享禄四年辛卯(天明三迄二百五十)年に成、十一月廿二日大雪ニて、降り積る事六尺亦ハ七尺程の所もあり、廿三日四日晴天ニて、又廿五日より廿七日迄時々ふりけり、然るに廿七日浅間山大きに焼出し、大石小石麓二里程の内雨の降ることく、中にも大原といふ所へ七間余の岩石ふりけり、是を七ひろ石と名付て、今に有、灰砂の降る事三十里ニ及べりとぞ、無間の谷といへるは浅間山を引廻シ、巌石峨々としておそろしき大谷なり、前掛山と云ふハ、焼山を隠して佐久郡に向ふ、鬼の牙山黒生山の間谷々右の大雪降り積りし所、焼石のほのふニて一時に消たり、又廿七日七ツ時より大雨となり、廿九日迄昼夜のわかちなく降りけれバ、山々の焼石谷々より押出し、麓の村々多く跡形なく流しとぞ、其後街道不通に成しを、其時の領主近郷へ申付、小石共かた寄、四年の間に漸々道普請せり、今ニ至り山の半腹街道すじ皆焼石のみなり、是ふりたる石にあらす 其時押出せし石也、
浅間山 M2 享禄四年十一月二十二日大雪のあと、二十七日に浅間山が噴火して泥流が発生し、多数の村が流された。街道を修復するのに四年かかったと史料は書く。ただし、この史料が書かれたのは250年後の1783年である。同時代史料はみつかっていない。七尋石は、蛇堀川の中流に現存する。