一四七五 文明七年 乙未 八月六日、大風雨、同二十五日広浦津波あり、との口碑あり。広八幡社石段三段目まで波が寄せ、井関の三船池まで海水が入ったと伝えらる。前田本山八幡社の棟札に「正廿五日本社八幡宮棟上大願主木氏朝臣大工吉行」とあり。十二月伊勢外宮より杉本光良供奉勧請、広南市場の大神社(お伊勢さん)である。広八幡社楼門隅肘木下に文明七乙未時……の墨書銘あり。(五五頁につづく)
〔淡路の歴史〕S52・4・10 大阪淡友会編・発行
M43・1・3 あはち新聞附録の図.
(群司注) 右の記事、明応年の誤か、このままで正しいのか不明。
一四九八 明応七年 戊午 六月十一日、更に八月二五日、紀伊水道、東海大地震津波来襲、広村も相当被害があったもよう。九月二日ごろまで余震つづく。