第六〇章(第二部七七章)
グレゴリオ(・デ・セスペデス)師が小豆島で行なった布教、および五畿内地方で生じた異常な地震について
(前略)
本年、(すなわち)(一五)八六年に、堺と都からその周辺一帯にかけて、きわめて異常で恐るべき地震が起った。それはかつて人々が見聞したことがなく、往時の史書にも読まれたことのないほど(すさまじいもの)であった。というのは、日本の諸国でしばしば大地震が生じることはさして珍しいことではないが、本年の地震は桁はずれて大きく、人々に異常な恐怖と驚愕を与えた。それは(日本)の十一月一日のことで、(我らの暦の)一月の何日かに当るが、(突如)大地が震動し始め、しかもふつうの揺れ方ではなく、ちょうど船が両側に揺れるように震動し、四日四晩休みなく継続した。
人々は肝をつぶし呆然自失の態に陥り、下敷きとなって死ぬのを恐れ、何ぴとも家の中に入ろうとはしなかった。というのは、堺の市(まち)だけで三十以上の倉庫(グドンイス)が倒壊し、十五名ないし二十名以上が死んだはずだからである。
その後四十日間、地震は中断した(形で、日々が)過ぎたが、その間一日として震動を伴わぬ日とてはなく、身の毛のよだつような恐ろしい轟音が地底から発していた。
地震がもたらした被害は甚大で、破壊された町村は数知れず、(その惨状は)信じ難いばかりであった。ここでは、それらの目撃者が後日、司祭たちに語った主なことだけを述べることにする。
近江の国には、当初、関白殿が(織田)信長に仕えていた頃に居住していた長浜という城がある地に、人家千戸を(数える)町がある。(そこでは)地震が起り、大地が割れ、家屋の半ばと多数の人が呑みこまれてしまい、残りの半分の家屋は、その同じ瞬間に炎上し灰燼に帰した。その火が天から(来たもの)か、人間業によるものか知る者はいない。
都では、若干の家屋と壬生の堂(ミブノドウ)と称せられる大きい社(テンプロ)が倒れた。我らの修道院(カーザス)は高い(建物で)あったので危険に曝され、キリシタンたちは倒壊しはしないかと大いに危惧したが、頑丈にできていたので、(我らの)主(デウス)は保持されることを望み給うた。とはいえ、それは他の家屋同様に(上下、左右の)震動を免れ得なかった。
若狭の国には海に沿って、やはり長浜と称する別の大きい町があった。そこには多数の人々が出入りし、(盛んに)商売が行なわれていた。人々の大いなる恐怖と驚愕のうちにその地が数日間揺れ動いた後、海が荒れ立ち、高い山にも似た大波が、遠くから恐るべき唸りを発しながら猛烈な勢いで押し寄せてその町に襲いかかり、ほとんど痕跡を留めないまでに破壊してしまった。(高)潮が引き返す時には、大量の家屋と男女の人々を連れ去り、その地は塩水の泡だらけとなって、いっさいのものが海に呑みこまれてしまった。
美濃の国には、日本でもきわめて著名な一城がある。同城にはかって我らの(同僚である)一司祭がいて、幾人かのキリシタンをつくっていた。その城は山上にあったが、地震が始まると、城と山は下方に崩れ落ちて、その跡には一面の湖が残るのみとなった。
伊勢の国にも大異変があって、(このたびの)地震と、その驚愕すべき破壊の中には亀山と称する城の倒壊も混じっていた。
これら上記の諸国では、巨大な口を開いた地割れが生じ、万人に恐怖をもたらした。その割れ目からは、黒色を帯びた泥状のものが立ち昇り、ひどく、かつ忌むべき臭気を放ち、そこを通行する者には堪え難いほどであった。
これらの地震が起った当初、関白(秀吉)は、かつて明智(光秀)の(ものであった)近江の湖のほとりの坂本の城にいた。だが彼は、その時に手がけていたいっさい(のこと)を放棄し、馬を乗り継ぎ、飛ぶようにして大坂へ避難した。そこは彼にはもっとも安全な場所と思えたからである。
(関白)の新しい建物と城は、ひどく揺れはしたが倒壊するには至らなかった。
(関白)は、大地の震動が四日も継続し、(人々の)恐怖と驚愕が鎮まらぬ間、奥方および自分の婦人たちを伴って館(カーザ)を出、御殿の中の黄金の屏風で囲まれた、ある地所に身を置いた。
その大坂では、関白の弟の美濃殿(秀長)の館が倒壊したが、その館はすこぶる頑丈、宏壮、かつ美しいものであったから、倒壊するなどとはとても考えられないことであった。
この(地震)が続いた間、(および)その後の数日間はこの話で持ちきりで、異教徒たちは、日々目撃することや、遠隔の地の(惨状)を耳にするたびに、言いようもない恐怖に打ちのめされた。だがその後、ごくわずかの月日を経てからは、まるで何事も生じなかったかのように、(地震)について話したり思い出したりする者はいなくなった。