Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J00006748
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/05
和暦 文禄五年閏七月十三日
綱文 文禄五年閏七月十三日(西暦 1596,9,5)
書名 〔耶蘇会日本年報〕
本文
一五九六(慶長元年)日本に於ける奇怪について
一五九六年(慶長六年)十二月二十八日
附長崎発ルイス・フロイス書翰〇一五九九年ローマ出版
アリマドノの伯父にてジョヴアンニと呼び古き切支丹にてかつ耶蘇会のため尽力せる人あり。此度の地震に際し堺の市に在りしが、われら伴天連の許に次の如く書き送れり。
「九月四日当市に於て恐ろしき大地震あり約三時間が程絶え間なく続けり。この間目に映るものとては、ただ人家壁屋根或は異教徒の寺院その他建物の倒壊する悽惨なる光景のみ。此等のものが樹木又はその他の家屋の上に倒れかゝりたる時、偶夜中なりしかば、恰も世界が根本より破壊するかと思はれたり、翌朝になりて見れば、数多の街路の交叉せる大通を除きては通といふ通は総て狭きが故に、到る処に倒壊せる家屋木材屋根石塀などの為に塞がれ、通行することも出来ぬ有様なり。昼となりては見る人の心を一入痛ましむ。夜中に叫び悲鳴を挙げし男女の声、幼児の泣けるは、地下に埋れてなほ命を有し、或は家の下敷になりたる者が助を求めるなり。されど異教徒達はその隣人に尽すべき憐憫の力を有せず、また同情の内的感動を有せざるが故に、たゞ友人を有し或は助を与へて掘り出し得る人々を有する金持、または権家のみが助けられ、危険を免かれたれど、貧しきものは声を限りに呼べど叫べどそれは聞かれず、すべての救も人の助もなく、命あるものも涙の中に呻吟と助なき叫の中に生命を終りたり。自己の痛ましさと目前の恐ろしき光景の恐怖に満たされ、人々は殆ど総て狂し他を顧るのいとまなく、助を呼べる妻子をさへ救ひ出すすべも知らざりき、最初の危険より遁れたる人々が、偶本然の愛情にひかれ再びわが家に帰りて妻子を救ひ出さんとすれば、己れより他の者は悉く死して生き残るものは一人もなかりき、」
当時ドン・プロタシオ・有馬殿は堺にあり、支那の使臣を訪ねんとて早朝出で行きしが、その家の前の道は倒壊せる壁によりて塞がり、その上には数限りなく木片瓦重りて、行くこと能はず、止むなく家に引き返へせり。イゥケキ(沈惟敬)の支那従者の死せるもの二十人以上なるを知れり。而してその後ある書翰により堺市にて死せる者六百人以上なることを知れり。市の破壊の甚だしき、地震が僅か三時にて破壊せるものを、新たに建つるには五年かゝるも十分ならずといふ。
ヂエゴ・フンムブリアリォクェイ(日比屋了慶)Diego Fimbria Rio−quei(最も古く立派なる切支丹にて慎深く徳高く神を恐れ耶蘇会のために尽し堺の領主ジョセッポ殿の義父)は瓦葺三階の家を造りしが、此家は三十年以上も教会として、はた我等伴天連の宿所として用ひられ、此処に弥撒が唱へられ、或は切支丹のため聖奠取り行はれたり。此度の恐ろしき地震の際すべての人はその家より遁れ出でたるに、彼のみは一人恰も神を識り聖き物の滅亡に遇ひたる古人の如く、己が妻と幼児と彼と共に居りし甥達を連れ外に遁れ出づることなく、その家に立てられたる聖壇の前に跪き神が加護を現じ給ふやう、また神を愛し神を恐るゝ切支丹を其の親の如き摂理に依って守り給ふやう祈を捧げぬ。彼がその家族と共に祈れる間に近傍の家は次より次へと倒れたるに係らず、その家のみは少しの損害を受くることもなく平然と立てり。洵に大なる奇跡にして堺の人々は驚きあへり。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
ページ
備考 [古代・中世] 地震・噴火史料データベースでは史料等級で分類しています。本データベースでは史料等級の低いものも表示しており、信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県
市区町村

検索時間: 0.001秒