○伊勢渡会郡
(皇代記付年代記)
同(明応)七年戊午六月十一日丙子日未剋大地震、同八月廿五日己巳日辰剋又大地震に高塩満来而 当国大湊八幡林の松樹上を大船など打越て、長屋郷まで浪入と云々、仍大湊家数千間流失、人数五千余人死亡云々、
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野川原新田 野川原荒地は大湊領元田の旧地にして、志宝屋神社々域たりしが、明応の大地震に流亡して荒野となりしを、後田畑に開墾して、旧称により元田と呼べり、然るに明暦の海嘯にて再び流亡して、其中央流域となり、野川原に渡耕するの不便を生じたるより、荒蕪のまま放棄せしに元禄年代前樫原村の者松山となし、元禄年中に至り新田に開拓し、後又土路村より松を植ゑし由
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本町字明神明神西明神裏は、往古大塩屋村と称し、家数六七十軒を有し、悉く製塩を以て業と為し、両太神宮へ御塩調進せし所又其北に当る野川原新田、大口新田及び同附近は野川原村、中沢村、大口村と称し、元本町の出郷にして、農を以て専業と為したりしが、明応七年戊午八月廿五日地震津波に逢遭し、人家の流亡頗る多く、残存者僅に逃れて本郷に転住し、田畑は悉皆荒廃に帰せり
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大湊波除堤は俗に洲の鼻と称し、神都東海の一要害として、古来最も厳重に修理せしが、明応の大海嘯にあひて地勢一変し、以後頻りに怒涛の浸害を受けて、町民堵に安んずる能はす、四面河海の中に在りて天災地変を危惧し来りしに、宝永の大地震にあひて八幡宮域北方の磯山崩壊流失し去りて海となり、次で享保十三年七月九日の高汐に、波除囲四百五十六間、町並囲堤百三十三間全破損し、同十七年六月の大風雨高波に堤腹付石四百五十六間、上置三百八十四間潰崩し、天文三年八月六十八間小破、宝暦四年堤腹付上置共五百十五間破損、天明元年七月腹付石三百七十六間破損、天保七年八月小破、安政元年十一月地震津浪に東南端二十余間潰滅、同二年六月腹付石四百八十一間破壊、同五年七月大破、同六年八月小破、万延元年五月、七月両度腹付石四百二十六間余崩破せり、此の要害の被難に就ては、町民より官に請ひて工事費の補助を受け、微力を忍びて其修理を成せしが、享保五年大破の時、山田奉行保科淡路守公裁を仰ぎて修築費金千三十八両を下付せられしより以後、公儀普請と定められ、監督吏出張して修理を加ふることとなれり、享保後の大普請は宝暦四年の千三十三両、天明元年の千四百両、安政二年の九百九十両、万延元年の二千両等なりとす