『府内旧記』に
「慶長元年丙申閏七月十二目七ツ時、諸国大地震あり。府内は海洋より大波を揚げ、神社・仏閣・大小民屋多く流失す。同慈寺薬師堂一宇を残すのみ。勢家村二十余町を距てて、瓜生島あり、或は沖ノ浜と云ふ。東西三筋に町を成し、農工商漁人居住す。此島悉く海底に沈没す。溺死を免れたるもの七分の一、流失家屋浮木標器に取付きて死を免れしものもあり、瓜生島及府内の死者七百八人なり。」
(中略)
『佐賀関史』に、
「慶長元丙閏年七月十二日地震海嘯大に至り、関神社の鳥居倒れ、海水社殿を浸し、崖岸は壊崩し、家屋は倒潰し、関より大在に至るの間、畑田の流没六十余町歩に及ぶ。」
さらに『稲葉家譜』にも、
「古老伝言。慶長元年丙申閏七月十二日大地震、海水溢陸地、没豊府沖浜之民戸十余町人多溺死。又曰此時潮水来臼杵原山麓、今川崎藤八重昌宅前之坂口、及高田郷家島人家之棟木、佐賀郷佐賀関神社之鳥居流去。云々。」