慶長丙申年閏七月十二日地震、海嘯大に至り関神社の鳥居倒れ、海水社殿を浸し崖岸は崩壊し、家屋は倒潰し関より大在に至るの間田畑及び塩田の流没六十余町歩に及んだのであつた。
此の年の地震は、謂ゆる「地震加藤」の名によつて、京阪伏見等の大惨状を想起せしむる者であるが幾んど全国に渉つたものであつた。豊後に於ては函#湾口に横はる長さ一里、南北二十町周囲三里の瓜生島が陥落したのも同日であつた、臼杵の市中亦海嘯に浸されて名状すべからざる惨害に罹つた。
宝永四丁亥十月四日亦た地震海嘯あり、人民海嘯を避け高丘に避難し漁船顛覆して死者五十三人に及んだ、家屋の倒壊は数ふるに遑まない。