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項目 内容
ID J00006739
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1596/09/05
和暦 文禄五年閏七月十三日
綱文 文禄五年閏七月十三日(西暦 1596,9,5)
書名 〔アビラ・ヒロン 日本王国記〕○大航海時代叢書
本文
この都の市(まち)には、昔から大仏Daybutと呼ぶ仏像があったが、九六年に起こった地震で倒壊したので、太閤様がもう一つずっと大きいものを作られた。もっとも倒壊したものも坐像でいて大きな松の木を越す高さだった。しかしいまなお存命である太閤の妻、現在では王国を失い、監禁された者として大阪U#aca〔M:Vzaca〕城にある公子秀頼Findeyoriの母が、造るのに三百万上の費用がかかったという、途方もない大きな仏像を造られたのである。これは坐像であるが、二十五ブラサ〔一ブラサは一・六七メートル〕を越える高さで、肩の上に男が立って物差を持った手をのばしても、耳のつけ根に届かない。腹の内部には四人の坊主Bon#osが、めいめい八パルモ平方の小部屋に住んでいる。あるエスパニャ人が、剣と短剣を帯びて、この像の鼻の孔からはいったことがあるが、それほどの馬鹿でかいものである。しかしこれはまだ足場が組んだまま残っていた頃だから、すっかりできあがる前のことであった。

九月四日、非常に激しい地震が始まり、幾時間か続いた。その後弱まったり、強まったりして幾日か続き、こうして、強弱の差はあれ、毎日毎夜ゆれ止まなかった。それは日本全土にわたる地震であった。もっともところによって、他の土地より一層はげしく、被害を被るということはあったが。なぜなら、日向の国では、上浜Humfamという一つの町は水びたしになって、人家は跡形もなくなったばかりか、その後海まで湖ができたので、そこを船で往来したし、現在も船が往来しているからである。

都Meacoと上Camiのその周辺の地域では、地震はことのほか激しかったので、家屋や城の多くが倒壊した。完成したばかりの太閤様の大邸宅も倒壊したが、これは一見に価するものであった。そこには畳Tatamis百枚敷の広間があった、なかには千畳敷だという者もあるけれど、私は疑わしいと思っている。これは接待、饗宴、それに夜宴に使うものであった。ところで国王は非常な危険に遭遇したので、人々は彼を死んだものと思ったくらいであったが、しかし事実は、丈夫な一室にのがれて、そこの出窓(バルコン)で奇跡的に生きのこったのである。ちょっと嘘のように巨大だった大仏Daybutの像も倒れたし、ことに都、大坂、伏見、堺、奈良、そのほか名の聞こえた都市では、まことに奢侈な、豪壮な神殿や寺院の多くが倒壊した。実に信じられないくらいの荒廃であった。なぜなら、何もかもめちゃめちゃになっていたし、人々もどこへ行ったらよいかも、どこへ避難したらよいかもわからないままに、心もそぞろに右往左往して、お互いに顔を見合せ、家財道具のことなどてんで眼中になく、ただめいめいが、どうしたらよいか、どこへ行ったら生命(いのち)がたもてるよすがが見つかるかが焦眉の問題であったが、その生命も、たとえば寺院とか、大邸宅とかで起こったように、ここなら一番安全に生命が助かると思っていた場所で、おびただしい人々が、生命を失ったのであった。また、そういう寺院や大邸宅は、およそひどい損害を受けたので倒壊したばかりか、何千何百という人々を下敷きにした。
それに、さきに挙げた都市は、その中でも特に都は広さも広大だったし、家々が密集していただけに、損害も比較を絶して大きかった。そこで、人々は田舎をめざして避難して行ったが、ここでも不幸は彼らについてまわった。それというのも、いたるところで地割れがしていたし、所によると地面がまっ二つに裂けているので、これまでの道路を通ることはできない有様だったからである。しかも、驚くべきことは、まだまだこれだけではなかった。それというのも、頂上から下までまっ二つに裂けた山地の割目に岩がごろごろしていたからである。しかも、もしもこのことを、権威と真実あまねき、穢れない生活を送る一人の修道士(レリヒオーソ)が真実だと保証してくれなかったら、わたしは、よしんば何千人の日本人がそう話してくれたところで、本当にはしなかったであろう。しかしフランシスコ会のパードレ・ジェローニモ・デ・ジェズース師が、あちこちでそれを目撃したし、多くの村落では、地震のためにできた濠を越えることができないので道が変わってしまったし、何でも川の水があたかもこね箱に入れた水を、急激に動かした時のように、はねあがり、盛りあがって、外へ溢れ出したので、川の近くの道路や家々に魚がうようよしていたということを、わたくしに保証してくれたのである。

太閤様Thaycosamaはさきに述べたように、宮殿の出窓へ逃げ、そこから出て庭園へ行き、その後、誰にも見とがめられずに、田舎へ行って、一軒の藁屋の中へ身をひそめたが、そこではかの有名な都市にいるよりもずっと安心していることができたので、ここでもし彼に信仰の光があったとしたら、立派な思索をすることができたにちがいない。地震は何日も、すっかり止むということはなかったけれど、少なくとも二十四時間は続いた地震が過ぎるやいなや、彼は極めて仲のよい、有力な、さる領主(セニヨール)の邸へおもむいた。そこでは彼がすでに亡くなったと思っていたのであるが、他の諸公へ知らせ、こうして喜びに充ちた諸公の訪問を受けたのであった。
この出来事で一つの、小さからぬ奇跡が出現した。それは、あんなにもたくさんの宮殿や寺院や、しっかりした邸宅が倒壊したのに、サン・フランシスコの天主堂、諸パードレの寝ぐら、貧民の病院などが、ちゃんと倒れもせず立っていたし、しかも大した損害も受けなかったということである。
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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