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項目 内容
ID J00006008
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1586/01/18
和暦 天正十三年十一月二十九日
綱文 天正十三年十一月二十九日(西暦 1586,1,18)
書名 〔伊藤作太郎家文書〕
本文
(表紙)
「天正九年七月
木舟城落城書
東宮森
肝煎」
木舟城と館城の関係
館城主は木舟城主石黒太郎光弘の次男が宮森村に来り城を築けしを館城と称す
天正三年織田信長の下帥上杉謙信同年七月木舟城攻取り石黒譜木舟城主石黒又次郎光教直其子大炊助光が次男館城主又次郎光直兄が石黒左近成綱なり
天正九年七月十七日江州長浜坂田郡にて自殺、館城主も江州長浜佐和山にて自殺と有る此で見るに兄次男共に此地まで来て一命を終りしと、同九年石黒氏滅亡其後木舟城前田秀継城主となる、然る後に致り天正十三年十一月廿九日大地震の為地裂けて木舟城沈下する、其後秀継此地に再建せんと計画せしも弱地なる為諦め石動の山頂と決定をなし山頂を平になし最はや建ばかりになり処、病気に勝てず、それなりに終り一命を終りしと、其跡今日尚城山公園と残り亦山頂城山と名を残せり
住昔糸岡郷五社村に真言宗の寺有り宝憧院と称し円徳聖人開基にして七堂伽藍にして本尊は正観世音の霊仏なり、木舟城主石黒家代々の祈願所にし隆盛を極めたるものなり石黒氏滅亡後前田右近将監秀継木舟城主となり、尋いて天正十三年十一月大震炎あり寺院等は勿論堅固なる城郭も亦破壊し城主夫婦城中に於て卒去あり依て世子又次郎利秀石動城に移り父の如く采地四万石を領するに至れり、其後同十七年に至り宝幢院は城主のにより石動に移転し本覚山観音寺と称するに至れり、五社寺院の旧跡は水田となれも、今尚寺田と称し往昔を偲べり
出典 [古代・中世] 地震・噴火史料データベース
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