而して此の落城の天正十三年十一月には大地震、津波の襲来といふ人異に次ぐ天変異変に遭ひ、此の地方は非常な被害をうけた。特にかつて繁華の要津であった、小豆島前方の田鶴浦は全く破壊せられ、絃歌の地は一朝にして荒廃せる漁村と化したり、と伝へられている。それより数年を経た天正十九年に、十三年の落城の際辛じて類焼をまぬがれた定頼の庵室を移して善福寺(仏願寺の前身)の創建をなし、僅かに宮崎氏没落の余情を留むるに至ったのである。
(○此の落城とは宮崎城が豊臣秀吉の義弟秀長の攻撃を受け落城したことをさす。)
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唯一五八五年(皇紀二二四五年)十一月二十九日、大地震があってつなみが襲来し、ために田鶴浦が荒廃して一漁村となってしまったことが記録に見えている。