、主計に心よせの衆は、主計が科なくて、治部少にさゝへられ、難儀仕候を不便に被存、此様子を見、主計きわへよられ、心安被存候へ、主計無誤段は顕れ、かく御念頃に候上は、日本は神国なり、扠々目出度事也と詞を放て悦を被申衆多し、漸夜も明方に及候に付、何も下城すべしと仰に付、主計も退出。
御政所松の丸殿より主計処へ御使有、主計御勘気の儀はや相済なり、乍去主計程の者の御勘気を、御うらづたいにてめし直さる事は、世上の批判もいかゞなり、御表向にて、家康、利家杯執成を以、被召直候はんとの儀にて、只今広間へ出御被成、定而頓て可被召出候条、左様心得候て、進物など何にても上候はんと被存物を書立、御台所へ主計者を可指上との御使なり、然処に家康、利家より、使として、榊原式部大輔被参、被申は只今太閤御広間へ被成出御、主計事、被仰出により、御取合申上候へば、夜前早速罷出段、神妙に被思召、御前を被成御免、委は治部少輔、右衛門尉、徳善院より、可申来との儀なり、如案三人より三使来り、口上に主計頭数ケ条不届之儀雖有之、夜前早速登場、神妙に思召、御勘気を被成御免候条、早々致登城べきとの上意の旨なり、次に三人内証にて申様、上様、未筑前守殿にて、主計頭虎之助と申、御腰本にて被召仕候時のごとく、何事を被仰とも口答被仕まじ、今は一天下のあるじ、太閤迄御昇進まし/\候、古へのごとく不被存、何様の儀を被仰とも、謹而承畏て可然之由申、委細奉得其意との返事にて、早速登城。(後略)